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2017年から2021年くらいまでの話と、警察から電話が来た話。(18,770文字)

僕は、高校を卒業し、新卒で入社した会社を1年3カ月で退職した。その時の話は、上の記事を読んでもらいたい。

この記事では、それ以降の話をしようと思う。


2017年。

無職。

6月末日に退職した。

この時期は、仕事を辞めて、元気になっていた。何でもできる気になっていた。

生まれて初めて、学校にも仕事にもいかなくていい、何もしなくていい期間だというのに、何かしていないと落ち着かない、それくらい元気だった。

とりあえず、マイカー、ホンダのS660のローンの支払いがあるから、それだけは払えるようにしようと思い、アルバイトから始めようと思った。


アルバイト。

まず初めに、実家から、徒歩3分のところにあるファミレスでアルバイトしようと思った。

面接は普通に合格した。

担当はキッチン。皿洗いから始まった。

2日目の終わりに、店長から
「群馬のほうの店舗にヘルプで行ってくれない?つかもとくん車持ってるでしょ?」
と言われ、
「考えておきます。」
とだけ言って、借りている制服すべてロッカーに入れて、帰った。

次の日、電話で「辞めます。給料はいらないです。」と伝えて辞めた。


次のアルバイトは、温泉。
面接は普通に合格した。

お湯の温度や薬の濃度を測るために試験官にお湯を入れたり、あとは、サウナマットの交換をしたりする。

サウナに入ると僕は心臓がドキドキしてしまう。だからサウナマットの交換はとにかくしんどかった。

二日目、ロッカーに借りている制服とかをすべて詰めて帰った。
そして、そのままバイトに行かなくなった。バックレた。

給料ももらっていない。もらう資格はない。


これでもまだ、自分はできる人間なんだと思っていた。

ちなみに、車のローンは払えていない。フルローン、ボーナス払いありの契約だった。そして、これくらいの時期にボーナス払いがくる。

だから親にお金を借りた。親ローンだ。いくら借りたか、覚えていない。


契約社員。

8月。

これでもまだ、プライドがあったのか、自動車関連の仕事がしたいと思ったのと、手っ取り早くお金を稼ぎたいと思ったから、期間工に応募した。

期間工の説明は省く。

僕は川越市に住んでいたので、ホンダの工場が近かった。ホンダの期間工に応募した。

面接は普通に合格した。

配属は、狭山工場だった。そして、下回りのサブフレームの組み立てだった。

製造ラインとは別に、サブフレームを組み立てる場所があって、そこでひたすら作っていく。

そこで、一緒になった人は、プロのスノーボーダーやってたけど、辞めて、スノーボードを子供に教えている先生と、新入社員研修で来ている人だった。

スノボの先生は、オフシーズンだけいつも期間工をやっていると言っていた。すごい効率的な働き方だと思った。

新入社員は、すでに研修期間が決まっていて、9月からは栃木の研究所にいくと言っていた。専門分野は電気と言っていた。

この2人と一緒に作業するのはめちゃくちゃ楽しかった。いろんなことを教えてもらったような気がする。覚えていないけど。

そんな人間関係に恵まれても、作業はかなりしんどい。部品は重いし、工具の振動がえぐい。そして2交代制が慣れない。

入ってからすぐに夏休み休暇1週間があった。休み明け、「辞めます。」と伝えた。

稼働日数は13日。給料は手取りで約16万3000円。

辞める時、一緒に作業していたスノボの先生からは、
「すぐに辞めると思ったよ笑。しんどかったでしょ。体格がこの作業に似合ってないもん。だから、別に自分のこと責めなくていいよ、頑張ってたよ。だから、自分の仕事、見つけられるように頑張りなよ。」
と、言われて泣きそうになった。そのあと、ヒップホップの握手みたいなのをして、さよならをした。


アルバイト。

9月。

次に選んだのが、洗車のバイト。
KeePer技研というところだ。

洗車を専門的にやっている会社という認識だ。

面接は普通に合格した。
なぜか、面接は当時の副社長が店舗に来ていたので、その人がやることになった。

お店は浦和にあったので、家からはちょっと遠かった。

このバイトは、体力的にも精神的にもきつかった。

まず、洗車を時間内に丁寧の終わらせなければいけなくて、すごいしんどかった。そして、お客さんに見られながら作業をするときもあって、ちゃんとやっているのにもかかわらず、「もうちょっとちゃんとやれ」とか言われ、意味が分からなかった。

