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高校、部活動、進路、異性。(22,744文字)

この記事は、僕の学生生活と異性について記述したものである。出てくる人物の名称はすべて仮名。
下ネタ、エロが出てきます。苦手な方はご注意ください。

中学までの話は別の記事で書いてあります。
是非お読みください。

高校生

一年生

僕が入った学校は工業高校だった。

同じ中学校から、数人が入っていて、知らない人ばっかりというわけではなかった。しかし、学科が違うとあまり話す機会はない。

僕と同じ中学校から、僕と同じ機械科に入ったのは、2人だった。僕を含めて機械科には3人、同じ中学校の人間がいた。

機械科は2クラスある。クラス割がどうなるか楽しみにしていた。

結局、僕は一人。ほか二人は別のクラスになった。僕は、高校のクラスでは知っている人が誰もいない状態になった。

ちなみに共学だが、女子は一人もいなかった。ほかのクラスでは女子がいたので、学年で唯一の男子クラスとなった。

僕は友達が出来なかった。出来なくてもいいと思った。

僕は工業高校に勉強しに来ていて、とにかく成績を上げることだけを考えた。そうすることで、のちの就職に有利になると思っていた。

だから、学校に行ってもあまり話すことなく、授業で先生が問いかけた時に積極的に発言していた。授業が友達だった。

普通科目の成績はそんなによくなかったが、機械科の科目は常に5になるレベルだった。

機械科の授業では、僕の兄を知っている先生が顔を見に来て、「よく似てるなぁ。兄ちゃん元気にしてっか?」と、よく聞きに来ていた。

機械科の先生方とはたくさんお話する機会があった。


僕は一年生から、取れる資格は取ろうと思っていた。

実際に取得したのは、
有機溶剤作業主任者技能講習
ガス溶接技能講習
アーク溶接特別教育
二級ボイラー技士(合格は16歳、免許取得は法令により18歳)

一年生から二級ボイラー技士に合格するのは珍しい。というか、取ろうと思わない。そういう方面に就職しようと考えている人が取得する。

でも僕は取れるものは取ろうと思った。アピールに使えるからだ。一年生でとれるものは大概取った。

危険物取扱者は化学科優先で講習をやっていたから、僕は受けなかった。


部活動は、写真部に入った。これも兄と一緒だ。

一年目から僕は賞を取る。講師賞だ。フィルム写真で、黒白の写真。川越の町並みを撮ったものだ。

これはデジタルの写真。構図は同じで、黒白フィルムで撮ったものが入賞した。

賞を取ったことによって、僕は調子に乗った。デザイン科がいたが、見下すようになった。デザイン科のくせに賞取れねーのかよ、と心の中で思っていた。

良くない考えだと思う。反省すべきだ。

写真部の活動も積極的に参加した。僕はすべて意欲的に活動し、アピールしていた。
それに対して気に食わない奴もいただろう。そんなことはどうでもよかった。


僕は勉強も資格も部活も実績を残していった。そして調子にも乗っていた。

朝早くに学校に行き、レポートを仕上げ、授業は真面目に受け、休み時間にレポートを仕上げ、お弁当は一人で黙々と食べ、放課後は写真を撮りに行って、家に帰ったらレポートを仕上げた。

