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万葉を訪ねて ―序の15 ユメノサキ―

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明和6年己丑神無月の30日、ここ1年ばかり体調を崩しがちであった真淵は、日本橋浜町の自宅県居で73年の生涯を閉じた。

実子の真滋こそ浜松に在って居合わせなかったとはいえ、最終的に340人にまで膨れ上がった弟子たちは彼の子供のようなものであり、彼らに看取られて亡くなることができたことはせめてもの救いだった。

事前に定めておいた品川の東海寺に葬られたことと、そこに天文学者の渋川春海や漢学者の服部南郭の墓もあることは、すでに述べた通りである。


令和最初の夏、東海寺に足を運んだ。

品川駅から歩くこと20分、小高くなった丘の上に墓地はあった。下調べせずに来たので東海道新幹線が墓地の前を横切ることに驚いた。


なかなか見つからず迷っていると、島倉千代子の墓に遭遇した。「人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ、咲き乱れるの」と歌い上げた彼女の墓石には「こころ」とだけ彫ってある。

たしかにそうだ。心というものがあるから色々あるのだ。厄介な半面、心があるから人生は退屈しないで済む。

夕暮れめいてきたため諦めて帰ろうと入口の階段を降りた時、降りた階段とは別にもうひとつの階段があることに気付いた。もしやと思い、上がると、果たして有った。真淵の墓だ。

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入口は鳥居によって外界と厳格に区切られている。その手前には石碑が建っていて、背面を除く3面に「史跡賀茂真淵墓」「史跡名勝天然記念物保存法ニ依リ大正十五年十月内務大臣指定」「昭和三年四月建之東京府」と彫られている。

なるほど、道理で真淵のイメージと結びつかない厳格さがあると思ったら後世の仕業であった。

鳥居をくぐると平たくて背の高い墓碑があり「縣居于志名者真渕(あがたゐのうし名は真淵)」と始まる真淵の略歴を内容とする文章が、華麗な万葉仮名で彫られている。末尾に「享和元年橘千蔭」の自書がある。師の死から32年が経過してからのものだ。この一番弟子の墓碑ですらここには要らないと思った。

千蔭の墓碑のさらに奥に真淵の眠る墓がある。まるまるとした巨石を積み上げただけの素朴にして雄大な姿、巨大でありながら親しみやすく威圧的でない姿は、真淵の考える真心というものの視覚化された図像なのだろうか?

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少なくとも、この巨石群が先ほど見た鳥居や石碑のような「四角い世界観」を拒んでいることは明らかだ。

私の第一印象は大学時代に見た奈良の三輪山の頂上にある巨石群との類似だった。


大神神社(おおみわじんじゃ)は古代日本人の原始信仰を今に伝える神社とされ、本殿を設けず三輪山自体を御神体として崇めている。その頂上には何の変哲もない巨石群がただ転がっている。

この「ただ転がっている」様子の神々しさは、見た者なら誰もが知っている。鬱蒼とした木々の隙間から陽光が微かにこぼれ、石を柔らかく照らす。古代から現代まで幾千年、恐らくほとんど変更が無かったであろう景色だ。

この景色が視界に入ってきた時、私はワケもわからず阿呆のように立ち止まった。体だけではなく心まで休止した感じだった。論理的な説明で納得のゆくような景色ではなかったからである。其処には謎めいたことなど何もなく何もかもが澄明でありながらひとを沈黙させる力が有った。


巨石の前に佇んでいる間に、新幹線が幾度となく通り過ぎた。

科学技術の粋が詰まった新幹線と、まるまるとした巨石群のコントラスト。私はこれ以上ここにいると、真淵の一番嫌った「さかしら心」が止まらなくなると思い、東海寺を後にした。



さて、真淵の生涯を解釈しながら総覧するという序論の目的はこれで一応果たされたことになる。以下には、序論の始まりに「よむ動機」を述べたことに因み、「書く動機」について述べて序論を閉じたい。

書く動機は書いている私にすら、この序論を書き始めたころは朧気であったが、書いている内に段々と分かってきた。「感動」「誤解」「現代」という3つの点でそれを表すことができる。


まず感動について。

前項の最後に、真淵が万葉考を書いた動機は己の感動を形にして置きたかったことにあったと記したが、そう記した瞬間にそれは私も同じであることがハッキリと自覚された。それが私の書く動機の根本を成していることに、ようやく気付いたのである。

感動したことや面白いと思ったことだけを記すという私の方針は、私の文章に批判的な視点が存在しないということを意味する。謙遜して言っているのではない。私はこの方法に積極的な意味を込めている。