その後、同じ作業量で、マニュアル通りでも、お客さんによっては満足しないということを教わり、理不尽だなと思った。

「違う会社で内定が決まったので辞めます。」という嘘をかまして、辞めた。

出勤日数は4日。


11月。

次のバイトは、ドミノピザの配達。
これは、高校生の時にアルバイトしていた店舗。
高校生の時の話は下の記事を読んでもらいたい。

ここでのアルバイトは順調だった。なぜならもともとやっていたからだ。

しかし、元気もりもりのプライドが高い僕は、経験者なのに、給与が研修期間中の時給-100円になっていたことに気づき、店長に直談判した。

これで、揉めて、結局12月の繁忙期、クリスマス前の12月23日から、年明け、お正月を迎えることなく、バックレて辞めることになる。

当時、高校生の時に、一緒に働いていた、幼馴染も一緒に働いていたが、そいつの顔に泥を塗ることになってしまった。

稼働日数は記録なし。おそらく11月と、12月の半分くらいは働いた。1か月半。


彼女。

このころ、彼女ができる。

彼女は、同じ高校だった一学年下の後輩だ。面識はなかった。

面識はなかったが、Twitterで繋がりがあった。繋がりがあったというか、フォローしていただけだ。

すこし、時期が遡るが、10月ごろ、バイトも何もしていなくて、ずっと家にいて、引きこもるような生活をしていた。

ゲームをしたり、YouTubeを見たり、Twitterをしたりしていた。

10月から11月にかけて、僕はずっとつぶやいていた。「暇だな」とか、どうでもいいことだ。

そうしたら、ある女の子が、絡んできたのだ。それがのちの彼女になる。

彼女は大学生で、遊び半分で、無職の僕に絡んできたのだと思う。

なんでそうなったのかわからなかったが、一緒に遊びに行くことになった。僕はもちろん金がなく、「どこにも行けないよ?」って言ったが、車があったので、ドライブすることになった。

何回も何回も目的地のないドライブをしたと思う。その中でいろんな話をした。

ある日、僕が帰り際に彼女に付き合ってほしいと伝えたとき、はっきりした答えはもらえなかった。

告白した後も僕らは会っていた。普通に遊んでいた。遊ぶと言っても何をしたか覚えていない。たぶん、車でいろんなところに行ったと思う。

僕はもう失恋気分だった。

12月26日。夜、彼女に呼び出された。川越駅。
なにか話そうとしていたが、話し出すことはなかった。だから僕はとりあえず車を走らせた。

夜の蔵造の町並みは、街灯も相まって綺麗だ。だから車で走るといい気分になれる。他愛もない話をしながら、短い時間のドライブを楽しんだ。

僕は、彼氏ができたからもう会えないとか、もう遊ばないとか言われると思っていた。

結局、川越駅まで戻ってきて、大事な話は何もなかった。

彼女は、女友達の飲み会を抜けて、僕を呼びだしたらしく、また飲み会に戻らないといけないと言っていた。

僕「なんで俺を呼び出したの?なんか大事な話があったんじゃないの?」
彼女「ある、うまく言えないけど。」
僕「じゃぁ今度でもいいんじゃない?」
彼女「いや、だめ。今言わないと、一生言えない。」
僕「わかった。」
彼女「あのね、よく考えたんだけどね、この関係性って何?って聞かれた時にうまく言えないのが嫌なの。また、会いたいって思うから、好きなんだと思う。だから…付き合ってください。」

