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万葉を訪ねて ―総論2 古代の理想と現代の批判―

今回は「総論の2 古代の理想と現代の批判」について。(4~7頁)

前回はこちら↓


まず、前節「総論の1 万葉集をよむ意義」の議論を振り返ろう。

真淵は古代のありさまを知るのに歴史書を以てするのは不十分であり、古代人の心のありさまに心を寄せねば古代史なんぞ只の形骸であると断じた。そして長年の味読から万葉歌は真心の発露であることを発見し、そうであるからには古代のありさまを知るために最初にすべきことは古代の歌から古代の真心を知ることであり、その真心が現代に失われた高い精神性であるからには己の心を古代の心に寄せてゆき一体と化すことが現代精神の荒廃から脱け出す唯一の道であると見定めた。


ここまでが前節の要約であるが真淵が理想と定めた古代のありさまとは如何なるモノだったのか、という読者の疑問が残されたままだった。本節で真淵が述べんとするのはまさしく其処である。(なお、真心の歌とは如何なるモノかという疑問も残されたままだが、それは次節に述べることになる)


「上つおほみ代には、天津神王の道のまにまに、すめらみごといかくををしきを表とし給ひ、おみたちは武く直きを専らとして、治め賜ひつかへまつりけるを、中つ代より、言さやぐ國人(※ 外国人の意)の作れる、こまかなるまつりごとを多くとりとなはへ、おみたちはもふみのつかさ、つはもののつかさとわからへ、ふみを貴くつはものをいやしとせしよりぞ、あがすめ神の道おとろへて、人の心ひたぶるならず成にたり、しかりてゆこなた、すべての世の手ぶりも古へをはなれ、そびら(※ 背中のこと)に千のりのゆぎ(※ 千本の弓矢が入る筒の意)は負ども、ををしき心をわすれ、おもてに八つか髭はおひながら、た弱きことの葉をうたふ事と成りしは、ふさはしからぬわざならずや」(4~5頁)

本節の最初の文章である。この箇所で真淵が文官と武官の区別の無かった古代をよしとして両者に分化して文の価値に比して武の価値が低くなった現代をわろしとするのはむろん軍国主義を主張しているのではない。まだしも近い意味合いは、マルクスが説いた「疎外」である。

真淵が「文武」という言葉で言いたかったのは、文芸作品とか軍事組織とかの具体的な現れと言うよりかは和の心と武の心といった誰の心にも具わる人間精神の二元性(ないし多元性)なのである。

それが片方でも欠ければ十全に人間であるとは言われないような、人間精神の根本的な二元性。外国由来の制度の導入、社会の複雑化、労働の分業化がこの均衡を失わせた。精神の均衡が失われた現代社会においては、人間が全人的に生きることは常に疎外されている。これが真淵の主張である。

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その直後に来る神話から神武天皇の建国に至る描写は余りにも隔世の感があり、現代の私たちには衝撃的かもしれない。

「そもそも天照す大ひるめの命はひめがみにおはしませど、こととあるをりは、大御身に靱かき負し、大御手に弓とりしばりまして、ますらをのをたけびをなし賜ひ、御孫の命(※ ニニギの命のこと)のあもります(※ 天孫降臨のこと)ときには、い建き神たちを撰みまして、ちはやぶる百千のかみをことむけ、神やまといはれ彦の天皇(※ 神武天皇のこと)は、たけき御軍もてはつ國しらし、それの大御つぎつぎのすめらみごと、日つぎのみこの命と申も、此道をうけつがしつつ、もろもろのおみたちはいよよその道にならひて、雄々しく大らかにまつりごちぬれは、上が上ゆ下がしもまで、こころひとしく打なびきぬるからに、みやこ人ひな人のよめる哥も、いかでををしくなほくあらざらめや」(5~6頁)

天皇による日本支配を正当化している、などと文脈を無視して誤解されたら困る。

ここで言われているのは、目的と行為が緊密であって他意の余地がない人々の心の純粋さである。それを建国という目的にひたむきに突き進む天皇とそれに従う人々の姿に見ているのだ。

理想的に統治された社会とは、人々が自ら社会運営の当事者としてよりよい秩序の構築を不断に志向するものであって、出来合いの制度によって統治されることではない。

古代とは、国作りに奔走する人々の生活の必要に根差した「自生的な暗黙の制度」で秩序が保たれていた理想的な時代であった。真淵はそう直観した。だからこそ「裏表のない実直な心さえあれば中国由来の政治制度に頼るまでもない」という次の主張に進むのである。


「そのうたよろづにつけていへど、すべて真心のままにいひ出つつ、隠さふ隈なんなかりき、たみの心うらうへ(※ 裏表の意)しあらねば、よしやあしやさかやなるからに、罪なひ(※ 処罰するの意)たまひをさめたまふもたはやすくして、大御代はいやさかえに栄えませりけり(中略)うへはうるはしびたる教ごとをいひて、下にきたなき心をかくせるはから國人也、すめらみかどの人は、もとよりよろづのよき心を生れ得る國にしあれば、こまかなる教は中々にそこなふわざぞや、この心をよくしらむにも、万葉を見るにしく物ぞなき」(6~7頁)


儒教が用意する制度は不要であるどころか有害であると真淵が主張するのは、「公正さの基準」は真心の内奥から要請されるものであって外から持ってきた理屈を当て嵌めて定まるものではないからだ。

誤解を招きかねない中国人に対する強い言葉は、真淵の日本人論「国意考」を読めば現代日本人の無意識に在る舶来文化信仰および理屈への依存に対する批判と同義なのだが、詳しく述べる余裕がないので割愛する。

ここではとりあえず、制度を外在的に設けると現実と齟齬をきたし人間は制度から疎外され表向きの態度と裏の心との間にすきま風が吹き実を伴わない言葉が横行する、という真淵の理路を確認しておけば足りる。

この真淵の論説には社会の堕落は言葉や歌の堕落と無関係ではない、という含意があり傾聴に値するものだ。

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以上、本節において真淵は古代のありさまと現代のありさまを併記して現代を批判する視座としての古代観を鮮明にした。

これを主観に傾いた歴史観として批判することは易しいが私には面白くない。それよりも、現代を批判するのが目的ならば現代の問題点(本節に即して言うならば制度偏重と人間疎外)を指摘するだけでよいのであり、わざわざ古代のありさまを論ずる必要はなかったということを考えてみる方がよい。話は逆なのである。

真淵にとっては万葉を通じた古代の心の発見が先行し、たまたまそれが現代の批判へと道を通じていたのであって、現代の批判に格好の形に古代のありさまを拵えたわけではなかった。真淵の古代発見という「経験」それ自体は否定しようのない事実であり、なおかつ其処から学び取れることは多い。


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