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【自己紹介】発達障害だけど理想の未来を手に入れる

はじめまして、SOと申します。
41歳になった2023年、
複数の病院で見てもらった結果、


ADHDとASDの傾向が、
両方強いとの診断を受けた、
発達障害野郎です。


診断結果を受けた瞬間としては、
ショックは、まるでなかったです。
逆に「安心」した印象が残ってます。


うちの家は、どうやら父親が自閉症で、
その父の父も自閉症。


母親は過去にパニック障害を発症し、
今も電車に乗れなかったり、
遮光カーテンを使えなかったりします。


そして妹の旦那はADHDで、
妹の子供もADHDで薬を飲んでて、
妹もうつ病やら、なんか怪しい。


そういう環境で暮らしてたからか、
僕が能天気だからか知りませんが、
障害者のカテゴリーに自分が属している
とは思わずに暮らしてきました。


とは言え、
何をしても続かない、
人間関係も満足に構築できないので、
我ながら"変な奴"だとは思っていました。


超かんたんな経歴みたいなもの

・中学生から高校の途中までイギリス留学
・中学、高校、大学、全部中退
・多摩美術大学中退→吉本nsc(東京)卒業
・小説とシナリオライティングを学習
・30歳まで約30程度のアルバイトを経験
・30歳以降ネットビジネスを開始
・41歳にて発達障害と診断される
・理想の未来に向けた働き方を開始




発達障害と診断されたことによる変化

発達障害の診断を受ける前と後とでは、
比較にならんほど、
考え方が変わりました。


自分にとって
ストレスに感じる一切の人間関係はいらない。
楽しく過ごせる人間関係だけでいい。
仕事も向いてないことは一切やりたくない。


実にシンプルに、
そう考えるようになりました。


診断前は、
生活のためには、
ある程度、「我慢」しなきゃでしょ?


みたいな思考、
が残っていた気がします。


今は一切ありません。


どーせできねえんだろ?
だったらそんなものに
時間を費やしても時間の無駄


もう十分試行錯誤したさ
それでも、うまいことできんかったんだから、
その道は、降ろしてもらうぜってなもんです。


理想の未来について考える

「こっから先は俺の好きなように生きさせろ」
「ふざけんじゃねえ」


診断後の僕は、
謎に怒ってました。


周囲と同じルールで戦ってたと思ってたのに・・・
俺だけハードモードだったのか?
だったら、そんなゲームに
そもそも参加してなかったよ!!


みたいな感情です。


僕は元来、
ポジティブに物事を捉えてきましたが、
診断直後は、
あらゆることに、後悔しました。


自分の特性を踏まえた上での
「人間関係の構築」「仕事の選択」が
果たしてできてたのか?


今まで読み込んできた、
色々な本、
自己啓発系の本の数々・・・


発達障害の僕に
役に立ったのだろうか?
無駄だったんじゃないのか?


診断後1週間くらいの"後悔期間"を経て、
感情は徐々に落ち着きを
取り戻していき、


前向きな思考が
戻ってきました。


発達障害らしいけど
残りの人生をどう生きればいいのか・・・


そもそも僕はこの社会で、
"自立して"生きていけるのだろうか?


てか、今死んだら、
なんてつまらない人生だったんだ
って思うだろうな。


自分にとって理想の未来って
なんだろう・・・?


残りの人生、どうなったら
僕は幸せを感じるのだろうか??



好きなことに
好きなだけ没頭できて!

好きなときに好きな人と
好きなだけ!!
どこにでも お出かけできる!!!

もっと色々な経験をする!
己の人生を燃やし尽くして
楽しみたいぜ!


色々考えた結果、
僕にとっての理想の未来は、
だいたいこんな感じ。



それを実現させるには、
何をすれば良いのかな?
発達障害の僕でも手に入るのかな?


頭の中は、
"その質問"でいっぱいになっていきました。


嫌な人間関係に悩まされることなく、
自分がほしいだけのお金を得られる方法。


自分が稼働していなくて、
一度完全に作ってしまえさえすれば、
仕組みが自分に代わって稼ぎ続けるような方法。


自分は重度の発達障害らしいけど、
今までの経験を活かして、
思う存分、自己表現できるような方法。


理想の未来から逆算すると、
上のような形になるはずだ。


そんなふーに、"理想の未来"
について考え始めて間もなく、
note経由で、ある女性の発信が目に留まりました。


発信者のトップページには、
無料レポートが掲載されていました。


「無料レポートかぁ」


10年もネットビジネスをやっていると、
"無料レポート"に、
一切の新鮮な感情はありませんw


どうせ、
それっぽいこと書いて
核心部分は出さずに
"どこかに誘導"されるだけの内容でしょ?