小林秀雄の「本居宣長」をお読みになったことがあるひとは、この序論で述べてきたことが小林の説と似ていることにすぐ気付いただろう。実際その通りなのだが、本の内容以上に批判的な視点を敢えて持たないという小林の方法に私は影響を受けている。このことを強調しておきたい。

江戸時代の学者たちはそれぞれ「聖典」を持っていた。仁斎にとっての論語、真淵にとっての万葉集、宣長にとっての古事記。

「其ノ言ハ至正至当、徹上徹下、一字ヲ増サバ即チ余リ有リ、一字ヲ減ズレバ即チ足ラズ」(伊藤仁斎「論語古義」より)

こうした告白に批判精神の欠如を見て、前近代的な学問という烙印を押し嘲笑するのが現代の学問の流儀であるが全くつまらないことである。聖典とみなした書物との関係を、人間の実存の普遍的な一形式と考える道がある。それは前近代的な遅れた意識などではなくて、むしろ現代が失ってしまった豊かな精神性なのではないか。

このアイディアは私の発明ではない。レヴィナスに由来する。

「タルムードは実人生に基づいてしか理解できない。(中略)聖句、事物、人間たち、状況、儀礼。これらの記号は完全記号として機能しているのである。時が移り世が変わり、それらの記号の感受性豊かなテクスチュアにどのような変化が導入されたにせよ、それらの記号はつねに同じ意味を開示するか、あるいは同じ意味の新たな相を開示するという特権を維持し続けるのである」(レヴィナス「タルムード四講話」より)

レヴィナスはタルムードの優秀性を言いたいのではない。聖典として書物と関わることは、己の恣意的な意味付けを停止して書物が意味を明かすまでじっと耐えることであり、そうすれば意味は書物からやって来て、よむ主体の解体と再構築を促す。

レヴィナスの真意は、聖典をよむ経験は優れて他者との出会いであり、この経験によって実人生の意味が分かり、実人生を積むことで聖典の意味が分かるという相互影響の関係が存在するということである。真淵がこのレヴィナスの文章を読んだとしたらすぐ理解し共感できるものと思う。

要するに、私は真淵が万葉集を聖典として読んだのと同様の方法で万葉考を読みたいのである。それが味わいや感動を保存する方法としても、作品から意味を到来させる方法としても、最も優れていると信ずるゆえである。先に述べた小林秀雄の方法に影響を受けたとは、このような意味においてである。



次に誤解について。

後世の歴史家の得手勝手な解釈と整理から、真淵の実像を救い出したいということも、私の書く動機を成している。

今さらだが試しにインターネットで平凡社のマイペディアにおける「賀茂真淵」の項目を見てみよう。

賀茂真淵【かものまぶち】
江戸中期の国学者,歌人。俗姓は岡部。号は県居。遠江国の禰宜の子。浜松の脇本陣梅谷家に入婿後、上洛し荷田春満門下となり古典古語を研究。春満没後江戸へ出る。村田春海、加藤千蔭らを門下とする。1746年田安宗武に仕え、1760年隠居。1763年松阪で本居宣長が入門。主として《万葉集》の研究を通じ古道を復活させようとし、復古主義を唱道。国学の基礎を築く。歌は万葉調を尊重。主著は《万葉考》《にひまなび》《冠辞考》《国意考》《歌意考》《祝詞考》、家集は《賀茂翁家集》。 (出典:マイペディア)

なるほど要点は押さえていているが、この文章からは真淵の顔が微塵も想像出来ない。私がこの序論で為し得たことは、歴史家の手で剥がされた真淵の顔を元に戻したことに尽きるのかもしれない。

歴史家は人物や思想といった対象を近付きやすく分析可能なものにせんとして改変する。思想家の息遣いは分析を困難にする雑音とみなされて極力消そうと努める。ついでに三省堂の大辞林における「国学」の項目も見てみよう。

こくがく【国学】
古事記・万葉集などの日本の古典を研究して、日本固有の思想・精神を究めようとする学問。契沖を先駆として江戸前期に興り、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤らによって確立、発展した。和学。皇学。古学。

この記述が誤りであることは繰り返し述べた。

日本固有の精神を求めようとの目的で古典を研究したのではない。古典を味わう内に発見されたのだ。発見されて驚いたのである。その味わいが分からなければ国学など読まない方が良い。味わいが分からない者の読み方が、愚かな国粋主義というイデオロギーに道を通じていたことは、すでに歴史が証明している。

