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『吉本隆明の言葉と「望みなきとき」の私たち』(瀬尾育生 言視舎 刊) または〈吉本隆明とミシェル・フーコーの世界認識のその後〉~その1


 この本が上梓されたのは、2012年9月30日となっている。今世紀の希代の思想家であり、かつ詩人、文芸評論家として明晰な足跡を世界の思想界に残した吉本隆明が、珠玉の大衆の1人として、見事にその寿命を全うしてまだ半年、そしてあの東日本大震災から1年半という時期にこの書物は刊行されている。解説者でありインタビューの解答者でもある瀬尾育生は、若いときから鮎川信夫や吉本隆明、北村太郎などの日本を代表する第一級の知識人と言ってよい、戦中派詩人や思想家、評論家が、属していた荒地派を評価し、鮎川信夫論なども物している、自らも詩人としても著名な独文学研究者である。またインタビュアーは、同じく前記の荒地派の知識人たちの著作物に通じている佐藤幹夫である。東日本大震災から一年後に吉本隆明が亡くなり、要するに私に言わせれば、世界の思想や言論の世界をまさに震撼させた、二大事件が起こった直後に間髪をいれず、この本が出版されたように見えたので、書店で見かけると躊躇なく買って帰り、自分の仕事の合間が来るのも、もどかしく急いで読んだことを覚えている。それから10年たったが、その間に、(と言っても最近だが、)何度もこの本を開いては、少しずつ反復する読みを重ねて現在に至っている。瀬尾育生の上げた、吉本思想の論点は、幾つかあるが、ここでは後期吉本思想の世界像の到達イメージと具体的な事件、例えば、9.11を筆頭に世界のなかで起きている戦争に対する見解や大震災後の原発廃絶やオウム事件についての吉本隆明の見解に対する瀬尾の理解の仕方について考えてみたいのだ。というのも吉本隆明が亡くなってから後の言論の世界の中に、現在の世界民衆の置かれた状況やまさにいま現存する危機の勘所について言及する人間が一人もいなくなったように感じられるからである。もちろん、様々な事件に対する神経症的な反応や大上段から世界の行方を論ずる抽象的な言説は時折見られるが、正面からある具体的な事件に対する、真摯で率直な対応がどこにも見られないからだ。わたしの見える範囲では、たとえ政権担当勢力になるには程遠いとしても、唯一、山本太郎代表の率いるれいわ新撰組のみが、今後の日本社会の行方や現在の有り方、またそれらを放置する事によって現出するマイナスイメージに対して、思いつく限りの判断をし、処方箋を考案し、同時に彼らの反対勢力や政治に無関心な一般の投票者(顕在的な世界民衆)や、やや知識的で政治的な世界民衆に対して、数少ない真摯な対応をしているだけだ。

 ところで詩人瀬尾育生も、通りすがりに過ぎない一読者の私などからみても、吉本隆明の思想は、1980年代後半以降大きな転換を強いられているようにみえた。当時の吉本隆明の著作を上げれば、フーコーとの対談集=「世界認識の方法」や「マスイメージ論」が上梓された時期にあたる。現実に起こった事件を上げると、〔カウンターカルチャーへの評価をめぐっての鮎川信夫や埴谷雄高との離反や決別の論争〕が起こった頃から〔ベルリンの壁崩壊〕前後の時期にあたるだろう。『吉本隆明は、転向した。』彼から見ればとるに足りない敵対論者からすぐにそんな声が上がった。昔からの吉本の熱心な読者の中にさえ(だからこそ?)『吉本は、変節した。こんな吉本隆明にはついていけない』、などと否定的な声が上がった。一方の吉本隆明は、当時いろんなニュアンスで『世界の方が今までにない大きな変わり方をした、しかもそこには人間社会に歴史的な変遷を促す現実的な必然性がある』というような意味の発言をここ、かしこで行っていたという記憶がある。

 ここでは、複数回に分けて、この書物の吉本思想の読解に沿って、吉本思想の現在的な意義に触れ、次に現在の国家社会像と吉本隆明が、生前に触れた具体的な幾つかの事件に対する見解を検討し、現在生起するきな臭い世界イメージの背景やその行方を切り開いてみたい。

