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万葉を訪ねて ―序の13 シズムママ―

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23年住み慣れた北八丁堀から日本橋浜町へ。百坪あまりの土地を借りて母屋と隠居家を建てた。母屋は弟子の出入りや生活の必要から作ったに過ぎない。目的は隠居家にある。

長年の有識故実の研究から古代の住居を再現したもので、四畳半の書斎があるばかりの小さな建築であるが、これこそが真淵の信念が具現化された形であった。

万葉の歌人の生活感覚まで思いが及ぶ者にしか万葉の研究は為し得ないものだという、彼の学問への確信を論理的に延長すれば、実際に生活する所まで行き着くのは当然であった。


明和元年甲申の長月13日、隠居家の落成記念に弟子たちを集めて歌会を主催した。そこで真淵は次の5首を詠んだ。

秋の夜のほがらほがらと
天の原照る月影に
雁鳴き渡る
こほろぎの鳴くやあがたの
我が宿に月かげ清し
訪ふ人もがも
あがたゐの茅生(ちふ)の露原
かき分けて月見に来つる
都人かも
こほろぎの待ちよろこべる
長月のきよき月夜は
ふけずもあらなん
にほとりの葛飾早稲の
にひしぼり酌みつつをれば
月かたぶきぬ


以下は近代の歌人が5首を評した言葉だが、実際にこれらの歌が詠まれた現場にいた加藤千蔭にしても、万葉調を感じさせながら師の体臭が濃厚に漂う姿に、師の歌風の完成を感じざるを得なかっただろう。

「真淵一代の作のうちの傑作であり、万葉調が自然に作者と融合してしまつて、その間に寸分の間隙が無くなつてしまつてゐる」(斎藤茂吉『近世歌人評伝』より)
「この一連を移して萬葉集のうちに入れて見ると、萬葉の歌ではない。似てはゐるが、まぎれはしない。やはり彼の臭ひを濃厚に持つた彼の歌である」(窪田空穂『近世短歌研究』より)


真淵にとって歌を詠むこと(万葉調の詠歌)は、歌を読むこと(万葉集の研究)の必須条件であった。

いかに研究の対象から遠く距離を取っているか、研究の対象と無関係であるかを、己の研究の客観性の証明と誇る近代的な学問、とりわけ自然科学の方法を範として発達した人文科学と、対象に没入し味わい生きようとする真淵の学問は好対照をなす。

己と無関係な対象、好きでもなく楽しくもない対象なんぞに、学問する動機の生じようがないではないか。あるとすれば金銭や名誉を満たすだけのことだろう。そうだとするなら何と不健全な動機だろうか。


「知る者は好く者に如かず、好く者は楽しむ者に如かず(論語より)」とは、江戸時代に立派な仕事をした学者たちにとって自明のことであった。

知るとは「領る」だ。支配することだ。「知事」という言葉にその用例を残している。支配するとは対象を客観的に観察することだ。対象と直接に関わらないで遠くから眺めて分析することだ。               

好くとは玩ぶことだ。字典を引くと母が子を負う姿を形象化したものとある。対象と関わってはいるものの一方通行の関係である。        

楽しむとは対象と親しく会話することだ。宣長は「考ふ」という言葉の語源をこう記している。「か」は意味のない接頭辞で「むかふ」ということだ。学ぶ者の身(む)が学ばれる対象と交わる(交ふ)という意味である、と。


真淵は全身で万葉集と交わり楽しみ尽くしたひとで、そのゆえに偉大なのである。このことは、その万葉解釈の正確さや独創性よりも、彼の偉大さを測る尺度として大事なことなのである。

真淵は誰よりも万葉集を味わいこれほど味わい得る書物であることをはじめて明かし、生涯の理想を「万葉を生きる」ことに定めたひとだ。古代風の隠居家は決して趣味や遊びで作ったのではないのである。その独特極まりない学びの姿に日本中が驚いて、俺も、私も、と彼に続いた。それが国学である。

真淵からすれば単によく味わっただけのことが、世間をこれほど賑わし彼に偉人の地位を与えたのだ。そのことが私には実に愉快な光景に思われる。

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ちなみに私が以上の5首よりも遥かに好きな歌は「美酒の歌」だ。これもこの時期に詠まれた。

うまらにをやらふるかねや (旨い酒を飲むことよ)
ひとつきふたつき (まあまあ一杯、二杯)
ゑらゑらに (ニコニコとして)
たなそこうちあぐるかねや (手を打つことよ)
みつきよつき (よしよし三杯、四杯)
ことなほし (言葉がまっすぐになり)
こころなほしもよ (心も素直になることよ)
いつつきむつき (まだまだ5杯、6杯)
あまたらしくにたらすもよ (天地を満たすことよ)
ななつきやつき (ほれほれ7杯、8杯)



さて、この隠居家を真淵は「県居」と称した。そこから発展して県居大人(あがたゐのうし)とは真淵の代名詞となった。本項の最後にこの言葉の意味について考えてみたい。

県居の名は、真淵の遠祖が京都の賀茂神社にあり賀茂神社の神官の姓が「県主」であったことに因むとされる。さらにその古代風の隠居家が田舎風でもあったことにも因むとされる。

これが通説であるが、私は真淵ほどの学者が自己規定としての家号をその程度の理由で定めるわけがないと考えている。真淵は県居の名に、もっと豊かな含蓄を込めているに違いない。


「あがた」とは辺境の意味である。反対語は「みやこ」である。江戸、即ち東都に住まいながら辺境に居るとは、いくら田舎風の隠居家を作って住まったとはいえヘンな話だ。これは精神的な意味と捉えるべきではないか?

「おのれ三十年以前、東都へ下りし時、異端とて憎みしを、操改めずして十年ばかり経るほどに、その憎みし人、多くは来て門下に入れり」

これは宣長宛ての書簡にある言葉である。宣長が新古今を真似た歌ばかり送って一向に万葉調の歌を送って来ない理由を真淵が尋ねたところ、古くからの友人もいることなので簡単に歌風を改められないとの返事をしたので、真淵が怒気を含んで語ったのがこの言葉である。

私が30年前に江戸に来た時、江戸の学問界は私を異端とみなして憎んだ。それでも私は初志を改めることなく己の道を進んだ。その結果10年ほど経ったころには私を憎んでいたはずの人々の多くが私の門下に入ってきたのである。それなのにお前の言い訳はなんだ?その友人とやらの歌風を改めさせるくらいの覚悟でなければ学問などやめてしまえ。


真淵は宣長を叱る形を借りながら実は己を語っている。

つまり、県居とはアウトサイダーの心構えを意味するのである。異端であり余所者であり反逆者であることを真淵は恐れなかった。かといって、アウトサイダーであることに満足も安住もしなかった。

己の学問こそ正統であると確信すればこそ、厄介者として白眼視されようが全然構わなかったのである。江戸市中の人々は真淵が古代風の隠居家に住まうのを奇矯(eccentric)な振る舞いと見ただろうが、真淵からすれば学問の正道から外れている(ex-centric)のは、朱子学の徒を始めとする学問を生活としていない学者たちの方だった。

どんなに迫害されても操を改めなかった真淵にしか味わえない幸福な一夜が訪れた。それが冒頭の明和元年甲申の長月13日の歌会だった。そう断言しても大きくは間違えていないだろう。

県居という、一般的には田舎風の家屋という意味にしか受け取られていない言葉を以上の意味で捉え直せば、次の歌も違ったニュアンスで捉えられるようになって面白いと思うのである。

あがたゐの茅生の露原
かき分けて月見に来つる
都人かも

月


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