そう言われて、付き合うことになった。
彼女はすっきりした顔で、「またラインするね」といって、走って飲み会に戻っていった。

僕は、人生で一番嬉しい気持ちのまま、愛車と家まで帰っていった。


2018年。

転職活動。

僕は無職だった。2017年の12月にアルバイトを辞めてから、ずっと転職活動はしていた。

しかし、順調とは言えなかった。

それでも、根拠のない自信と、元気もりもりの状態の僕は、いろんな会社の面接を受けていた。当然、彼女にたいしても見栄を張っていた。

最終的に、プライドを捨てきれず、自動車業界に居たかったこともあり、自動車業界に絞って求人を探していた。

雇用形態は何でもよかった。正社員でも、派遣社員でも、アルバイトでもよかった。

そして決まったのは、紹介予定派遣だった。

紹介予定派遣は、派遣契約が半年くらいで決められていて、その後、条件によって派遣先の採用試験を受けられる。

その紹介予定派遣が決まった。
派遣先は、1社目の栃木で働いていた時に、名前を聞いたことがあった会社だった。

そして、会社はまた栃木県だった。埼玉県に住んでいた彼女とは、遠距離になる。


2018年1月23日

2社目。

2月。

僕はまた栃木県に引っ越すことになる。6月末までの短期契約だった。そのあとはどうなるかわからない。

僕が入る少し前から、働いている人たちもいて、その人たちから仕事を教わったり、派遣先の社員から教わることもあった。

自動車業界とはいえ、全然知らないことばかりで、作業自体がすごい面白かった。
ただ、部品名とかはほとんど分かったので、慣れるまでは早かった。

この仕事では、同じ派遣の人で、うまく仕事ができない人に強く当たってしまったり、1時間作業した後の休憩中に寝てしまったり、今思えば、僕の態度は凄い悪かった。

それでも、前職で自動車業界にいたんだというプライドが邪魔をして、すごい強気で、自分が常に正しいと思っていた。

4月。

派遣先の新入社員がやってきて、大変なことになった。派遣先の新入社員は、派遣社員を派遣さんと呼ぶタイプの人間だった。

派遣先の新入社員は、女で、同い年だった。

派遣社員は僕以外にも数名いて、僕よりも年上の人ばかりだった。女は、僕を含めて派遣社員を見下す態度をとっていた。

派遣先のリーダーに相談して、女に直接注意をしてもらっても、態度は変わらなかった。

耐えられなかった。

契約が結局6月末で終わるからいいかということで気持ちを落ち着かせた。

4月27日。同じ派遣社員が、4月末で終わりだったので、遊ぼうということになって、ドライブをすることになった。いろは坂にいった。いろんな話をした。

正社員の試験を受けることができたのは2人だけだった。僕じゃなかった。

3月にも別の派遣社員の人が正社員の採用試験を受けていたが、落ちていた。そして、その4月に正社員の採用試験を受けた1人も落ちていた。

きっと、紹介予定派遣は、繁忙期に人を確保するための手段にしか過ぎなかったのだろう。だから、最初から派遣社員を正社員として採用する気はなかったのだろう。

派遣社員を見下す態度をとるような女がいる会社に就職しなくてよかったとも思える。

僕はというと、5月末に転職の面接をして、6月に採用が決まった。6月末に退職してそのまま7月に就職できるようになった。


2018年6月1日


6月24日。僕は、前の会社でお世話になった女先輩が所属していた宇都宮音楽集団の公演に行こうと思った。会えたらいいなと思ったから。

でも、そこに女先輩の姿はなかった。
その女先輩の話は下の記事で読める。


彼女。

1月12日。多分、この日にデートをしている。グーグルカレンダーとか、グーグルマップのタイムラインを見ながらこの記事を書いている。

多分、所沢の航空公園に行っている。

多分、同じ高校だったから、同じジャージ来て、ピクニックしよう。みたいなことを言った気がする。

このとき、彼女は手作りのお弁当を持ってきてくれていた。

お弁当は、今まで食べたお弁当の中で一番うまかった。

1月で、普通に寒いのに、お互いお揃いのジャージをきて、お弁当を食べていた。「すごい寒いね~、時期間違えたね笑」みたいなことを話していたと思う。

周りが見えなくなるほど、幸せだった。

1月19日。この日も会っている。きっとバイト終わりに会っている。普通に会って、お話して、終わりじゃなかったかな。そんなに覚えていない。

1月30日。親友に彼女を紹介した。川越で3人でしゃぶしゃぶを食べた。

1月31日。彼女が体調が悪いと僕に連絡したので、念のため病院行こうといって、無理やり彼女を病院に送っている。彼女を病院に送ったら、「ありがとう、大丈夫だから、帰っていいよ。」と彼女に言われて、僕は帰った。

そうしたら、彼女は待合室で倒れてしまって、緊急で点滴をいれる処置をしてもらったらしい。脱水症状だった。前日のしゃぶしゃぶで何かが当たってしまったんだろう。
僕は、彼女を置いて帰ってしまったことに後悔と反省をした。


僕は栃木に住んでいて、彼女は埼玉に住んでいた。まぁ会えないわけではないけど、ちょっと遠い距離感で付き合っていた。

僕のわがままで、毎朝、僕が通勤するときにビデオ通話をすることになった。これが僕の精神安定剤となった。

これがなければ、正直僕は続けられなかったと思う。

この時の彼女いわく、顔がすごい疲れていたから心配してたと言われた。それぐらい、心身ともに疲れていたんだと思う。


2月17日。
多分彼女と一緒に深谷市にある「ふっかちゃんミュージアム」に行った。

僕はふっかちゃんが好きだ。

高校の友達とドライブしていて、道の駅に寄ったとき、たまたまそこにふっかちゃんミュージアムがあった。

そのふっかちゃんミュージアムで、車に貼るシール?みたいなのをかって、車に貼ってから、僕はふっかちゃんを好きになった。

彼女に僕が好きなふっかちゃんを紹介したくて、ふっかちゃんミュージアムに連れていきたかった。

時期は少し戻る。2017年12月15日。

彼女と付き合う前、暇だからドライブしようといって遊んでいた時、ふっかちゃんミュージアムに行こうとしたときがあった。

このときは、付き合う前の彼女が夜からバイトだったので、いけたらいこうということで車を走らせていた。しかし、このままふっかちゃんミュージアムまでいったら、帰りが間に合わなそうだったので引き返すことになった。

この日のリベンジをするために、ふっかちゃんミュージアムにいこうということになった。

2月17日。ふっかちゃんミュージアムでは、ふっかちゃんグッズを買えるのと、時間によっては、ふっかちゃんが来てくれて、一緒に写真を撮ることもできる。

ここで、僕は彼女とふっかちゃんと一緒に写真を撮った。その写真はもう消してしまったので無いが。

凄い楽しかった。それだけは覚えている。

3月17日。ラブホテル代としての決済が、家計簿の記録がある。
っていうことはデートをしたんだろう。

4月8日。しながわ水族館にいったらしい。家計簿の記録がある。
電車で行った。
きっと、この時期の僕は「お魚、食べたい」とか冷める発言をする自分がカッコいいと思っていただろうから、そういうことばっかり言っていたと思う。

