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Episode 114 「あとがき的な、なにか」

自分の人生の基礎が作られたオーストラリアでの生活について、まとめて何かを語っておきたいという気持ちは前々からあり、仕事の合間に暇を見つけては、そういう文章を少しずつ断片的に書きためていた。

つまりこれら記事(Episode001Episode113)は特に誰かに頼まれて書いたものでもなく、最初から自発的に、いわば自分自身のために書き始めた文章だという事になる。

記憶がある内(または、都合の良いように記憶が塗り替えられてしまわない内に)に、それを書き留めておくことで、今後も頭の中で様々なシーンやエピソードを再生できる様にする為に書いたのである。

これら記事を書いていて改めて気付いたのだが、記憶とは、実に曖昧である。しかし、その曖昧さが、人生を少し豊かにしているのではないかとも思う。

思わずニヤニヤしてしまう想い出や、何十回と話しても毎回笑ってしまう様なそんなエピソードなど。

つまり、記憶とは多くの場合、あくまでも自分にとってプラスに働く内容として、憶えられているケースが多いと感じる。嫌な(または自分にとって都合の悪い)記憶はしっかりと忘れられる様にできている。脳みそとは実に都合がよく、また、優秀である。

2024年の今になって、1996年~2010年までの14年間に及ぶオーストラリアでの生活を振り返ると、様々な感情が湧いてくる。

非常に濃い内容の14年間であったことは確実である。そして、この14年間を通じて感じたこと、学んだことなどは自分の血となり肉となっている。

英語という言語を習得することができたことに関しては、現在仕事をする上でも非常に役に立っている。

しかしながら、オーストラリアでの生活を通じて最も価値のある体験となったのは、「世界の広さを身を持って感じることができたこと」ではないかと思う。

尚、もちろんの事であるが、住んでいる国により、その人が偉いだとか偉くないということが決まるわけではない。これは間違いない。しかしながら、良くも悪くも、どこの国に住んでいたかにより、その人が「経験する内容」は大きく異なる。

どの言語で生活をし、どの様な人種が(自分の)周りにいて、どの様な文化に触れ、どの様なカルチャー(またはサブカルチャー)に接触し、日々どの様な事を考えて生きてきたかのかなど、その内容は大きく異なり、またその経験の深さに比例して(その人の)人間力も異なってくると思われる。

個人的には、オーストラリアという国で生活することができて非常に面白い人生になったと強く感じている。良くも悪くも、今の自分は、オーストラリアでの生活を通じて得たものがベースになっていることは間違いない。

ほい、おしまい。

会社で撮影してもらったのだが、なんかすっごいアホな人みたい。まぁ、アホなんだけどね。だから、まぁ、良しとするか。


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