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万葉を訪ねて ―総論4 歌風の変遷―

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真淵本人の章立てにおいては、歌風の変遷と作家論をセットにして第4節となっているのだが、それだと少し長く都合が悪いので分割する。今回は時代ごとに歌風が変遷していることを明かした箇所「総論の4 歌風の変遷」を扱う。(9~10頁)

万葉集の歌風は大きく4回変化しており5期に分けられるという真淵の指摘は、学者によって多少の誤差はあるものの、「令和」の命名者・中西進を始めとする現代の万葉学者たちにも受け継がれている画期的な学説であった。

「いとしも上つ代々の哥は、人の真ごころのかぎりにして、そのさま和くもかたくも強くも悲くも、四の時なす(※ 四季のようにの意)立かへりつつ前しりへ定めいひがたし」(9頁)

第1期は万葉最古の歌人である磐之媛命(第16代仁徳天皇の后)の歌から第34代舒明天皇の即位以前までの期間である。理解の便のために西暦で記せば4世紀頃から629年までの約300年間となる。

この時期の代表的な歌人は第21代雄略天皇等であるが、現代万葉学では民衆の伝承歌を歴史上の人物たちに仮託したものとされている。詠歌形式は定まっておらず過渡期を示している。四季のように移ろうから批評しがたいとの真淵の表現に即して、この時期を「未定形の揺籃期」と呼ぶ。

「やや中つ代にうつろひて高市崗本の宮(※ 舒明天皇のこと)の比よりをいはば、み冬つき春さり来て、雪氷のとけゆくがごとし、これをはじめのうつろひといはん」(9頁)

第2期舒明天皇の即位から第41代持統天皇の即位までの期間である。西暦629年から690年までの62年間となる。

この時期の代表的歌人は額田女王や大津皇子等の皇族が中心である。国家建設の最中ということもあり、政治的事件を背景にした歌も多いことが特徴である。冬に降った雪氷が春に溶けてゆく趣という真淵の表現に即して「個性的表現の開花期」と呼ぶ。

「藤原の宮(※ 持統天皇のこと)となりては、大海の原にけしきある島どものうかべらむさまして、おもしろきいきほひぞ出きたる、これぞ二たびのうつろひ也」(9頁)

第3期持統天皇の即位から第43代元明天皇の平城京遷都までの期間である。西暦690年から710年までの21年間となる。

この時期の代表的な歌人は柿本人麻呂や高市黒人等であり、政治的に安定していたこともあって、歌はこの時代に大変発達した。真淵の言葉を参考に「詠歌形式の完成期」と名付ける。

「奈良の宮の初めには、此いきほひ有をまねびうつせしままに、おのがものともなくうらせばくなりぬ、これぞ三たびのうつろひ也」(9頁)

第4期平城京遷都から長屋王の変までの期間と見て概ね間違いなかろう。西暦710年から729年までの20年間となる。

この時期の代表的な歌人は、「令和」の典拠となった梅花の宴を催した大伴旅人や山部赤人等である。政治的には奈良時代の初期という体制変革期に当たり、第2期の歌のように政情の不安定が歌にも影を落としている

真淵はこの時期を、第3期に完成された詠歌形式を真似しながらも己のモノに出来ていない「消化不良の模倣期」とみなして、少し辛辣に評価している。

「其宮のなかつ比には、ゆかしき隈もなき海・山を風はやき日に見んがごと、あらびたるすがたと成ぬ、是ぞ四度のうつろひ也、それゆ後の哥は此集にはのらず、古今哥集に、よみ人しらずとふ中の古きしらべなるぞ、此宮の末ゆ今の都(※ 平安京のこと)のはじめの哥也。そは彼荒びたりしがうらうへになりて(※ 打って変わっての意)、清らなる庭に山ぶきの咲とをめらんなして、ひたぶる妹に似るすがたとなりにたり」(9~10頁)

第5期長屋王の変から万葉集20巻(最終巻)の末尾を飾る大伴家持の歌が詠まれた天平宝字3年の正月までの期間である。西暦729年から759年までの31年間となる。

この時期の代表的な歌人は旅人の子の大伴家持や田辺福麻呂である。この時期ともなれば真淵の評価はいよいよ厳しくなり「荒涼たる終末期」といった感じである。

万葉と古今の歌風の断絶を橋渡しするものとして、古今和歌集の中の作者不詳歌群を挙げ、所謂「たをやめぶり」の女性歌と規定しながらも、真淵がそれらの歌を万葉第5期より高い評価を与えているらしいのは興味深い。

以上を要約するとこうなる。

始めは未定形だった古代の歌が、舒明天皇の頃に個性的表現へと開花し、持統天皇の頃に形式が一旦完成し、奈良時代の初期には単なる模倣に堕落して、奈良中期には末期的な様相を呈したものの、奈良末期には古今和歌集の中で「たをやめぶり」という万葉と異なるスタイルではあるが再び開花した。

この真淵の時代区分はまことに的を射ていて説得的な議論である。

しかしながら、この時代区分の正確さ云々よりも遥かに重要な問題が有る。

それは「万葉集の成立から約千年間、真淵以前に歌風が変遷しているということ自体、指摘した者がいなかった」という驚くべき事実だ。

第1期を伝承歌として除外するにしても、万葉集は130年間の長きにわたるアンソロジーであり、歌風が変遷していると考えるのは至って自然であるにも関わらずである。

この千年の沈黙は何を意味するのか?