4月21日。たぶん、彼女が栃木に来てくれて、お昼ご飯食べ、あしかがフラワーパークに行ったんだと思う。

藤の花を見たはずだ。凄い楽しかったな。車で彼女が住む埼玉まで送った。帰り道の夕焼けが綺麗だったことをうっすらと覚えている。

5月3日。GW。一緒に越谷レイクタウンにいった。何をしたんだろうか。ウィンドウショッピングだろう。あまり記憶はない。

5月19日。ラブホテル代としての決済が、家計簿の記録がある。
っていうことはデートをしたんだろう。

6月16日。この日も、ふっかちゃんミュージアムに行っている。
そしてそのまま、ラブホテルに行っている。深谷市の。

6月28日。本庄市役所にいって、住所変更の手続きをした。引っ越しはまだしていない。ただ平日にしか手続きできないので、この日に行っているんだと思う。その日に、彼女に会いに行っている。

これら以外にも、記録、記憶のないところで、きっと会っているし、きっと楽しかったはずだし、きっと幸せだったはずだと思う。


引っ越し。

6月29日。東京駅に行っている。なぜかはわからない。

6月30日。栃木県宇都宮市から、埼玉県本庄市に引っ越しをする。不動産屋さんに行って、鍵を受け取り、家のもろもろの生活用品を揃えた。

そのあと、高校生の時の同級生と遊んでいると思う。なぜなら、道の駅、あしがくぼに行っているからだ。

僕がS660に乗っていたのもあって、よく車乗りの高校生の時の同級生の友達とドライブに行く。だから行ったのだろう。


3社目。

2018年7月1日

7月。

7月1日、日曜日。足りない生活用品を探しに行ったり、新しい職場の通勤経路を確認したり、街をドライブしたりした。

ここからまた新しい職場での生活が始まる。

僕は派遣会社の正社員で技術派遣という形になる。派遣先の会社が本庄にある会社だ。


新しい職場はレベルが高かった。
文書は英語。事業所内の会議は日本語だが、グローバルの全体集会みたいなのは英語だった。

オフィスカジュアルの服装で、フレックスタイム制。
外資系の自動車部品メーカーである。

会社全体のレベルは高かったが、僕に任された仕事は初歩中の初歩だったので、めちゃくちゃやりやすかった。


なぜか、その会社にいるだけで自己肯定感が爆上がりした。

そのおかげで、人生で初めて英語の勉強をしようとおもって、オンラインスクールに加入して、英語の勉強に励んだ。

結局、英語の勉強は全然うまくいかなかったが、英語の勉強をしている自分が好きだった。

資格の勉強をしようとおもって、いろんな資料を集めて、勉強をした。結局受験することはなかったが、資格の勉強をしている自分が好きだった。


同じ部署では、僕だけが20代で他の人は全員30代以上だった。だから、後輩ムーブをかましていれば、何とかなっていた。

ずっと新人でいられる環境は、比較的楽だった。

そんな生活をしていたとき、新しく入ってきた人がいた。その人は40代で、最初のもろもろのことは僕が教えることになった。

若い頃の僕は、それに違和感を覚えた。

僕より給料が高い人に僕が教える。
僕が教えていいのだろうかという不安と、僕の業務内容も変わったんだから僕の給料を少し上げて欲しいと思った。

その不安と、不満。そしてこのままでいいのだろうかという不安も重なって、増幅し、勢いで別の会社の面接を受けて、会社を辞めることになる。

たった、8か月だった。
2019年2月退職。


彼女。

2018年7月13日

7月14日。デートをしている。きっと、何も考えていなかったんだろう。とりあえず、車を走らせてドライブしていた。

昼間にラブホテルにいって、今日はひたすらセックスをしようと思っていたんだと思う。

でもそんなに体力もなく、結局、いつもいくラーメン屋さんを彼女に紹介して、ニトリに行って、ららぽーとにいって、快活クラブにいって。

最後はミニストップにいって。デートが終わった。

らしい。
グーグルマップのタイムラインは素晴らしい。


7月21日。この日も会っているんじゃないかな。彼女が本庄の家に来て、夜ご飯のおかずの作り置きをしてくれたんだと思う。

僕が彼女の家に車で送るついでに、ドライブをしようということになって、山田うどんでお昼ご飯を食べて、例のごとくふっかちゃんミュージアムにいって、時間が余っているから遠回りをしながら帰ろうとしていた。

そうしたときに、たまたま寄った熊谷でうちわ祭りというお祭りがやっていたから、車を停めてすこしだけ散策した。

楽しかった。

そこから、また彼女の家まで車を走らせて、家まで送った。


2018年7月23日

7月23日から28日まで、彼女は入院している。

彼女の膝の手術のために、一週間入院しているときに、彼女の高校の先輩が、彼女に連絡もなしに入院している病室まで来て、彼女が震えあがった事件。

そんなこともあった。


7月28日。退院の日に会っている。でも、この日はデートじゃないと思う。
熊谷の八木橋百貨店で、ハーゲンダッツのギフト券を買っている。それを渡したいがために、無理を言って、渡しに行ったんだと思う。