 瀬尾育生などが言及する、吉本隆明の自身の(世界)思想に対する重要な変更点は、彼の擁してきたヘーゲル→マルクス系統の思想の主要な構成要素からの離脱やその揚棄や更改と言ってよい。それは、一つにはマルクスの経済思想からの離脱、また二つには下部構造と上部構造という概念の関係性の否定的な乗り越え。三つには歴史的な段階論の部分的な更改である。

 1.現在の生きている思想から眺めるともはや一般的な結論と言ってもよいのかもしれないが、ヘーゲル→マルクス系統の経済思想は、ほぼ破綻壊滅したと言っていいだろう。ロシアや中国や北朝鮮などの社会主義や共産主義社会を目指す現実的な国家が、単なる傲慢な巨大権力管理システム国家に過ぎないことが、誰の目にも明らかになっただけではなくて、現在の世界的に政治的な党派の左右イデオロギーが、無化され脱色されていく過程にあるからだ。また現実的にも生産から消費(吉本隆明が言うところの遅延した生産)の方に、経済的な再生産や拡大に向かう推進力が移行してしまったからである。もはや社会的に消費をいかに喚起し拡大するかが、経済的な成長の鍵になっていることが、誰の目にも明らかになっていると言わざるを得ないのである。

 2.さらにマルクス(というよりエンゲルス以降のロシアマルクス主義)の自然哲学を背景にして、経済社会を人間に対する自然環境に置き換え、それらは下部構造として、上部構造としての観念の世界(あらゆる思想)を規定しているのだ、という考え方の否定的な乗り越えである。後者は吉本隆明の「共同幻想論」によって成就された。具体例を上げるなら、1960年代までの日本や現在の中国やロシアのように、どんな先進的な社会環境や経済システムの上にも、迷妄な政治思想や前近代的な政治的イデオロギーをいただくことは、可能だからである。

3.最後に地球上のあらゆる国家は、狩猟や放牧を基幹産業とする原始自然的な(アフリカ的な)段階、主に稲作中心の農耕社会を基幹産業とするアジア的な段階、工業を基幹産業とする近代的な段階、第三次産業(通信、運輸などのサービス業)を基幹産業とする現代的な段階へと変遷してゆく、また前者の国家群は、いずれも必ず前記にあげたどこかの段階にあるという考え方。これは現在の地球上の社会を分析するには、大変便利な思想アイテムだったのである。何故なら現存する国家社会(つまり空間的な意味合いの国家社会)は、その社会の基幹産業によって歴史的な(時間的な)ある段階にあるし、またある歴史的な(時間的な)段階にある国家社会は、現在の地球上のどこかにある(空間的な)国家社会とイコールなものとして考察することが可能になるからである。そして吉本隆明は、これらの段階論を全的には否定するのではなく、前記の前後関係に優劣を認めず、段階という概念から進歩という意味内容を取り去ったのである。

 以上が、瀬尾育生が解釈した吉本思想の現在的な姿であり、わたしの吉本の世界思想への理解もほぼ同様である。ただ私たちは、20世紀後半の世界思想界の巨人、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を中心とする考古学的な手法を擁する世界思想をここに付け加えておかなければならないだろう。もちろん瀬尾は、フーコーの思想の重要性にも、また吉本隆明の思想に変更を強いた可能性にも言及している。

 わたしの理解では、一言で言えばフーコーは、3に述べたヘーゲル→マルクス系統の歴史的な段階論を否定し、現実的な国家をあるがままに置き直したと言ってよいだろう。すなわち考古学的な地層の重なりとしての世界史をみた場合、現在の国家という切り口でその地層を観察すれば、それらの国家は、その地層のどこかに位置するが、この地層の塊を90度回転させれば現在の国家群の見取図として見ることが可能になる。これらのことは、フーコーが、主著『言葉と物』の中で、〈思想の役割とは、隠されているものを取り出して見せることではなく、すでに見えているのに誰もが見ていないものにスポットを当てることで、改めて可視的にすることなのだ〉と述べている、まさにその言葉にオーバーラップしてくるのである。

 もちろん吉本隆明の思想もまだその命脈を終えてはいない。彼が、ヘーゲル→マルクス系統の思想から取り出してみせた二つの重要な要素、即ちマルクス思想の〈疎外〉という概念(あらゆる存在にまつわる原生的な疎外と意識を有する存在になることによって生ずる疎外)とヘーゲル思想の要である時間性と空間性の交換(置き換えの)概念は、いまだ現在の世界思想に至るための重要な理路となっているからである。

          (この項続く)





 






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