土日は何もやることがなかった。平日の時間だけでやることはすべて終えることができた。そしてそんな平日でさえ、暇な時間はあった。

今思えば、この時間でバイトをしていれば人生が変わっていたのかもしれないと思う。

僕は再び、オンラインゲームのマビノギにハマった。マビノギは小学校五年生くらいから初めて、ハマったり、距離をとったり、熱の波があった。

あまりにも暇すぎるので僕はマビノギしかやることがなかった。

そんなとき、いままでオンライン上で親交があった人と久しぶりに一緒にマビノギをすることがあった。

自分よりも年下で確か当時中学生だったと思う。名前はレナといった。レナは兄弟が二人いて、その上の人たちともフレンドだった。

僕はレナといつも遊んでいた。レナは大人びていた。大人びていたが、子供らしさも持ち合わせていて、よく年上の人間を翻弄させていたと思う。

僕はレナとスカイプすることになった。スカイプは音声通話をできる。初めて音声通話したときは、僕とレナとほかのフレンドを含めて、複数人でしていた。

レナは女の子だった。通話する前から女子中学生と知っていたが、通話してやっと確信する。

しかし、僕とレナしかいないときもあったので、そのときは二人で通話することになっていた。

ほぼ毎日、一緒に通話しながらマビノギをしていた。通話できないときはゲーム内チャットで会話していた。

そうすると、僕はマビノギ以外でのレナとのつながりを欲した。マビノギができないときも、レナと関わっていたいと思った。

僕はレナとメールアドレスを交換した。僕はスマホを持っていて、レナはガラケーだった。

学校へ行く前に、「おはよう」とか他愛もないメールをしていた。
学校から帰ってきたら、「今日マビノギするの?」とか聞いて、ゲーム内で待ち合わせするみたいなことをしていた。

カップルみたいだった。

オンラインで付き合うということが正直わからなかった。この関係を他の誰かに邪魔されたくないとも思った。

僕がレナに告白して付き合うことになった。付き合うと言っても、やることはあまり変わりなかった。一緒にマビノギする。マビノギ内のキャラ同士の結婚というシステムがあった。結婚もした。

ただ日常でもメールする。マビノギをやらなくてもスカイプをする。それが追加された。

ちなみにレナは大阪に住んでいた。僕は埼玉だ。人生で初めての遠距離恋愛だった。会いたいと思ったが、絶対に会えない、そう諦めていた。

僕とレナはお互いの顔を見たことがなかった。そんなものを見なくても心でつながれたのだ。次第に僕はレナの顔を見たいと思うようになった。

そうして、なんとかレナにお願いして、僕とレナは顔写真を交換した。レナは中学生らしい可愛い女の子だった。

女子高生のように化粧をバリバリしているわけでもなく、素材だけで可愛い女の子だった。こんなかわいい女の子が彼女だと思ったとき、僕は嬉しかった。

僕はこれをいいことにレナに対して、いろんなお願いをするようになった。全身の私服の写真とかも送ってもらっていた。

その写真を見るたびに日常を頑張れた。

あるとき、マビノギをせずにスカイプをしてダラダラ話していた時、ふと思いついて、ビデオ通話をしようと言った。

僕は動いているレナを見たかった。レナは最初は嫌がったが、了承してくれた。

初めてビデオ通話をしたとき、感動した。動いているレナと喋れた。僕自身も写っていて恥ずかしい感じはしたが、それでも感動が勝った。

そして、通話やたまにやるビデオ通話を重ねた時、僕はレナに対していろんなお願いをしていた。ここでは言えないこともお願いした。

ビデオ通話をするたびに、会えない辛さ、苦しさがあふれてくるように押し寄せていた。当時、高校生でお金はなかった。大阪には行けなかった。

レナと接するたびに辛くなるから、僕は距離を取るようになってしまった。レナはあんなに僕に対して優しくしてくれたのに僕は突き放してしまった。

こうして、徐々に僕はマビノギからどんどん離れていった。離れていくことで、レナとも距離が離れていった。

もうレナの連絡先も知らないし、いま、マビノギにログインしてもフレンドにはいないから、どうしているかは知らない。

元気でいてほしい。


僕は高校生になって、スマホを持つことで人間関係が広がった。中学生で携帯電話を持っていなかったから、ここで初めて外に出ても通信できるものを手に入れた。

中学生でipod touchは持っていたが、Wi-Fi環境にないと通信はできない。

僕はスマホを持つことで、宗教で出会った同世代ともやり取りができるようになった。同世代の女子とも連絡を取るようになった。
高校一年生の最初のほうは、宗教に対して熱量があったが、徐々に薄れていって距離を取っていた。

宗教については、生い立ちの記事に詳しく書いてあるのでそちらを見てもらいたい。

僕は宗教で知り合った今日子という女の子と仲良くやり取りをしていた。お互い宗教二世で分かりあえた。

お互いの学校生活や下ネタも織り交ぜながら楽しく会話した。楽しく会話していると僕は普通に好きになっていた。たしか、簡単に付き合うことになったんだと思う。

宗教では婚前交渉は禁止されている。そういう決まりだ。青年隊になるとそういう教育も増えていく。それでも僕たちの好奇心は止まらなかった。

僕は中学生のころからオナニーはしていたし、保健体育やAVなどで知識を得ていた。女性は同じようにオナニーをするのか、キスはどんなものなのか、セックスはどんなに気持ちがいいものなのか、そんな好奇心を抱えていた。