なんて感じで、
かなり冷めてたんですが・・・

気まぐれだったのか、
心の奥で内容に期待してたのか、
僕はダウンロードして
読んでみる選択を取りました。


すると、予想に反して、
無料レポートに書かれていた内容は、
僕の心を大きく揺さぶるものでした。


僕が手に入れたいモノ、
それなんだよ。


そのやり方なら、
発達障害の僕でも出来そうな気がする。


この発信者の感覚は
僕と近い気もする・・・。


冷めていた心は、一気に燃えあがり
結局僕はあっと言う間に
一切迷うことなく、
彼女の「5万円の動画講義」を購入して


そこに書かれた内容を愚直に
実践する決意をするのでした。


諦めなければ、
必ず成果は出せる。10年ネットビジネスを
やってきた僕が知ってる真理です。


だから僕は、今回も諦めずに行動を続けて
「理想の未来のため」に成果を出し、


発達障害でも大きく稼いで
自由な生き方ができることを
示そうとたくらんでいます。見とけw


発達障害の診断を受けようと思ったきっかけ

7年ぐらいネットビジネスを一緒にやってきた、
師匠兼・パートナーのような人物Aがいました。


彼は僕とは全く違って、
社交性があり、
誰とでも仲良くなれる能力を持っていました。


そんな人物とも
僕は結局うまく関係を保てず、
揉めて疎遠になってしまいました。


今から思えば、
生きてきた環境の全く異なる二人が、
逆によく「7年間」も繋がって、
いられたなと思いますがw



当時(1年前)の僕は、かなり効いちゃいました。


一週間くらい
まともに御飯が食べられません。


どんどん痩せて、
鏡で見る顔は、
頬がこけて、
瞳に力がまるでない。


同居していた母にも、
あまりやらない泣き言をしました。
「うまくいかんかもしれん。どうやって
お金を稼いで生活していったらいいのか、
もうわからんわ・・・」と。


長い間、ネットビジネスをする上での
師匠的存在だったAを失った僕は、
そこではじめて冷静に考えました。


Aは、上記の通り、
僕とは全く異なる生命体。


ぱっと見、良い人そうなオーラ全開。
誰の懐にも入っていける。


関係を構築して
仲良くやっていく上では、
そんなに難易度の高い相手
ではなかろう(一般的には)と
思ったものです。


そんな人間とも
上手く、関係性を構築できねーのか・・・


ポジティブシンキングで生きてきた僕にとって、
人生初とも言えるほどの
絶望感に打ちひしがれました。


自分の未来を考えた際、
たった一人で、誰とも関わらずに
仕事をして成果を出せる自信
などありませんでした。


器用、不器用、
で、ヒヨコみたいに分類すれば、
秒で"不器用の箱"に
ぶん投げられることでしょう。


僕が長いこと見てきた
ネットで稼ぐ世界において、
ある程度の「器用さ」は必須スキルのように
感じていました。


更に、この世で生きていくには
他人と共存しなければならない
でもどうやら僕にはそのパワーも、
もしくはそれを形成する脳
も足りてないかもしれん・・・


友達も片手で足りるほどしかいない
向こうから積極的に連絡があるでもない
年にたまにしか会わないような関係値
数年異性との交流もない、未婚の40歳・・・


ネガティブ思考の嵐、
色味を帯びていた明るい未来も
一切見えなくなって・・・


頭がくらくらしました。
もう何も考えたくない。


靴下は子供のコロからどこかに勝手に散歩する。
常に揃わなくなるから、
色は一緒のを買うようになった。


友人関係になって、
相手の心を察したつもりでも
実は察せてない。関係ない所を勝手に
考えて勝手に察したつもりになってるだけ


そういった発想の飛躍とか、
発想のズレを面白がってくれる人も
中にはいる。もっといれ!


一通りぐるぐると考えた結果、


そうか。
個性や性格だと思ってたけど、
世の中的には、変、障害に該当するのか?俺は?


