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  • 万葉を訪ねて

    賀茂真淵「万葉考」について書いております。

最近の記事

万葉を訪ねて ―万葉秀歌十選 <下> 古を懐かしむ歌2首―

前回はこちら↓ 前項の最後の歌も半ばそうだったが、本項では古を懐かしむ歌2首を採り上げる。2首ともに近江大津宮の旧都跡を訪ねて感じた所を詠んだ歌である。 古代日本人にとって中大兄皇子が大化の改新を起こして蘇我氏が滅び、天智天皇となって現在の滋賀県大津市に遷都し崩御すると弟の大海人皇子と息子の大友皇子が対立して壬申の乱が起こり、大海人皇子が勝利して天武天皇となり都を飛鳥に戻すまでの一連の流れは、社会の大変革期として強く記憶されていた。 だから、近江国大津の荒れ果てた旧都跡

    • 万葉を訪ねて ―万葉秀歌十選 <中> 恋と哀しみの歌4首―

      前回はこちら↓ 真淵の師とされる荷田春満が、恋歌の価値を認めなかったのは序の5で述べた通りであるが、真淵は恋歌をどう扱ったのだろうか? 幸いにも「万葉集巻二之考」の冒頭に言及があるので引用する。 「或人万葉には相聞(※ 恋歌の意)のたはれ事(※ 戯言の意)多きぞといへるこそおちなけれ(※ 愚かであるの意)、皇朝はよろづのゐや(※ 礼の意)もまことも生れながらそなはれる国なれば、その天地のなしのまにまに治め給ふに、古の君が代いよよ栄え給ひて民平らけかりし、生としいける物の

      • 万葉を訪ねて ―万葉秀歌十選 <上> 四季を味わう歌4首―

        前回はこちら↓ 「万葉秀歌十選」という題は誤解を招くかも知れない。 私はこれから紹介する10首の歌を万葉歌中の最上のモノと考えているわけではない。それに万葉歌の優劣について批評する資格があると思うほど思い上がってもいない。 あくまでもここに試みるのは、真淵に導かれて万葉歌をよみ、歌の心と真淵の味わい方の両方に感動した歌を抜き出してみる、ということに尽きるのである。 なお、叙述は原則として詞書(意訳を施した)原文(真淵が「今本」を採らず「一本」を採用した、あるいは真淵自

        • 万葉を訪ねて ―総論6 聖典として読むこと―

          前回はこちらから↓ 万葉集大考は、万葉集全体への解釈(総論)を終えると「くさぐさの考」と称して、諸本の校合や文字の解読といった研究項目ごとの成果を述べ始める。 私はこれを「各論」と翻訳した。 各論の性質上、総論ほど緻密に読み解く必要はあるまいから、本項で一括して感想を綴ろうと思う。ここでも面白いと思ったことだけを記す私の方針に変わりはないので、真淵の万葉観を語る上での難問である「巻序論」を中心に述べる。 巻序論とは、現行の万葉集全20巻の順序に対して真淵が抱いていた疑

        万葉を訪ねて ―万葉秀歌十選 <下> 古を懐かしむ歌2首―

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        • 万葉を訪ねて
          25本

        記事

          万葉を訪ねて ―総論5 作家論と人麻呂との出会い―

          前回はこちら↓ これまで4回にわたり、万葉集大考の総論部分で真淵の精神が刻んだ足跡を丁寧に辿ってきた。今回は「総論の5 作家論」を扱う。(10~13頁) だが、その前に真淵の足跡を今一度振り返っておきたい。 古代の歌はひとの真心の発露であり、現代の歌はひとの仕業である。このことを真淵は長年の万葉研究の中で発見した。この発見に導かれて歴史を眺めれば、古代のありさまを知るには古代の心を知らなければならず、古代の心を知るには古代の歌をよく味わうことが何よりも肝要であることが判