僕の知的好奇心、興味を質問にしてすべて今日子にぶつけた。今日子はすべて答えてくれた。

今日子は新所沢駅の高校に通っていた。だから新所沢でデートしたり、川越でデートしたりしていた。デートと言ってもお店をぐるぐる回って歩くだけだ。公園デートもした。喋ってるだけで幸せだった。

僕は公園で初めて女子と手をつないで歩いた。
僕「手、繋いで歩いているだけでドキドキするね。」
今日子「そうだね。ちゅーしたことある?」
僕「ないよ、今日子はあるの?」
今日子「どうでしょう?笑」
僕「なんだよ、それ笑」
今日子「もっとドキドキするよ」
僕「えっ、したことあるんじゃん笑」
今日子「してみる?」
僕「えっ、どうすればいいの」
今日子「目、閉じて」

僕は初めてキスをした。心臓が張り裂けるんじゃないかってくらいにドキドキした。本当にドキドキした。

この日はこのまま帰った。それから高校生の僕らの好奇心は止まらなかった。

ある日、僕はショッピングモールの障害者用トイレで初めて女性の体に触れた。障害者用トイレをそんなことに使って申し訳ない。

今日子の胸は小ぶりだった。変に巨乳じゃなく目の前にあたのはリアルだった。モザイクの向こう側も初めて見た。僕はテクニックがなかったが、今日子に教わりながら、愛撫した。

今日子自身も、オナニーはすると言っていたから、自分自身で気持ちいい場所を知っていたのだろう。そのおかげで、僕は今日子の教わることができた。

攻守交代したとき、僕は初めて女性に舐めてもらった。今までに感じたことのないほど気持ちが良かった。単純な気持ちよさだけではない、心が気持ちよかった。

挿入はしなかった。それはダメだと、僕と今日子は思っていた。婚前交渉はダメだとさんざん言われてきたからだ。そしてコンドームも持っていなかった。

でも、もう止められなかった。

僕「いれていい?」
今日子「外に出せる?」
僕「やってみる」
今日子「じゃぁいいよ、おいで。ここ」

僕は今日子に教わりながら、初めてセックスをした。

僕と今日子は、これが禁じられたものだったから、余計に背徳感を感じた。禁断の果実を食べたアダムとイブと言っても過言ではない。

すぐに限界が来て、僕は手洗い場に出した。まだ出来そうだったから、体位を変えながら、楽しんでいた。

2回目は出せなかった。消化不良ではあったが、すごく幸せな気持ちになった。今日子に教わることがとても多かった。

僕は、バイトもせず、お小遣いもないので金がなかったので新所沢に行くのが億劫となっていた。

今日子と全く会わなくなったとき、僕は今日子と別れた。

あまり今日子と会わなくなっていたときから、僕は宗教で知り合った別の女の子に言い寄って、ちょっかいを出していた。

後日、今日子と付き合っている時期と別の女の子に言い寄ってちょっかいを出していた時期が被っていることがバレて、「最低だね」と言われた。

そこから今日子と連絡を取ることはなかった。


時がかなり経って社会人になった時の話。僕が、ふと今日子とツイッターかフェイスブックで繋がった。

いろいろ話していて、会おうよということになって会うことになった。今日子はかなり綺麗な女性になっていて、妖艶な感じになっていた。

今日子は年上の怪しい仕事をしている男と付き合っていた。そして、バイナリーオプションで稼いでいて、その手法を教える情報商材を売っていると言っていた。

すべてが怪しくて、聞き流すように聞いていた。僕に商材を売ってくることはなかった。

お金を得たことで、自信がついたのか、喋り方がかなり変わっていた。なぜか喋っていると口が曲がっていく。それが気になって仕方なかった。

もう普通に喋れなくなってしまったんだろうなと悲しくなった。その時の食事は、聞いていられなくなって早々に切り上げた。

今日子は、片親の環境で育ち、大学まで行ったが、お金がない家庭で過ごしていた。だからきっとお金によって価値観が変わっていったんだと思う。普通に働いてもバカバカしくなって、投資投資といってお金に執着するようになったんだと思う。バイナリーオプションは投機だ。