ネトフリで
自閉症が主人公の「ユニークライフ」を見ても、
"わかるな〜"の場面が多いのは


そういうことか??w


Youtubeでたまたま見る程度の
知識しかない「発達障害」でしたが、
40歳を過ぎてはじめて、


長い付き合いのビジネスパートナーと
こじれて縁が切れたのをきっかけに


自分もそれなのか・・・と思ったのです。


と同時に、
いっそ、障害でいい、
障害として認めて、それでも
生きていけるようなイージーモードを
俺に、用意してくれ頼む


って感じで病院に行った気がします。


発達障害エピソード①(学生時代編)

僕は、中1から高1まで
イギリスに留学していました。
理由としては、
中学がとてつもなく嫌になったから。


「どこか別の場所に移れないなら死ぬ」


的な物言いで、親にごね倒したそうです。
そのセリフは全く覚えてませんが、



中学に通う日々がとんでもなく嫌で、
休みの日に、中学の生徒、
に目撃されることさえ嫌がっていました。


挨拶挨拶挨拶

中学校に入ると、
小学生のときにはなかった
挨拶の強要が
始まりました。


そりゃ挨拶は大事でしょうよ。
しかしそれはその人物が体内から、
対象者に向かって"挨拶をしたい"


とする感情が生まれたときに、
自然発生的に行えばそれでいいわけで、


したくもねえときに、
他人から強制させられてやる
ようなことじゃねえだろ??


てのが中学生当時の僕の考えでした。
基本的には42歳になった今でも
似たようなものだし、


あとは、「顔の向き」とか「声のトーン」
も僕は地味に気になります。


今住んでる所の住民の老婆が、
たまに挨拶をするんですが、
大概、後ろ姿をこちらに向けている。


前方に人間は存在しないので、
先に僕を視認した老婆が、
後ろ姿の状態で僕に挨拶
をしているんだろうと、
推察するんですが・・・


いらねーよ
そんな誰に挨拶してるかも
不透明な挨拶なんかよ。
とマジで思ってます。



またトーンもつまんなそう、
不愉快そうにするならいらねえし、
言葉も不明瞭なら
じっと黙っといてくれたほうが、
良い朝を迎えられる
と真面目に思っていたりします。


・・・話を元に戻しますが、
なもんで、中学校教師からの謎に高圧的な
「挨拶の強要」には辟易ってか、
殺意すら芽生えた気がします。


僕は遅刻ギリギリに登校するようになりました。
そうすることで、挨拶しないこと
を咎められることは回避できるからです。


代わりに「遅いぞ」
と担任に言われるようになりましたが・・・。


部活でも挨拶です。
下級生は上級生に挨拶をする。
挨拶をしなければならないらしい。
「なんだそれは?」
当然、僕の態度は怒られることになる。


たかが1学年上というだけで、
ずいぶんと高圧的かつ、
暴力的な振る舞いをする、
バカも目についた。


「なんだあのゴミは」


同級生たちは
その凶暴性におびえて、
挨拶したり機嫌を取ろうとしている。


「なんだそれは」


部活中、水飲み場で、
おふざけで友達の顔に水をかけるように
蛇口をひねって遊んでいたら


サッカー部の顧問に
きつく叱られた。いじめがどうだとか、
なにかで。


「友人間の交流の仕方に
かんけーねえお前が口挟んできてんじゃねえよ」


いずれも、
心の中で思っていただけで、
言語化はできてませんでした。


当時の僕には、
言語を的確かつ速やかに形成するスキル
もなければ、それを相手にまっすぐぶつける
勇気も存在しませんでした。ただただ、
ストレスを体内に溜め込んでいく日々です。


だから、好きだったサッカーであるはずなのに、
部活に顔を出さなくなっていきました。


軽薄な同級生がしつこく、
部活をサボっていることを咎めてきました。
「部活をサボったかサボってないか」
しか見てねえお前に俺の何がわかるんだ?