その時間つぶしのために、ららぽーとに行っている。

多分そうだと思うのだが、記憶違いかもしれない。


8月4日。会っているかもしれない。一人で映画を見たか、彼女と一緒に映画を見たか。

8月11日。熊谷花火大会。この日は、車じゃない。電車で熊谷駅に集合した。
彼女は浴衣で来てくれたんじゃないかな。僕は普通にダサい私服。

あまり思い出したくはないが、僕のダサい行動を晒しておこうと思う。

花火大会の会場について、百均で買ったピクニックシートを敷いて座った。そこで目の前で立つ人に対して、嫌味を大きな声で言っていた。

帰り道、馬鹿みたいに混んでいる駅で、すごいイキった態度を取っていた。

自分が偉い、自分が正しいと思っていた。

あんなに綺麗だった彼女の浴衣姿の記憶を汚すように、僕の態度が悪すぎた。

2018年8月11日

8月25日。ラブホテルにいったり、地元のお蕎麦屋さんを開拓したりした。そこで彼女が蕎麦アレルギーということを知った。彼女は蕎麦アレルギーだが、蕎麦を食べたがる。痒くなるだけだから大丈夫と言っていたが、僕は心配だった。


9月7日。彼女が家に泊まりに来た。初めてのお泊りじゃなかったっけ。何もすることはなかったが、ただただ時間が流れていった。それが幸せだったと思う。
9月8日。朝、彼女の生理が来てしまって、布団に血がついてしまった。それを彼女が凄い気にしていたと思う。多分この日だったと思う。

彼女を家まで送るついでに、群馬にあるガトーフェスタハラダにいって、お菓子を買った。

9月29日。この日も会っているはずだ。なぜか、東松山駅までいって、自分の家まで行って、サイゼリヤにいっている。


10月13日。浅草デート。

彼女が彼女の幼馴染の男と2人でプラネタリウム行ってくるわーって普通に僕に連絡してきたことに、僕がバチクソに嫉妬した事件。

それの振り替えみたいな形で、彼女とプラネタリウムを見に行った。彼女が[ALEXANDROS]が好きで、プラネタリウムとコラボレーションをするということで、それを見に行った。

浅草散歩をして、スカイツリーのプラネタリウムを見に行った。
凄い楽しかった。たくさん歩いた。

その記憶はあるし、記録もある。

10月27日。彼女の家に迎えに行って、ラブホテルに行って、銚子丸で飯を食い、彼女を彼女のおばあちゃん家に送った。

11月24日。会ってるっぽい。彼女の家に行っている。ただ何をしたか明確ではない。


12月8日。東松山のこども動物自然公園に行っている。あまり記憶がないが、閉園時間ギリギリで、あまり回れなかった気がしている。この日、急に会えることになったんじゃなかったっけ。それで急にどこか行こうかってなった気がしている。

僕はいつもそうだ。計画性がない。

そして彼女のバイトの時間が来て、解散したんじゃなかったっけ。ちょっとでもいいから会いたい。彼女の優しさに付け込んで、押し付けていた気がする。

このデートの後、僕は友達と首都高ドライブをしに行っている。

2018年12月26日

2019年。

彼女。

年末年始休暇中は頻繁に会っていたわけじゃない。
1月4日、この日に会っている。何をしたかはわからない。

このころにはもう、些細な喧嘩や言い合いがたくさんあった。すべて僕からの一方的なものだった。

僕が強気になって、論理的に相手を詰めたり、否定していたりした。最低だった。

僕から距離を置こうと提案したくせに、すぐに連絡をしたり、別れようと言ったり、やっぱりなしでと言ったりしていた。

とにかく最低だった。


1月26日。この日、東松山市の高坂駅まで車で向かっている。そこから、彼女の家まで送っている。
だから多分彼女を送っている。

この時、ずっと彼女は助手席で泣いていたんじゃなかったっけ。別れ話をしたんだと思う。

ずっと気が重かった。車の中の雰囲気は最低だった。

僕がすべて悪い。


2月16日。この日、彼女が家に来た。もう彼女ではないが、もともと予定が決まっていたから、来た。

どの時間に来るのか不明確だった。だから彼女にどの時間に来るのかって聞いた。詰めるように聞いてしまった。

彼女は電車で気持ち悪くなったりするタイプだが、こういう状況だからさらに気持ち悪くなってしまって、途中で降りたりしてさらに時間が読めなくなってしまった。

何とかして彼女が来てくれたから、僕は交通費を渡そうとした。彼女はそれを拒否した。

結局家に来ても、話し合いにはならず、言い合いになってしまって、僕が一方的に彼女を詰めるばかりだった。

そして、彼女が帰るとき、僕は駅まで送らなかった。彼女が送らなくていいと言ったから。僕は送るべきだった。

僕は彼女に対して、ラインペイで交通費を送った。勝手に送った。それもまた、彼女を怒らせてしまった。いつも僕は一方的だった。

僕が最低だった。

この日以降、グーグルカレンダーに彼女との予定はない。


2月20日。4社目の入社のための健康診断を受けた後、元カノに会いに行っている。彼女の最寄り駅から、公園まで歩いた。公園で話して、解散した。

別れたのに、僕の往生際が悪い。

3月11日。
3月18日。
3月23日。
9月15日。
この日も会っているっぽいが、何をしたのがわからない。会っているというより、急にバイト先に行ったりしているんだろう。