翻って何故こうも誤解されるのかを考えると、実は誤解は早い段階で始まっていたことに思い当たる。

「賀茂真淵が偉大であったのは日本固有の精神を明かしたことにある。しかしそのことを理解していたのは本居宣長のみであって、残りの門人は歌の名人であったことをもって真淵を称賛している。詠歌は真淵にとって余技に過ぎないのに、大を知らないで小を知るとは世の習いとはいえ、真淵が歌の名人であったことは大変勿体無いことであった。それと比べて宣長の歌は不味いことはないが面白くもないと弟子の私さえ思うし、世の歌人も指摘する所だけども、学問の力はケチの付けようがないほどで舌を巻くばかりである。このことを思えば、真淵の歌が面白いのは真淵の不幸で、宣長の歌が面白くないのは宣長の幸であった」(平田篤胤「玉だすき」より現代語訳)

結論から先に言えば平田篤胤の思想が国学を代表するものと誤解された結果、国学と篤胤以前の国学者に対する誤った受容が始まったのである。

序論で散々述べたことを、この篤胤の文章は引っくり返す。万葉調の詠歌という真淵にとって万葉集読解の必須条件であったものを「余技」とみなして切除し、万葉集読解のプロセスで徐々に発見された日本固有の精神を単体で取り出して純粋培養した観念論が篤胤の思想である。

プロセスを考慮しないということは、真淵の学問を味わう姿にまるで思いが及んでいないということだ。そんな篤胤から始まった誤解である。そんな篤胤を系譜の最後に置いた通説が「国学の四大人」なのである。



そして現代について。

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平成最後の冬ごろだろうか、私の頭の中がオウム真理教への関心で占められていた時期があった。それには理由がある。当時のメモを見ると激しい言葉が並んでいる。

「目的と方向を喪失した時代に馬鹿正直に反発したオウムの精神はグロテスクでもあり、子供じみてもいるが、時代の鏡であり、深層心理において同時代人であるところの我々自身でもある。現実の重みを感じず、現実が立ちはだかれば逃避し、変身を夢想し、自意識を肥大化させ、特別視し、己を承認せざる社会と人々に只ならぬ怨恨の眼差しを向けているのは、オウムだけだろうか。時代に寄り添い滅んだオウムが愚かしいのなら、そもそも平成という時代が愚かしかったのである。」


オウム信徒に共通するのは「軽さ」と「早さ」である。彼らは現実を衣服のように気軽に取り替え可能なものと見ている。そして、現実が彼らを悩ませた時、悩み尽くした形跡もないのに即座に逃避する。すぐさま答えを探す。彼らのような人々を操ることは、麻原彰晃という人心掌握術の天才にとっては手のひらで遊ぶように易しい。

「私は現代科学文明に限界を感じていました。もしも科学と人間精神との調和を志向する宗教団体があれば所属しようと、考えていたのです。その矢先にオウムと出会い、求めていたものが見つかり、入信しました」

これは世界で始めて民間人によるサリンの製造に成功した土谷正実が、TVのインタビューで明かしたオウム入信の動機である。なんと浅はかな、と私たちは笑えるだろうか?

自己啓発本の氾濫。「ビジネス論語」等の手前勝手な目的でする書物の改造。「100分で分かる~」といった即席麺ならぬ即席古典の流行。

これらの現象の根源には、己が掛けて欲しいと思う言葉しか聞きたくない、己に関係のある情報だけを知りたい、分かりやすく説明して欲しい、早く分かりたい、対象を己が分かりたいように分かりたい、という現代精神の病気がある。

その病気の行き着く所、究極の形がオウム真理教だったと私には思われてならない。彼らは麻原の言葉に己が掛けて欲しかった慰めの福音を聞いた。彼らは麻原の思想に彼らの現代文明に対する違和感の正体を見た。彼らは己の分からなかった人生の意味を麻原が簡単に答えてくれることに驚愕した。

しかし驚くことでも何でもなかったのである。麻原は彼らの不安を熟知していて、彼らより先回りしただけのことだ。彼らの敬愛する尊師は彼らの見たかった世界を映す鏡の役割を演じていただけなのだ。

そして、対象を分かりたいように分かりたいという彼ら(私たち?)の態度が、書物や思想や時代ではなく、現実の他者に向けられたらどうなるだろうか?

麻原および地下鉄サリン事件の実行犯たちは犠牲者を「煩悩にまみれた畜群」と始めから規定していたのではなかったか?

そのように規定していたから殺害が可能になったのではなかったか?


私は万葉考に現代の精神の荒廃を照射する強い光を感じている。それは自己啓発本のような分かりやすい処方箋とはならない。直接的な効用は望めないだろう。

それでも私に万葉考について書く動機を与えるものはかつて学問によって自己を形成し書物からひとを愛することを知って、ある種の悟りと言っても構わない安心の境地にまで達した人間がいたという原事実なのである。


これで序論を閉じることにする。真淵の生涯を一通り見渡したことで、いよいよ「万葉考」という異様な書物の内部に入ってゆくための、準備が整ったからである。

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