そうなってしまった今日子に対して僕はこの関係性を大事にしたいと思えなくなって、帰ってすぐに「セックスしようよ」と、ラインを送って、嫌われてブロックされて関係が終わった。

終わってよかったんだと思う。変わってしまった今日子を受け入れたくなかったんだと思う。僕が純粋に好きになった今日子のままでいてほしかった。

そして、そこから今日子の情報はない。どこで何をしているのか、生きているのかはわからない。

ただ元気に生きてくれればいい。そう願っている。

二年生

二年生になる。クラス替えはない。変わり映えもない。

一年生のときに遠足があったが楽しくなかった。二年生のときに修学旅行があったが楽しくなかった。

心を許せる友達がいなかったからだ。

修学旅行は沖縄に行った。海で女性が一人で歩いていたから、クラスの奴と声をかけて一緒に写真を撮ってもらった。

その写真は残っていない、なぜそんなことをしたのか覚えてもいない。

クラスでの出来事もあまり覚えていない。


部活動には後輩が入ってきた。自分の学年と合わせるとすごい人数になった。

それぞれ班に分けて、班ごとに活動することになった。その班は曜日によって活動する。週1の部活動になる。

僕は化学科の女の子の後輩と仲良くなった。この後輩は今思えば厄介だ。男の先輩にあざとさを武器に翻弄させてくる人間だ。

当時、僕は男だらけのクラスで生活していたから、僕も翻弄させられた。

一緒に帰ったり、一緒に写真撮りに行ったり、付き合うわけじゃないけど、適正距離を保ったうえで近づいてくる。

なぜか手をつないで一緒に帰ったことがある。

僕はもう好きになっていたかもしれない。

そんなとき、ある相談を受けた。僕と同級生の写真部の人間に無理やり犯されたと言われた。

僕はどうしたらいいのかわからなかった。でも一緒に考えた。コンドームをしていなかったと言っていたから、とりあえず、妊娠検査薬を買ってその後輩に渡した。

次に僕は犯人となるそいつを排除したかったから、警察に相談した。警察本部に直々に実名で手紙を送った。そうすると警察署の生活安全課から電話が来て、警察署に来てもらえるかと言われて僕は警察署に行った。

取調室に初めて入った。そこで相談を受けた経緯を話した。その中で特に記憶に残っている会話を少し紹介する。

警察官「君は、その後輩の子に恋愛感情はあるのか?」
僕「少し。」
警察官「その子と付き合ってるわけじゃないんだよね?」
僕「はい。」
警察官「警察に相談するっていうのはその子に伝えたの?」
僕「いや、この後言います。」
警察官「じゃぁその子ともう一度相談してきてから来てくれる?」
僕「はい。」
警察官「いつでも、ここに連絡してきていいから。(名刺渡す)」
僕「はい。」
警察官「君の正義感と優しさは素晴らしいから、その子のそばにいてあげてね。」
僕「はい。」

こうして、一件は終わった。結局その後輩と相談したが、取り調べとか嫌だからいいやということで終わった。

その後の話だが、その後輩が自分の家に入れて誘った説が出てきたのと、それを犯されたということで、いろんな男の先輩に心配されるからそれが嬉しくて嘘をついた説も出てきた。

今思えば、突っ走りすぎたなと反省している。

ちゃんと話を聞いて、本人の意思を尊重したうえで、不安を解消していってあげることが一番大事だと思った。

ルールや正義だけじゃない。まずは傷ついた人の話を聞いてあげること。それが一番大事だと思う。


二年生になってから、同じクラスの奴が転部してきた。他の部活動から写真部に入ってきた。

そいつはガジェットが好きで、カメラやパソコンの知識が豊富だった。だからカメラが好きで写真部に入ってきた。

僕はそいつとたくさん話すことになる。どのカメラがいいとか、どのメーカーがいいとか言い合っていた。

そいつとのプライベートのこともたくさん聞いた。

両親がほとんど家に帰ってこない家で中学校の時から付き合っている彼女を連れ込んでほぼ毎日セックスをしている。

とか。

コンドームを毎度買うのがめんどくさいから、業務用を箱買いしている。

とか。

ハメ撮りをした。

とか。

そういうのを聞いていた。

ハメ撮りはクラスの人間に存在がバレて、ハメ撮りしてるぞこいつ!!!と言われて大変なことになっていた。
高校生の男子クラス。男しかいない。そりゃ周りのやんちゃな人間は見せろよ見せろよと言い始める。大変だっただろう。