Twitterを調べて、そのツイートから何かを推測したり、ラインを送ったり。相手がラインスタンプを作ったというツイートをしていたから、そのスタンプを買って、ラインを送ったりしていた。

相手の記憶から僕が消えることに対して、かなりの不安を感じていた。いつまでも相手の記憶に僕がいて欲しいと思っていたんだろう。

この行動が、社会的に正しくないことは、この時に気づくことが出来なかった。後々、周りから言われて気づくものだ。

そして、こういう衝動性で行動しているときは、周りに相談したり、報告したりはしない。もう周りが見えなくなっている。

なにより、自分が正しいと思って行動している。気づけていない。そういう心情で勝手に動かされている。


4社目。

少し、時が戻る1月27日。この日、面接に行っている。東京のタクシー会社だ。

3社目にいたときに、不安や焦燥感にかられて、転職活動をしてしまった。僕はまだ、この時、普通免許取得から3年経っていない。タクシー運転のための二種免許は、普通免許取得から3年経っていないと取得できない。

ただし、東京なら、特別な講習を受ければ、その3年の条件を2年に短縮することが出来る。
その特別な講習を受けさせてくれるタクシー会社が1社だけあった。僕はそこの面接を受けることになった。

すぐに合否が出る。内定だった。

そして、1月末に3社目の上司に2月末での退職を申し込む。すでに次の会社が決まっているのでの一方的な退職となってしまった。

次の会社は営業職という嘘もついた。

申し訳ない退職の仕方をした。


2月の中旬ぐらいには、すでに有給消化を始めて、退職の手続きもした。
2月20日にはすでに4社目の入社のための健康診断を受けた。

2月22日にはすでに引っ越しをしている。実家に戻った。


3月1日。入社。

入社しても、会社にはいかない。教習所に行く。平和橋自動車教習所。家から、電車で1時間半以上かかる。
一日中、教習所にいる。カリキュラムが完全に組まれていて、それをこなしていく。お昼に会社に電話連絡を入れて、教習が終わったらそのまま帰る。

そんな生活がずっと続く。

毎朝、吉野家に行って、朝ごはんを食べる。吉野家の朝定食はめちゃくちゃうまい。そして安い。

3月20日。2種免許取得。
僕は、普通自動車免許取得から3年経っていなかったので、2年でも取得できるように特別な講習を受けたため、時間がかかった。

そのためのカリキュラムが組まれていて、一日たりとも落とすことが出来なかった。一切遅刻せず、通うことが出来た。
教習所最終日、女性の教官に「よく頑張ったね。」と言われたとき、泣きそうになった。

免許センターにいって、学科試験を受けて、合格して、会社に連絡をした。次の日から、また別の研修が始まる。

自動車事故対策機構?みたいなところで、適性検査を受ける。自分の傾向を認識して、事故の対策に活かす。

次は、東京無線の本部で研修を受ける。仕事の受け方やルール、接客の仕方など研修を受ける。期間は1週間くらいだ。

そして、タクシーセンターというところで研修を受ける。東京の地理やバリアフリーの研修を受ける。
最後に、ここの地理試験に合格しないと東京でタクシードライバーになれない。

僕はこの日のために、教習中もずっと地理試験のための勉強をずっとしてきた。
これで落ちてしまったら、また試験を受けに来ないといけなくなる。

得意なパターンの試験問題が出てきたので、余裕で解いて、あとはもう運任せだった。

結果はギリギリ合格だった。これによって、僕は、東京でタクシードライバーになる条件は揃った。

やっと、これで会社で研修を受けることになる。
諸々が終わったのは4月5日だった。約1か月かかった。

そこから、2か月弱で会社を辞めることになる。
東京でタクシードライバーはキツイと僕は感じた。

会社の車がセドリックだったが、セドリックはバックの時に小回りがあまり効かない。これは、クラウンに比べた場合だ。
だから僕は、会社の車を2回擦った。そして小心者の僕は怒られるたびにかなり落ち込んでしまう。
それがきつかった。

また、僕は埼玉の実家から、東京の会社に通っていた。そうなると、遅番勤務になる。13時くらいに出庫して、翌朝8時くらいに帰庫する。この勤務サイクルが身体的にきつかった。

