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万葉を訪ねて ―序の11 イトオシキ―

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宗武公は真淵の寄越した後任の役不足を早々と見破った。ここぞと言うときは真淵の見解が欲しくなる。結局、北八丁堀の家には宗武公の使いが折に触れて訪れることになった。

「殿がお呼びです、なんでも今度は古今和歌集の解釈でお聞きになりたい所があるとか」
「分かった。すぐ行く」

真淵は殿中で着る服を決めている。世話役のりよはもう亡いので自ら箪笥を開く。あった。これは宝暦4年甲戌、宗武公40歳の祝賀の時に、長年の苦労をねぎらって賜った御衣だ。宗武公が説明もなしにこれを肩に掛けたので、真淵は言わずもがな周囲の者も唖然としたものだった。

現在の日本武道館があるあたりに田安家の屋敷はあった。自宅を出て1時間弱で到着する。殿中に上がるとすぐさま宗武公の前に通される。ふたりの間には形ばかりの礼儀作法など不要だった。

「お呼びでしょうか」
「待ちかねた。この歌のここの語句についてなのだが」

これでは隠居と言うよりも、大学教授が定年退職してからも非常勤として勤めているのと変わらない。


平成的な喩えで恐縮だが、ふたりの関係性は志村けん演じるバカ殿と田代まさし演じる側用人の関係を連想させる。

バカ殿は退屈すると決まって「たしろ!たしろはどこだ?」と呼び寄せるが、宗武公も古典の読解に不明な点があり真淵の見解を問いたくなるとすぐに「真淵だ!真淵を呼んでくれ」と呼び寄せるのだった。

真淵は己がそれだけ重宝されていることを光栄に思いながらも、己に残された時間はどれ位あるのだろうか、そろそろ己の学問を形にせねばなるまいが、と内心で焦っていた。真淵は隠居することで自由な時間を増やし、念願の万葉考をまとめている最中であった。

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そんなある日のことである。例のごとく宗武公に呼び出された真淵は、宗武公の第一声を聞くまでは、また下問の御用であろうとばかり思っていた。


「大和路の旅に出よ」


はじめは聞き間違いかと疑ったが、金は工面してやるから弟子を引き連れて万葉の舞台を実見してこいと言う。政事のあれこれに忙しく江戸を離れられない己の代わりに見てきてくれと言うのである。

「帰ってきたら真っ先に報告に上がるのだぞ、いいな?」

真淵は短く返事をして、感激の余りしばらく顔を上げられなかった。殿は私に最後の旅をしてこいと言うのだ。それを御自身のためと言うのは言葉だけのことで、本当はお前の万葉研究の足しになるようにとの御配慮に違いない。何と有り難い、仕え甲斐のある殿だろうか、と。

以上、真淵が最後の旅に出るまでの過程を少々物語風にまとめた。


真淵と宗武公の間には、その学問観や古典観において埋めがたい溝があることはすでに述べた。余談だが、宗武公がこの溝にどこまで気付いていたかは微妙な所である。しかし以上に見たように、真淵のことを隠居後までも気に掛けて終生重用したことは紛れもない事実であり、真淵にとってはそれで充分だったのである。



宝暦13年癸未如月、67歳の真淵は同行者に選んだ村田春海とその兄春郷と共に、万葉ゆかりの旅に出た。

弥生になると駿河国に至り、富士山の姿を見て感じた所を「富士の嶺を観て記せる詞」に残す。まもなくして故郷浜松に入った。既出の、前妻との日々を懐かしむ歌はこのとき詠まれた。「やよいのころ浜松のさとに来りてよみける」と詞書して

ふる里の
野べ見にくれば
昔わが妹とすみれの
花咲にけり

前妻はおろか、父も母も、学問の手ほどきをしてくれた杉浦真崎も、その夫の国頭も、後妻梅谷方良の娘も、もう居ない。実子の真滋以下、ゆかりの人々は幾人か居るけれども、彼らと旧交を温めてみたところで、実は真淵の視界には「失われた故郷」の面影しか見えていない。

たわけたことを。お前は自ら進んで故郷を捨てたのではないか?真淵の内なる声が語りかける。たしかにそうかも知れない。しかし、たとえそれがどんなにわりなきことだとしても、現に今こうして己の心を占めている哀惜の念を否定することが出来ようか?

今やこの歌は序の4で採用した解釈では満足できない。この歌に歌われているのは、前妻との幸福な新婚生活だけではない。「わが妹」は前妻のことだけを指しているのではない。

それは37歳で京都に飛び出してから30年来、努めて忘れようとしてきた「ふるさとの思い出」の総体なのだ。そこには若き日の己も居た。だが、今の己は何処を探しても居ない。

真淵は浜松の思い出を己の外に在る「対象」としてしか見れない己を発見して、もう思い出の中に生きることは出来ないことを悟った。それを確認して「わが妹・浜松」に別れを告げた。



卯月になると遂に大和国に至り、天武・持統の両天皇ゆかりの吉野の山桜をはじめて見たり、奈良薬師寺の仏足石の歌碑を掛物にするために摺ったりと、数々の念願が叶って心が躍った。

ただし、真淵は大和国へ単に遊びに来たわけではない。万葉集の解釈に必要な情報を得るために来たのであるから、当然「フィールドワーク」を緻密に行った。

一例を挙げる。

国歌大観番号17、大海人皇子が遷都に伴い飛鳥岡本宮より近江大津宮へ下った時に詠んだ歌

味酒三輪の山
青丹よし奈良の山の
山の際ゆい隠るまで
道の隈い積もるまで
つばらにも見つつ行かむ
しばしばも見放けむ山を
心なく雲の隠さふべしや
うま酒の生まれ出づる三輪山よ。
あをによし奈良の山の
山々の間に隠れるまで
曲がり道が重なり見えなくなるまで
じっくりと眺めながら行きたい、この山を
何度でも振り返って見ていたい、この山を
無情にも雲は隠してしまうというのか?

真淵の解釈はこうだ。

「飛鳥岡本宮より三輪へ二里ばかり、三輪より奈良へ四里あまり有りて、その間平らかなれば、奈良坂越ゆるまでも三輪山は見ゆるなり。さてその奈良山越えても、なお山の際より見放けんとおぼし、ここかしこにて返り見し給ふまにまに、やや遠ざかり果てて、雲の隔たるを恨みて、末の御詞どもは有るなり。(中略)三輪山は形よろしく、かつ飛鳥の都より遠からねば見慣れ給へる故、かくなごり惜しみ給ふとも言ふべけれど、さのみはあらで、奈良より飛鳥の方は、この山の当たりて見ゆる故に、故郷のなごりをこの山に負はせて、かくまでは惜しみ給ふならん」

この解釈の前半部分(中略より前)は実際に奈良坂を歩かなければ出てこないものだ。この旅のフィールドワークの成果は、この歌に限らず万葉考のあちこちに散りばめられている。

後半部分は、あたかも先程の浜松を去る真淵と重なって見えてくるかのような解釈だ。何も三輪山だけが名残惜しいのではない、三輪山に象徴される飛鳥の思い出の全てが愛しい、いと惜しいのである。

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