僕も見せてもらった。

僕「彼女貸してくんね?」
そいつ「お前が落とせたらな」
僕「じゃぁラインくれよ」
そいつ「ほい」

冗談で言った、彼女貸してくれという発言から、そいつの彼女の連絡先をもらうことになった。その彼女は美里といった。

僕はそこから美里とやり取りをするようになった。ラインでのやり取り、通話などしていた。

あるとき、公園で会おうってことになった。初めて会った。

そこから何度か公園デートのようなことをしていた。相談を聞いたり、他愛もない話をしていた。

美里はあいつに物のようにほぼ毎日抱かれている自分の身体を穢れたものだと言った。彼女じゃない、セフレだ。セフレでもない、もう物のように扱われていると、美里は自分を卑下していた。僕はそれは違うよと言ったり、慰めたりしていた。

僕はもう好きだった。付き合いたいと思っていた。僕が美里を大事にしたいと思っていた。

美里に「あいつと別れて付き合ってほしい。」と伝えたが、はぐらかされた。

美里は、
「あなたに早く出会えていれば付き合っていた。あの人と付き合っている期間が長すぎて、別れられない。これはあの人に対する情なのかもしれない。あなたのことが好きなのは変わらない。」
そう言っていた。それを信じようと思った。

美里は泣いた。

目の前で泣く美里は、あまりにも綺麗で可愛らしくて愛しかった。僕は抱きしめることしかできなかった。でも抱きしめていると僕も涙が出てきた。

そのまま時間が過ぎていき、泣き止んだ美里にキスをした。

僕「嫌だった?」
美里「嫌じゃないよ。」
僕「よかった。」
美里「初めてもう一回したいって思った。」
僕「え?」
美里「もっかいして?」

そう言われて、もう一回キスをした。美里は僕を見て微笑んだ。

とにかく幸せな空間だった。

それから何回も美里と会った。好きなのに付き合えない、でも会ってくれるし、美里は僕に心を許してくれる、それが辛くて苦しかったが、頑張って隠し通した。

ある日、いつも通り公園デートをしていた時、僕がブランコに座って話していた。

僕が美里を呼んで、僕の膝の上に座らせた。最初は、2人とも同じ方向を見て座っていたが、向かい合わせるように座らせた。

お互い抱きしめあいながら、ブランコに座った状態でゆらゆらしていた。美里は頬ずりをしてきたり、おでこにキスをしてきたりした。

僕が「口にはしなくていいの?」と聞くと恥ずかしがって、顔をそらしてぎゅぅっと僕を強く抱きしめた。

美里は僕から少し身体を離して、僕の目を見るとキスをした。そして、また顔をそらしてぎゅぅっと抱きしめてきた。

可愛かった。とにかく可愛かった。この時間が続けばいいと思っていた。

僕「胸触っていい?」
美里「いいけど、こんなにちっちゃいの触っても意味ないよ」
僕「それでも触りたい。」
そういって、僕は美里の胸を揉んだ。声を我慢している美里が可愛かった。

