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中学生の時、なぜ私の病気は看過されてしまったのか。そこには、兄の過去が背景にあった②

不登校になり、体調のわるい私を病院に連れていくわけでもない母が「ただ見守る」という行動を選択したことには、きちんと理由があったのだった。

私はいままで、なぜどう見ても病気の人間を然るべき機関にも連れていかず、ただ部屋の中で無為な時間を過ごしたのだろうとずっと思ってきた。
しかしその真意を16年経ってようやく知ることになる。

そこには、私の兄(長男)の過去が関係していた。
結論から書くと兄も私と同じような体調不良から次第に学校を早退、休みがちになり、最終的には兄は高校3年生を目前に退学してしまう。

”同じような体調不良”とは、腹痛や頭痛、朝起きられない、などの症状である。
当初は私のときと同じように内科、耳鼻科、脳神経外科へ行き、私と同じように器質的には特別問題なく、最終的には心療内科へたどり着く。
しかしここでも兄本人が通院したがらなかったという。
母曰くいい先生だったというが、それは母の主観であり、相性がいい先生かどうかを決めるのは患者本人だけなのである。
結果「そんな所に行かんでも自分のことは俺がいちばん分かっちょるけぇ」と、通院を拒否。ここが私とは違うところではある。

おそらくだが当時の兄は適応障害を発症していたのだと思う。学校から帰れば頭痛も腹痛も治まるのだ。

そんな過去の経験から、母は「本人が行きたくないというものを学校にしろ病院にしろ、無理矢理行かせなくても、本人が行きたいというまで待とう」と考えたらしい。
逆にそこまでよく辛抱強く待っていられたなと思う。
私はせっかちなので、誰かが弱っていたらすぐ一体なにが起こっているのかを調べて病院なり然るべき機関なりに連れていくだろう。

特に注目して欲しいのは、兄とは症状が確実に違うところがあった。
それは「人が怖い。笑われているように感じる」という所である。
そして私自身は病院自体に通うことが嫌なのではなく、あなたは病気ではない、と言い張る先生が嫌で行きたくないと言ったのだ。
当時は対人恐怖の症状のためにひとりでは診察を受けられなかったため、母も同室に居たはずで、母自身も「あの先生いけすかんね」と言っていた。

しかし兄のことがあったため、病院に行かないなら行かないで無理に学校に行く必要もない、とここで「見守って」しまうのだった。

見守るということは容易くない。
しかし、タイミングや期間が適切でなければならない。
当時の母には病気に対する知識もなく、調べようともしなかった。
「見守る」というコマンドは失敗し「見過ごす」にすり変わってしまったのだ。

ここで適切な行動が取れていれば、私はもう1年早く社会復帰し、高校受験に間に合っていたかもしれない。
全日制の高校へ通っていれば、いまとは全く違う人生を歩んでいただろう。
しかし私はそこに関しては、もういいと思っている。
他人には経験できない貴重な体験を積むことができたからだ。
すべての人間は過去でできている。
私は自分の過去に感謝している。

さて、ここまでで母がなぜ私を丸1年も「見過ごし」たのか、そこに兄の過去が深く関わっていることが判明した。

そうなると今度は、「兄はなぜ体調不良になり、退学まで至ったのか?」という疑問が湧いてくる。

実はこの話は母や兄からちょこちょこ聞いてはいたのだが、今回改めて母に取材しなおし、まとめることにした。

母と私のしょーもない父とは再婚同士である。
母は周りの反対を押し切り、兄2人を連れてしょーもない父と再婚。
私が生まれたのが結婚してから約1年後だという。それまでは血が繋がらないものの、父親として息子たちとキャッチボールをしたり、可愛がってくれたという。

しかし私が生まれてから態度は急変。私を溺愛する一方で、兄たちへの態度は辛辣なものへと変貌を遂げた。さすが伝説の親父である。典型的すぎて辟易とする。ほんとしょーもない。

長男中学1年生、次男が小学生5年生のときに私がおぎゃあと生まれた。

中学1年の長男は、友人たちが通う塾へ自分も行きたいと申し出る。
場所は家から自転車で40分程度のところだろうか。
少し遠いが、仲の良い友人たちが通っていたのと、お菓子やお茶を出してくれたりとアットホームな雰囲気だったらしい。

塾は夜9時に終わる。自転車で通うが、仲のいい友人たちと一緒なので、帰りは楽しく話しながらゆっくり帰ってくる。
田舎なので帰り道にコンビニとかゲーセンなんてものはない。

すると、中学生のくせに帰りが遅い!とのことで、次第に父親の機嫌が悪い日が多くなり、門限が10時に設定される。
そして「あと何秒…」と数え、たった数秒遅れただけでも殴って叱咤したという。
母が「遊びに行っとるんやないし、ちょっと遅くなっただけじゃぁね!」とかばうと「子どもの肩を持つんか!お前がそんなんやけ子どもがこんなんなるんじゃ!塾なんかやめてしまえ!」と母もぶたれる。

親が子どもの肩を持たなければ、子どもはいったい誰に肩を預ければいいというのだろうか。そんな家が嫌で、兄は次第に門限を守らなくなり、殴られれば「なんするんか!!」とくちごたえし、ほとんど友人の家で過ごすようになり、自分の家には寄り付かなくなった。
そうすると父の機嫌はよけい悪くなり「連れ戻してこい。お前が甘やかしすぎなんじゃ」と、とにかく己の意見がすべてだった父親にグチグチ怒られたという。
さすがあの伝説の親父である(2回目)。

兄は塾に3年間通ったものの、弟の成績があまりよくなかったため、仲のいい友人が多く志望しており、自分も一緒に行きたかった県内屈指の公立高校から「確実に行ける公立高校」にレベルを落とすことになる。

ここで母は「もし落ちても私立に行けばいいんよ、と言ってあげたかったけど、次男が公立に行けると思ってなかったけ、子どもに挑戦させてあげられんかった」と後悔。

後の兄曰く「絶対受かる自信があった」らしい。それだけに兄の悔しさがわかる気がするし、そこを受験していればまったく異なる人生を歩むことになっただろう。

長男に対しては母から”どこか遠慮を感じるな”と、私は昔から思ってきたし母に指摘もしてきたのだが、行きたい高校の受験をする機会を家庭の都合で奪ったこと、そのせいで志望していなかった学校へ行くことになり、更には家庭環境も滅茶苦茶で、そのせいで体調不良、退学にまで追い詰めてしまったことを悔恨し、自分が生んだ子どもであるのに”長男にはどこかぎこちない接し方しかできない”というのが母の中にも無意識のうちにあったのだ。

自分が再婚し、新しく子どもが生まれたせいで血の繋がっていない父親からは理不尽な暴力や暴言を受け、親の都合で受験したい学校も変えねばならなかった。

そしてそれを申し訳ないと思いながらも、膝を突合せて話し合いをすることや謝罪することができずに今日まできたので、我が子ながら遠慮してしまうという、なんとも不甲斐ない母親である。

子どもを守らねばならぬ存在である保護者が、理不尽に子どもを振り回し、その理不尽から守ることも謝ることもできない。

そしてそれを私にいま指摘されているのである。
この話はもう少しつづく。

次回、同じころ、次男はどうだったのか。


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