圧をかけてくる中学教師。
他人に圧をかけて下に置くことで、
自分のクラスでの立ち位置
を上げようと躍起になる同級生。


何がおもろいんか、
さっぱり意味不明なことで
ケタケタ笑う女衆。
何もかもが気に入りませんでした。


地図の色塗りは、
周囲を囲ってから塗れだとか、
自転車は二人乗りするなだとか、
目を見て話せだとか、靴下は両方同じ色で、
自転車はこのタイプで登校だとか、


うるせえことを
次から次に並べ立てやがって
なんなんだよこの現場はこの地獄はよ。


成人して大人になった今の目線から言えば、
別段、めちゃくちゃな要求
をされてたわけじゃなさそうですがw


当時の僕は、強制とか意味不明な指示、
ルール、納得感がなければ、
一切受け入れられませんでした。


ちなみに「納得感」に関しては、
今でもそれがなければ聞き分けは悪いです。
ただ、その説明が不十分でも、


言ってくる相手の価値基準において、
重要なのだなそれは、
と多少なりとも理解できれば、
妥協できる程度には成長しました。


中学の地獄から
逃げるようにイギリスに渡りましたが、
それで全てがハッピーに裏返ったかと言えば、
当然、そんな甘い話はあるわけもなくw


まず、
ホームステイ先で揉め倒しますw


長年付き合いのある家族なら、
僕が干渉されることを嫌うし、
機嫌をすぐに悪くすることを知ってるから、
それを踏まえた対応を
それなりにしてくれてたと思いますが、


ホストファミリーはんなこと知らないし、
国柄なのか積極的に、
こっちと交流をしようとしてくるし、


パーティがあるからだとか、
友人に髪切りがうまい人がいるからだとか、
3時にティーを飲むだとか、


僕のペースお構いなしで、
色々なものに参加させられました。



Noと言ったり顔で表現していたはずですが、
一切通らず、次第にムカついて
乱暴な行動を取り始めたように記憶しています。


あと中学生当時、なになにをしてくれる、みたいなときの
空気感にも嫌気を覚えていました。


母親と、英語が得意な親戚の人がいるとして、
その親戚の人が渡英前の僕に、
その場で英語レッスンをしてくれる、
みたいな流れ。


母「良かったわねー」
暗に感謝しなさいみたいな雰囲気。
乗り気じゃないと僕が悪いみたいなノリ。


「どうなってんだよこれはよ」と思ってました。


まず、
「俺がやりてーかどうかが先だろうがよ」と。


俺が頼み込んだときにはじめて、
そのレッスンが発動し、
役に立った有り難いと心底思えば、


自然と顔と言葉に乗るだろうが感謝の心がよ、
それでいいじゃねえかめんどくせえ。


・・・とまあ、
客観的に見て非常に扱いにくい、
お前がめんどくせえよ
と言いたくなる中学生だったと思いますw


こんな奴ですから、
イギリスにいっても、
帰国して日本の高校に編入しても
どこにいっても、


自分の中に発生するイライラとの戦い、
それを毎日毎日ひたすら繰り広げているような
感じでした。


高校中退してフリースクールに入り、
劇団員の講師がいたおかげで、
演劇を学ぶきっかけがありました。


体内に湧き上がる感情の出し方、
そんなものの一端を
演劇から学んだような気がします。


その後一浪して多摩美術大学に入りましたが
一年もせずに中退しました。
いくつかの講義を受けたはずですが、
何一つ心を沸き立たせられるようなものはなく、


演劇サークルで新人公演に出演できた、
くらいの思い出しかありませんw


その後、東京nscに入ってコンビ組んで
芸人をやってみたりだとか、
シナリオライティングを学んでみたりだとか、
小説を書いたりだとか、
いくつかのチャレンジをしましたが、
飯がくえるだけの根気も実力もなく、


そうこうしているうちに、
30歳を迎えていました。


小説は、
なんとか無理やり原稿用紙300枚くらいを書いて
なんとか本当に無理やりといえる形で
完走できましたが、
たった一個書いただけでは、何にもなりません。


理解したことは
「向いてねえな」ってことだけ。


こんな鬼長距離走、
やってらんねーわ、と。


原稿用紙10枚しか書けないとか、
原稿用紙と向き合うだけでギブアップ層
からしたら、1個書き上げただけでも
拍手だと思いますが、


食ってる連中はおそらく、
息を吸って吐くように、
日々、小説と向き合い創造してるんだろうな
と思い、諦めました。

発達障害エピソード②(バイト時代編)