美里は「もう終わりっ」って言ってもう一回僕をぎゅぅっと抱きしめた。

僕は、美里と付き合いたかった。何度もお願いはした。でもそれを聞いてくれしなかった。

僕は、そんな美里が嫌になって、傷つける言葉をありのままぶつけた。僕は最低だった。

喧嘩をして僕は、美里と会わないことにした。美里と最後に会う日、僕は強がった態度でいた。悲しかった。苦しかった。

美里は、バッグの中から筆箱を取り出し、黄緑色のボールペンを出した。美里はそのボールペンにキスをして、僕に渡してきた。

「私のこと、忘れないで」

と言った。

いまでもそのボールペンは持っている。

美里とはそれっきりだった。美里はもともと、僕と同じ工業高校のデザイン科に通おうとしていた。美術が好きだったから。

そうして、僕が高校三年生になったとき、美里は同じ学校に入ってきた。当然、僕と同じクラスには付き合っているあいつも変わらずにいた。

学校で美里とすれ違うことは何回もあったが、話すことは一回もなかった。

今なにしているかもわからない。連絡先もしらない。元気でいてくれることを願う。


高校二年生の僕は、正直、何もしていなかった。取れる資格は大体一年生で取ったし、部活動の成績も残した。

一年生の勉強の成績も、クラスで上位5人以内に常に入っていた。トップになることもあった。二年生も変わらなかった。

自主的に勉強しなくても、授業だけで成績を上げられるようになった。レポートも先生とたくさん話すことで、返却されることが少なくなっていった。

実習中の先生の質問に積極的に答えることで、理解できているアピールすることができる。レポートの中身が薄くてもOKをもらえるようになっていた。

ある先生は、個人で実習を進める課題で
「つかもとが一番実習進んでいるから、すべてつかもとに聞くように。そして、つかもとだけが俺のところにやり方を聞きに来い。そして、つかもとが責任もって全員を期間内に終わらせられるようにサポートしろ。」
そういうやり方で実習を進めた。僕は問題なく全員を終わらせて報告した。

こうやって実績を重ねると、レポートを出して中身を読まれなくても合格するようになる。

そうするともう僕は学校でやることは何もない。

そんな時僕は、宗教や家庭、学校、部活動ではない場所に求めた。

ツイッターだった。


僕は、ツイッターで写真をupしていた。

当時「写真垢」といって、写真をあげるだけでは飽き足らず、写真を撮る人、撮られる人と交流していた。

その中での交流は、今まで知り合ったことのない人と交流できたのでとても新鮮だった。そして僕は出会い厨になった。

いろんな人に一緒に写真を撮りに行きましょうと言いまくってはブロックされてを繰り返していた。

その中にもちゃんと一緒に写真を撮りに行く人もいた。

そこで僕は、高校一年生の女子と知り合った。「みなも」と言った。珍しい名前だ。

みなもは東京に住んでいた。ツイッターで出会える人の中では、会いやすいほうだった。

初めて会う場所は、みなもの住んでいる駅の近くの公園で写真を撮ろうということになった。

みなもは、分倍河原という駅に住んでいた。僕は分倍河原という駅の読み方を覚えた。

武蔵野線の終点、府中本町の駅に初めて降り立った。そこから乗り換える。府中本町は東京競馬場が近くにあって、戦士たちがたくさん行き来している。

公園で話しながら写真を撮ったりするのは楽しかった。何回か写真撮影デートみたいなことをしたと思う。

みなもと話しているときに、みなもは僕以外にも一緒に出掛けたりする人がいるということを僕に話した。僕は独占欲が強くなった。

その人にみなもがとられるくらいなら、告白してしまおうと思って、告白した。

一緒にいるのが楽しいから付き合ってほしい。今度は写真なしでデートしたいと言った。

みなもは受け入れてくれた。

別の日、みなもは僕が住んでいた川越に来てくれた。川越は撮れるものがいっぱいある。だから川越に誘った。

僕はもう写真のことなんて考えていなかった。

二人でゆっくりしたいからといって、ホテルを予約した。僕らは高校生だ。18歳未満だった。ネットから、年齢を偽って予約した。

そうして、みなもを連れて、ホテルに行った。

身分証の確認をされたとき、僕は原付免許を出した。なぜか年齢確認はされなかった。なぜかチェックインできた。

僕とみなもは部屋に入ってずっとイチャイチャしていた。僕はもうセックスのことしか考えていなかった。みなもは緊張していた。みなもは処女だった。かといって僕も経験豊富ではなかった。探り探りだった。

シャワーも浴びずに、照明をつけたまま、服も全部脱がさずに、それなりに愛撫をして、挿入した。

みなもは最初は痛がったが、時間が経つにつれて、慣れていった。

一通り終わった後、みなものスカートに血がついてしまった。洗う時間もなかったから、上着を腰に巻いてかくして部屋を出た。

チェックアウトの時はチェックインの時とは別の店員さんだったから、ものすごく警戒された。警戒されたが、チェックアウトの時に何かを確認されることはなかったので、事なきを得た。