          万葉を訪ねて ―総論5 作家論と人麻呂との出会い―

          万葉を訪ねて ―総論4 歌風の変遷―

          前回はこちら↓ 真淵本人の章立てにおいては、歌風の変遷と作家論をセットにして第4節となっているのだが、それだと少し長く都合が悪いので分割する。今回は時代ごとに歌風が変遷していることを明かした箇所「総論の4 歌風の変遷」を扱う。(9~10頁) 万葉集の歌風は大きく4回変化しており5期に分けられるという真淵の指摘は、学者によって多少の誤差はあるものの、「令和」の命名者・中西進を始めとする現代の万葉学者たちにも受け継がれている画期的な学説であった。 「いとしも上つ代々の哥は、

          万葉を訪ねて ―総論4 歌風の変遷―

          万葉を訪ねて ―総論3 古代の歌の本質―

          前回はこちら↓ 今回扱う「総論の3 古代の歌の本質」は、万葉歌の性質について多面的に論じた箇所であり万葉集大考の中でも特に重要な1節である。(7~9頁) 理路の大枠としてはまず万葉歌の観賞法および学習法について述べ、次に古代の歌と後世の歌の性質についての比較を行い、最後に儒学からの批判(歌は趣味に過ぎず天下国家の役には立たないこと)に反論しつつ、万葉歌を学ぶことで得られる効用を論じたものである。 「いにしへ人の哥は設(もうけ)てよまず、事につきて思ふ心をいひ出しなれば、

          万葉を訪ねて ―総論3 古代の歌の本質―

          万葉を訪ねて ―総論2 古代の理想と現代の批判―

          今回は「総論の2 古代の理想と現代の批判」について。(4~7頁) 前回はこちら↓ まず、前節「総論の1 万葉集をよむ意義」の議論を振り返ろう。 真淵は古代のありさまを知るのに歴史書を以てするのは不十分であり、古代人の心のありさまに心を寄せねば古代史なんぞ只の形骸であると断じた。そして長年の味読から万葉歌は真心の発露であることを発見し、そうであるからには古代のありさまを知るために最初にすべきことは古代の歌から古代の真心を知ることであり、その真心が現代に失われた高い精神性で

          万葉を訪ねて ―総論2 古代の理想と現代の批判―

          万葉を訪ねて ―総論1 万葉集をよむ意義―

          本項から6回に分けて真淵の主著「万葉考」の序論にあたる「万葉集大考」の、総論部分に潜り込もうと思う。 序論はこちらからどうぞ↓ 万葉考という長大な書物は冒頭に序論として万葉集大考を掲げている。万葉集大考の構成は総論4節と各論10節から成り、総論は真淵万葉学を集大成した万葉集全体に対する解釈を、各論は訓法や校合といった研究項目ごとの成果を、それぞれ論じたものである。 ≪序論・万葉集大考の構成≫ ○ 総論 第1節 万葉集をよむ意義 第2節 古代の理想と現代の批判 第3節 古

          万葉を訪ねて ―総論1 万葉集をよむ意義―

          万葉を訪ねて ―序の15 ユメノサキ―

          ↓前回はこちら 明和6年己丑神無月の30日、ここ1年ばかり体調を崩しがちであった真淵は、日本橋浜町の自宅県居で73年の生涯を閉じた。 実子の真滋こそ浜松に在って居合わせなかったとはいえ、最終的に340人にまで膨れ上がった弟子たちは彼の子供のようなものであり、彼らに看取られて亡くなることができたことはせめてもの救いだった。 事前に定めておいた品川の東海寺に葬られたことと、そこに天文学者の渋川春海や漢学者の服部南郭の墓もあることは、すでに述べた通りである。 令和最初の夏、

          万葉を訪ねて ―序の15 ユメノサキ―

          万葉を訪ねて ―序の14 ミチヲユク―

          前回はこちら↓ 明和という元号と共に始まる晩年の6年間は、万葉研究の完成のために明け暮れ、残された時間との闘いに終始した。 前項に述べた県居の歌会以後、真淵の人生は特段のドラマも生ずることなく推移していく。 いや、そう見えるのは英雄譚に聞き慣れた私たちの「人生とは人間の行動の記録である」との偏見に由来するもので、実際はドラマが精神のドラマに一極化され、雑事は取り払われただけのことなのである。 真淵が演じた精神のドラマは作品という形で次々と結実した。 歌意考、国意考、