なにより、お客様の態度もキツイ。新人だろうが、ベテランだろうが関係ない。きつい人はキツイ。

道も全然覚えられないし、事故リスク、違反リスクも高い。

もっと人生経験を積まないと、あの環境は耐えられない。そう思った。

そして、6月、辞めた。


5社目。

5社目は、技術派遣の会社だ。1社目と似たような会社だ。
6月、面接。7月入社。群馬県のSUBARUの中に入って働く。

自動車業界に再び戻ってくることになる。
そしてまた引っ越しをする。

僕はCADオペレーターはやったことがある。しかし、この5社目は生産技術だった。頭をかなり使うし、難しい。やったことがなかった。

そして、駐車場に空きがなくて、僕は自転車通勤をしていた。それもかなりつらかった。

すぐにメンタルブレイクした。出勤できなくなり、起き上がれなくなり、そのまま休職することになった。

メンタルブレイクしてから、珍しく、父親が家に来て話をしようみたいなことを言ってきたが、無視をした。居留守も使った。

退職が決定してから、母親が家に来て、荷物を実家の車に詰め込んで、引っ越しをした。


6社目。

8月下旬。
失業保険を申請して、ゆっくり暮らそうと思った。でも、自己都合による退職なので、給付されるまで時間がかかる。

愛車のホンダS660のローンの支払いもあるので、結局働かなければいけなくなる。だから、また面接を受けることになる。

9月下旬、埼玉県のタクシー会社を中心に面接を受けた。実家から通える場所で、地理感があるところがいいと思った。

高校生の時、ドミノピザで配達をしていた地域を中心に営業しているタクシー会社での面接を受けた。
地理感も多少なりともあったので、ここがベストだと思った。

そうして、内定をもらう。

10月入社。


入社してから、それなりに研修をした。僕は、一応、タクシードライバー経験者ということのもあり、すぐに独り立ちすることになった。

実家から通勤する距離も短く、慣れた地理感でもあったから、仕事をすることが気楽だった。とてもいいリハビリになった。

新人は、いろんな駅に配属になって、それぞれ仕事のやり方を覚えていく。

正直、接客業はツライ。酔客相手にするのが一番つらくめんどくさい。酔客相手にするたびに仕事辞めたいなぁって思っていた。

ただ、仕事の悩みとかを相談する先輩が近くにいて、なんとか乗り越えた。東京のタクシー会社の時と比べて、年齢が近い先輩や同期も多くて、とても喋りやすかった。

僕の中では、年齢が2つ上くらいの女子の先輩がいたのだが、話しやすいし、可愛いし綺麗だから、すごい心の支えになった。


そこから、なんとか転職することなく2019年が終わる。
年越しはきっと、タクシーを運転していたと思う。


2020年。

6社目。

このころ、個人的には、一発試験で運転免許を取得するのにハマっていた。教習所を利用せずに、免許センターで技能試験を受ける。
2019年の12月から、2020年の2月ごろまでたくさん技能試験を受けている。

この会社に入ってから、あまり大きな出来事はなかった。

お客様に「ここでUターンして」と言われて、テンパって車を擦ったり。酔客が車の中で吐いてしまったり。酔客が暴れて、料金を投げつけてきたから、警察を呼んで対応してもらったり。

悪いことだけを思い出せば、いくらでもある。しかし、僕としては居心地がよく、今まで以上に働きやすかった。

頑張るも頑張らないも、自分の給料に反映される。僕は愛車のローンさえ払えればよかったから、そんなに頑張らなかった。

サボり方も覚えて、自分なりに手の抜きどころも覚えた。それによって長い期間働くことが出来た。


2月ごろから、コロナがどうとか、豪華客船がどうとか。ニュースがその話題ばっかりになった。

3月に東京でも確認されて、次第に埼玉にも入ってきた。同僚の話題もコロナばっかりになった。

僕は4月から休職することにした。緊急事態宣言だったり、コロナだったり、世の中の混乱がある程度収まるまで休もうと思った。

正直、理由もなく普通に休みたいとも思っていたので、好都合だった。
自分自身、家から出ることもなく、身を守ることが出来た。それはよかったと思う。

5月から復帰する。1か月しか休んでいないので、感覚を戻すのは簡単だった。そこからまた普通に勤務する。


2つ年上の女子の先輩を心の支えにしながら、12月まで勤務することが出来た。


12月。事故る。忘れられない。

黒い部分が、建物。赤い矢印が自車。オレンジが自転車。
黒いのが建物赤い矢印が自車。緑の矢印が自転車。

孫を後部座席に乗せた女性の自転車が、駐車場をショートカットして、道路に一時停止せずに出てきた。
赤い矢印方向に僕がタクシーを運転していた。タクシーには、女性と子どもが2人乗っていた。

時速20kmくらいの低速で走行していた時、急ブレーキを踏み、自転車に接触。自転車が倒れる。

タクシーに傷がつかないほど、コツンと当たっただけだが、それでも自転車はバランスを崩すので、倒れてしまった。

自転車の後ろに座っていた子は、幼稚園ぐらい。泣かずに耐えていたが、膝をすりむいていた。
自転車に乗っていた女性も、肘をすりむいていた。

タクシーに乗っていた女性と子ども2人は、シートベルトをしていなかった。僕は、乗車前にシートベルトの着用を促していたが、シートベルトを着用されることはなかった。

子ども2人のうち、未就学児の子が、運転席側の背もたれ部分に頭をぶつけた。
事故直後、泣くことはなかったが、事故処理で時間が経つにつれて、不安になったのか、泣き始めてしまった。