17歳頃、地元のスーパーの畜産コーナー?
みたいなとこからスタートした僕のバイト歴は、
30手前にして、20~30程度にはなっていた
と思います。


とにかく続かない、長くて2年。
最短は、9時スタートで昼休憩前に消える。
辞めるときはほぼ無言、連絡なし、ただ消える。


本当に我ながら最悪というか、迷惑な野郎ですw
その辞め方を咎めるような手紙が、
家に来たことも何度かありました。
でもそんなこと知ったことではありません。


「こう言っただろ?」
「何度言ったらわかるんだ?」
「それわからない?」


よく怒られました。


22歳の頃、
ピザーラで配達員をしていました。
10ヶ月くらい続いたのでしょうか。


最初は、トレイニーで、
だいたい2,3ヶ月してスタッフに昇格
するんですが、


僕だけ結局辞める最後まで、
トレイニーでした。
舐められたものですってか、
ミスが多いから信用されてなかったのか。


近所のスーパーに買い物の使い
を頼まれたことを覚えています。
メモに買うリストがある。


しかし、店に戻った僕は、
リスト通りに買うこと、
に失敗してしまいましたw


まあまあ、
理由は単純に
別のことで頭いっぱいだったから
だけなんですが、


頼んだ側にすりゃ、
「なんだこいつ、こんなこともできないのか」
って話になりますわな。


あと、
教える人物によって言葉のニュアンスが違う、


「え、ちょっと前言ってたのと違うじゃんよ」
「どういうことですか?」
「こういうことですか?」


と確認すると鬱陶しがられる。
じゃ、いいんだな?
俺が思う通りにやっていいんだな?


そういう逆ギレ的に実行すると、
大概あってなくて、
それで更に怒りを買うみたいなw


和民でナスを切るように命じられました、
「適当に切ればいいから。」


僕の中の適当を実行したら、
事細かく怒られました。
最初からそういえやてめえ。
貴様をナスのように刻んだろかえw


3日と持ちませんでした。


ドミノピザでは、バイク運転中「股を開くな」
と先輩に命じられました。態度が悪いと。
どうでもいいだろそれは。


好きに乗らせろや。
お前みたいな細けえ人間の戯言
に耳を傾けてるだけでも良しとしろや。


こんなことの連続です。
一応、僕を養護するために言っときますけど、
20年くらい昔の話をしていますよw


今の自分は、断じてこんな横柄でもないし、
常に怒りを内在している人物
では全くありません。

転機 コンビニのドア粉砕事件→修行開始

2011年9月頃、
僕は警察沙汰のトラブルを起こします。


コンビニ店員の態度が気に入らず、
前蹴りでドアを蹴って外に出ようとしたのですが
そのまま脚がドアにめり込み、
ドア1枚を粉砕してしまったのです。


予想外の出来事に僕は一旦走って逃げました。
蹴った脚は、ガラスのせいで血だらけ、
そして冷静に考えて
これは現場に戻って謝罪しないと駄目だと思い、


コンビニに戻るとすでに警察が来ていました。
警察の車のなかで起きたことを説明して、
その日は帰りました。


後日コンビニから連絡があり、
どういうわけか、費用などの請求は特にないと、防犯カメラで見たときに
コンビニ側にも非はある的なことで。


数週間後、コンビニは閉店となりました。
閉店が決まってたから請求されなかった、
のかもしれません。


その事件をきっかけに、
僕は考えを改めることになります。
自分の中に抱える発火装置、
ストレスのたびに激しく燃えている。


このまま制御不能になったら、
自分だけじゃなく、周りの人、
特に家族に迷惑がかかってしまう。


今回だって一歩間違えれば、
逮捕されてたかも?
これはいかんということで、


事の経緯を母に話たところ、
知り合いに住職がおるからってんで、
話を聞きにいき、
そして修行させてもらえることになりました。


「感情を感情で
コントロールしようとしても駄目」


住職の教えのなかで、
特に印象に残っていることです。


修行の大半は「呼吸法」でした。


修行当初は呼吸?
なんだそれは普通にしてるし、
意味あるのかそれ?的な感覚でしたが、


やればやるほどに
自分の中の体感覚が変化していき、
そのときはじめて、自分の体内の状態が、
密接に精神とリンクしていること
に僕は気付いたと思います。


それ以降、高岡英夫氏が発明した
「ゆる体操」および、その理論を、
積極的に学習し、実践を繰り返しだしました。


2012年頃のことです。
それ以後、自分でも驚きですが、
感情が爆発して自分がトラブル
を起こしてしまったり、
トラブルに巻き込まれてしまうようなことは、
一度もありません。


冷静に判断を下したつもりだったが、
金銭的に損害が出てしまったみたいな「失敗」は何度かありますが、


コンビニのドアを蹴破る的な、
暴れん坊はなくなってしまいました。


こうして
次第に感情制御がうまくなっていったことは、
ある意味で、発達障害の発見を遅らせたと、
僕は認識しています。


なぜって、困ること、
ストレスがかかる場面が減っていったからです。


それでも冒頭に描いたような、
人間との付き合い、複数人、仕事の関係、
サラリーマンみたいな連中との付き合いは、
ゆる体操と呼吸法を持ってしても、
うまいことできませんでしたw



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