          万葉を訪ねて ―序の14 ミチヲユク―

          万葉を訪ねて ―序の13 シズムママ―

          前回はこちら↓ 23年住み慣れた北八丁堀から日本橋浜町へ。百坪あまりの土地を借りて母屋と隠居家を建てた。母屋は弟子の出入りや生活の必要から作ったに過ぎない。目的は隠居家にある。 長年の有識故実の研究から古代の住居を再現したもので、四畳半の書斎があるばかりの小さな建築であるが、これこそが真淵の信念が具現化された形であった。 万葉の歌人の生活感覚まで思いが及ぶ者にしか万葉の研究は為し得ないものだという、彼の学問への確信を論理的に延長すれば、実際に生活する所まで行き着くのは当

          万葉を訪ねて ―序の13 シズムママ―

          万葉を訪ねて ―序の12 キヲマチテ―

          前回はこちら↓ 旅は始めれば必ず終わらねばならない。大和国を丹念に巡ってひと月あまり、まだ見ていたい気持ちはあるが一応のピリオドを打った。 ふと、帰路は少し道を逸れるが伊勢神宮に参ろうかと思い付いた。恐らく今回を逃せば2度とない機会である。 季節は汗ばむ夏の皐月であった。松坂に泊まってから伊勢神宮を詣ったのだが、このとき真淵の観察眼は「商都」松坂の繁栄ぶりを見逃さなかった。 参詣を終えてまた松坂に泊まった。理由は単純である。これほどの繁栄ぶりならば珍しい古書などが入手

          万葉を訪ねて ―序の12 キヲマチテ―

          万葉を訪ねて ―序の11 イトオシキ―

          前回はこちらから↓ 宗武公は真淵の寄越した後任の役不足を早々と見破った。ここぞと言うときは真淵の見解が欲しくなる。結局、北八丁堀の家には宗武公の使いが折に触れて訪れることになった。 「殿がお呼びです、なんでも今度は古今和歌集の解釈でお聞きになりたい所があるとか」 「分かった。すぐ行く」 真淵は殿中で着る服を決めている。世話役のりよはもう亡いので自ら箪笥を開く。あった。これは宝暦4年甲戌、宗武公40歳の祝賀の時に、長年の苦労をねぎらって賜った御衣だ。宗武公が説明もなしに

          万葉を訪ねて ―序の11 イトオシキ―

          万葉を訪ねて ―序の10オモテウラ―

          前項では「田安家出仕時代」の真淵の勉学についての感想を述べたが、本項ではこの時期の生活ぶりや社交について考えてみたい。 結婚した翌年に妻と死別するわ、すぐ再婚して宿屋の主人になるわ、家族を捨てて京都に飛び出すわ、アテもなく江戸を放浪するわ、御三卿の田安家に拾われるわ、ここまでの真淵の人生はわりと劇的に展開していったが、ようやく大きな波乱もなくなり生活が安定してきたのが、この50歳から64歳にかけての時期である。 したがって今回は、真淵の人生から劇的なモノをえぐり出すよりは

          万葉を訪ねて ―序の10オモテウラ―

          万葉を訪ねて ―序の9 ミノオボエ―

          ↓前回はこちら 田安宗武公は8代将軍徳川吉宗の次男として享保元年丙申に生まれた。 真淵より19歳年少である。後継者確保の観点から吉宗の意向で分家せられて御三卿のひとつ田安家の初代当主となり、吉宗が隠退すると実兄で9代将軍となった家重を補佐するために参議として政治に参画した。 ただ、兄弟の仲は思わしくなく家重の愚鈍さを批判して吉宗に謹慎を命ぜられたことさえある。才気に溢れるが気難しい性格の持ち主、と言ってしまえばいつの世にもいる人間の類型であるが、日中の古典に通じ歌文をこ

          万葉を訪ねて ―序の9 ミノオボエ―