接触した直後、僕はもうパニックだった。とにかく、警察に通報し、どうしたらいいのか、とにかく指示を仰いだ。

救急車も、最初は1台要請したが、乗客のほうの子どもが泣き出したので、念のため2台目を要請した。

交番勤務の警察官が到着し、事故処理で対応し、その後、会社に連絡し、会社の人も来てくれた。交通課の警察官が来て、そのまま実況見分を取る。

諸々が終わり、救急車の搬送先が決まったあと、会社の人と一緒に、それぞれ謝罪しに行く。

一連の出来事が終わるまで僕はずっとパニックだった。

そのまま、会社に戻り、このまま運転は出来ないと判断し、そのまま帰庫して、退勤した。

寝ようとしても寝られない。脳が沸々している感覚がずっとあった。


2021年。

6社目。

事故後も、普通に勤務していた。年明けも普通に勤務していたのだが、ある時急に車に乗るのが怖くなる。子どもの泣き声が聞こえると、すごく不安になる。

そして、警察署に呼び出される。

「何月何日の事故について、道路交通法第何条に基づいて事情聴取をします。」
といって始まり、ドラマで見たような文言を取調室で聞くことになる。

「あなたには黙秘権があり…」「虚偽の発言をすると…」

事故を起こすと、刑事上の責任(懲役、罰金等)、行政上の責任(違反点数)、民事上の責任(損害賠償)が科される。

そのうちの刑事上の責任を問うための事情聴取だった。略式起訴だったり、罰金だったり。それを決められるためのものだった。

ありのままを答えるというより、実況見分に間違いがないかの確認だった。

ブレーキ痕があるほど、速度も出ていないし、車に傷もついていないので、速度が出過ぎていたわけではない。また、自転車も壊れていないので、物損的にも被害が少ない。

「どうしたら、この事故を防げたと思いますか?」という質問をされた時、この質問の答えがすべてだと思った。

僕は、「防げなかったと思います。なぜなら、僕に地理感がなかったのが一番の問題。ここの駐車場が日常的に自転車によるショートカットされる場所として認識していれば、危険を予測できたと思います。質問に対して答えるとするならば、駐車場から出てくるのは車だけじゃないということを頭に入れて運転をするのがベストだったと思います。」と答えた。

そして、書類に署名、印鑑をして、警察署を去る。そして書類は検察へ行く。

2週間から、1か月したら、起訴されるのか、罰金になるのか、起訴猶予になるのか、不起訴になるのか。処分が決まる。

不起訴になると、何も連絡はない。
そのあと、いつまでたっても連絡はなかったので、刑事上の責任はなかったことになる。普段の安全運転の意識の賜物と言っても過言ではない。


そして、次に、行政上の処分が来る。違反点数だ。これは1か月くらいで通知が来る。ここで6点減点されると、一発免停といわれる。免許停止処分。さらに減点されると免許停止の日数が伸びていく。最終的には免許取消。さらに再度免許を取る制限が科される。

タクシー運転手としては免許停止ですら痛い。免許停止になったことがあるという経歴だけで、痛い。

とはいっても、救急車まで呼んで事故を起こすと、免許停止になることのほうが多い。

前方不注意2点、安全運転義務違反2点、人身事故付加点数2点。このコンボで一発免停だ。

人身事故付加点数というのは、被害者の診断書の日数(全治〇〇日間、△△月間等)によって増えていく。

幸い、僕の起こした事故による被害者は擦り傷程度だった。ここで、医師がどのように判断し、診断書を出すのかによって、僕の違反点数が決まる。

結果、違反点数は4点だった。なぜか4点だった。当時、通知書が届いた時は内容が分かったのだが、なぜ4点だったのか覚えていない。

奇跡だった。免許停止にならなかった。運転ができた。
安全運転意識の賜物だった。


とは言ってももう僕は心理的に運転できなくなっていた。子どもの泣き声を聞くと不安になるし、運転席に座ると心拍数が上がるのがわかっていた。

バイクは運転できた。バイクの状態であれば、フラッシュバックみたいなものは薄いからだ。

だからもう、休職しようということにした。二度目の休職だ。もう車を運転できなくなっていた。


1月に休職し、2月に復帰することなく、退職することになった。この時の僕は、もう車を運転することが出来なかった。


仕事を辞めてから、1か月ほどはなにもしなかった。
そこからまた転職活動を始めたが、難航した。

正社員、契約社員は、すべてダメだった。理由は転職回数が多すぎるという話だった。

結局、有期契約の派遣社員として採用が決まった。
この時すでに、仕事を辞めてから2カ月半経っていた。


7社目。

5月中旬に就職した。そこから、いろいろあった。
いまもこの会社で働いているので、また今度の機会に話そうと思う。


終わり。







余談。

元彼女。

時は少し戻る。2019年。

僕は懲りずに元カノのTwitterを見ていた。こちらからアクションを起こすことも少なくなってきて、ただずっと見ている時期が続いていた。

そんなとき、6社目(タクシー)の仕事の休憩中に
警察署から電話がかかってきた。


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