その日の後も、何回も会いたいと思ったが、川越と府中だと遠すぎた。僕は一度、川越と新所沢で挫折をしているのに、府中まで行けるはずがなかった。

当時はバイトもしていないし、そんなに金もなかった。だから、みなもと会うことが億劫になっていった。

そうして僕から一方的に距離を置いて、会いたい気持ちがもうなくなったときに別れることになった。

そこからみなもと会うことはもうなかった。連絡も取っていない。

後日談だが、2023年になって、インスタグラムのおすすめアカウントにみなもが出てきた。きっと僕のことを覚えていないだろうからフォローすることにした。

アカウントを見る限り、結婚して、出産して、可愛い子供がいて、社会人としてもお母さんとしても頑張っているらしい。
直接DMを送ったりはしないでおこうと思う。僕のことを覚えているかどうか聞きたい気持ちもあるけど、葛藤の中でこの記事を書いている。

元気でいてくれればいい。


僕は写真展の実績や写真部での活動の評価から、写真部の部長となった。

部長となってすぐにくる大きなイベントの一つが文化祭だ。写真部は会議室を貸切って、写真展を開催する。

一人一人が今までの作品と、新しい作品を作っていく。それを統括する。難しいことはなかった。

そして、文化祭当日、いろんな人が訪れて、アンケートを書いてもらい、それを励みにこれからも作品作りをしていくことになる。

その文化祭で、結構年上の先輩方が来られて、部長として質問を受けていた。

先輩方はもちろん卒業生で、写真部だったらしい。いろんな逸話を聞けて面白かった。森さんといった。年齢は30代後半くらいだ。

そして森さんが、「部長くんさ、もしよかったらなんだけど、部室見せてもらえないかな?」と聞かれたので、快諾した。

文化祭で、公開はされていないが、まぁ自分が部長だし、見せちゃいけない理由もなかったので、お連れして見せた。

懐かしく思えたようで、いろんな話題を話していた。

僕は文化祭当日は写真部にずっといたり、文化祭の写真を撮ったりしていてお昼ご飯を食べていなかった。

そんな話を先輩方にしたら、これでご飯食べなよって言われてお小遣いを頂いた。嬉しかった。

そして、先輩方と連絡先を交換した。

文化祭が終わった後、片づけをして下校するときに、校門の前で先輩方が待っていた。

僕は声を掛けられ、飯を食いに行こうと言われ、行くことにした。そこはバーだったがもちろんお酒は飲まずにご飯をたくさん食べさせていただいた。

僕が写真部に居場所がないことを話したり、クラスに友達がいないことをはなしたり、先輩方の武勇伝を聞いたり、いろんなことをお話しさせていただいた。

ご挨拶をして、帰宅した。こうして、文化祭は終わった。


僕が写真部の部長になることを嫌がる人間も多かった。特にデザイン科や写真部をたまり場にしていた人間だ。

僕が調子に乗っていたのもある。そして基本の考え方は部活動に来なくても写真を撮って写真展に作品を出している人間が一番良いと考えていた。

写真部の部室をたまり場にして、いつも喋っている人間よりも、自分の好きなものを撮りにいっている人間のほうが写真部としては正解だった。

好きなフィギュアでも好きな電車でも好きな風景でも何でもよかった。

だから毎日、部室に来ている人間を真面目だとか偉いとか特別扱いしなかった。部活に、部室に来なくても写真展にしっかり応募していればいいということにした。

すごい反感を買うようになった。部活に来ない人間を蔑んでいるほうが気が楽で、そっちのほうが楽しいからだ。

あるとき、部内で品評会みたいなのが開かれた。デザイン科の顧問に写真を見てもらって感想を聞く。

顧問は基本、部活に来ない。副顧問がいつも部活を運営する。そして、顧問が部活に来るたびに適当なことを言って、すぐさま帰っていく。

今までのやり方を知らないくせに、調子に乗って指導をしてくる。そんな顧問だった。

そして品評会で、僕の写真を見ている顧問の周りに、僕のことが嫌いな人間たちが集まって「なにこの写真、意味わからない。ねぇ?先生」「暗すぎ、なに写してるのこれ、失敗じゃん。でしょ?先生」と、先生に言っていた。