簡単に言ってしまえば、万葉集は真の意味での読者を千年もの間ついに持たなかったということだ。

にわかに信じがたいことだが、万葉集は誰にもまともに読まれることなく千年を過ごした。無視されていたわけではない。むしろ重んじられていた。だが、重んじることは理解することと全く別の事柄である。

「日本最古の歌集」と崇めて神棚に飾っておけば、充分に重んじたことにはなろう。詠歌の手本は古今に求めておけばよかった。なにせ古今の方が形式も安定していて古語も比較的分かりやすい。詠歌の参考にするのに便利なのは古今だ。

古今和歌集の撰者のひとり、紀貫之が柿本人麻呂を重んじていたようだから、一応人麻呂も重んじておこうか。そうして味わうどころか良く読みもせず、両者を神棚に飾っておいた。乱暴に言えばこういう次第だったのである。

具体例を挙げて本項を閉じよう。

柿本人麻呂という万葉を代表する歌人は、たしかに真淵以前も「歌聖」と崇められていた。しかしその崇め方は、上記の「神棚式」の崇め方であった。鎌倉時代の前期、当代随一の歌人藤原定家が百人一首を撰ぶ際に、人麻呂の代表歌として撰んだのは次の歌だ。

あしびきの 山鳥の尾の
しだり尾の ながながし夜を
ひとりかもねむ

だが、この歌は実は作者不詳歌であって人麻呂の歌ではない。

定家は歌の名人であると同時に批評家としての自負も強かった。そもそも、批評家としての自負が無ければ万葉から新古今までの膨大な歌を100首にまとめてベストアルバムにせよとの難事業を引き受けるわけがない。

そんな定家ですら、これほど粗雑な読解をしていたとなると、万葉が読者に恵まれず千年の眠りに入っていたのも頷ける。

ロクに理解もせず理解する努力もしない者たちによって祭り上げられた結果、人麻呂はどうなったか?そのおぞましい顛末を真淵は「万葉考別記一」の中の「柿本朝臣人麻呂」の項で端的に述べている。

「位は其時(※ 臨終のこと)の哥、妻の悲める哥の端にも死と書つれば、六位より上にはあらず、三位以上に薨、四位・五位に卒、六位以下庶人までに死とかく令の御法にて、此集にも此定めに書て有、且五位にもあらばおのづから紀(※ 日本書紀のこと)に載べく、又守なるは必任の時を紀にしるさるるを、柿本人麻呂は惣て紀に見えず、然は此任は掾・目の間也けり」(「賀茂真淵全集 第二巻」262頁)
「古今哥集の今本の貫之が序に、人万呂をおほきみつの位(※ 正三位の意)と有は、後人の書加へし偽ごと也、同集の忠岑の長哥に、人まろこそはうれしけれ、身は下ながらことのはは、雲の上まで聞えあげ、といへり、五位ともなれらば身は下ながらといふべからず、まして三位の高き位をや」(同上262~263頁)

実像を隠蔽した上で神格化されたのである。

実際人麻呂の歌の価値について全く無理解の輩が彼を讃えるために出来ることと言えば、彼の官位を改竄すること位だっただろう。馬鹿の一つ覚え、馬鹿は死んでも治らない、色々な言葉が思い浮かぶがそれを一番感じていたのは真淵だったに違いない。

真淵は言う。官位が三位以上の死は薨、四位と五位の死は卒と書くのが律令上の規則であり、万葉集でもそれは踏襲されている。人麻呂の死は万葉集の中で単に死と記されているのだから、彼の官位は五位以上では有り得ない。

また日本書紀の記述方針は五位以上の官位と守の官職があれば記すはずであるのに、人麻呂は日本書紀に一切登場しない。つまり、人麻呂は六位以下の官位で掾・目のどちらかの官職を務めた下級官僚であった、と。

なぜ真淵はそんなことまで指摘しなければならなかったか?むろん文献考証の必要な作業のひとつに過ぎなかったとも言えるが、理由はそれだけではない。

この偶像を破壊してからでなくては、人麻呂という歌人に近付くことは出来ない。こうした後世に付け加えられた愚かしい神話は、歌の詠まれた場所に遡る己の旅の障害となっている。そう確信したからに違いない。

万葉集は「日本最古の歌集である」という事実によって重んじられ、柿本人麻呂は「古今和歌集以来歌聖と仰がれている」という事実によって仰がれていた。

真淵はそれを障害とみなして全て取っぱらい、万葉集という書物の生の姿、柿本人麻呂という一人の人間と出会った。そして、それ自体としての価値を発見した。こんな単純な出来事が千年もの間、万葉をよむ誰の身の上にも起こらなかったというのは、実に不思議なことである。

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