そうして先生の品評は「そうだね、これ、意味わからないね」といって、別の生徒の写真を見に行った。

僕はこの時、部活動を辞めようと思った。

僕が部長でこの部活にいる意味がもうなかった。僕の指示を聞いてくれないような人間たちがたくさんいた。

僕は副顧問に伝えに行った。

僕「部活動、辞めます。」
副顧問「え、どうして。」
僕「誰も僕の話聞いてくれないじゃないですか。指示も伝わらないし、僕いなくて良くないですか。」
副顧問「それでも、部長でしょ。いきなり投げ出すのはダメだよ。」
僕「それでも僕はできないです。」
副顧問「わかった。でも部活動を辞める必要ない。」
僕「部長だけを辞めるってことですか?」
副顧問「そう。部活動には入っていたほうがいい。」
僕「わかりました。」
副顧問「部員にはどうやって説明する?」
僕「そうですねぇ…。三年生から課題研究が始まってそれが忙しくなるから部活動に専念できなくなるということで良いですか?」
副顧問「わかった。じゃぁ三年生になってから交代しよう。」

ということで、僕は三年生になってから部長を交代することにした。課題研究については後述する。

こうして僕は二年生が終わった。


これは余談だが、高校二年生の夏休みに原付免許を取得した。
その時の話は生い立ちのところで書いてあるので読んで欲しい。


三年生

三年生になって、新たに授業が始まる。課題研究という授業だ。

課題研究は、指導する先生がいて、その先生がテーマを持ってくる。それについて、それぞれ研究して、一年の最後の課題研究発表会で発表する。

僕が選んだ課題研究は、「電気自動車を自作し、文化祭でお客様に乗ってもらう。」というものだった。自動車班と呼ばれる。

この自動車班は、先輩方が作り上げた先代の自動車を改良して、お客様が乗れるようにして、文化祭で、校庭を走らせて楽しんでいただくのが目的だ。

この自動車班は、先生が厳しいということで有名だ。生徒指導部長だからだ。そしてなにより作業量が多く残業(居残り)が多く発生することで有名だった。

自動車班に入ったのは、自動車整備士になりたくて専門学校に進学したいと考えている奴、教える先生が顧問をやっているソフトボール部のやつ、車が好きなやつ、自動車系企業に就職したい奴、他の課題研究でやりたいことがなくて入る奴だった。

自動車班の班長は、年齢が一つ上の先輩だった。先輩だけど同じ学年だ。班長は、高3の代に一年間ドイツ留学をして、帰ってきている。だから一つ上だけど、同じ学年という存在だ。

そして僕は、その班長のサポート的な役目になった。

作業は現状把握から始まった。何が必要で、何が問題でどうしなければいけないのか、考えた。

頭脳的な役割を担って、実際に物を作る作業は他の班員に任せていた。僕はcadができたから、部品の図面を書いて、印刷し、渡していた。

作業している班員にこうやって作ってくれと指示をして、モノを作り上げていった。

問題が起きた時もどうしたらいいのか考えながら、相談しながら作業を進めていった。

この、自動車班で過ごした時間の密度が濃かったから、ここでやっと友達が出来るようになる。

正直、何か大きいことが起きたとかはなかった。楽しくもあり、つらくもあり、とにかく一緒にいた。
文化祭に間に合わせるために夏休みに作業をしていた時は、お昼ご飯を一緒に食べたり、ラーメンを食べに行ったり、楽しかった。


このように、課題研究に費やす時間が多かったから、この課題研究を理由にして、写真部の部長を辞めようと考えていた。

案外すんなり部長を辞めることができた。そして後任は同じ学年の副部長だったデザイン科の男が部長になった。

僕は平部員になって、ほとんど部活に行くことはなくなった。写真展の写真も適当に選んで提出していた。

そうすると、写真部内の扱いもひどいことになる。平気で無視されるし、僕が部室に顔を出すだけで、部員たちの会話が止まりシーンとした空気が流れる。

文化祭も、写真部として参加するわけではなく、自動車班として動かなければいけないから、写真部のお手伝いをすることはなかった。

これで写真部人生は終わりとなる。


文化祭の準備の前に、高校三年生の就職組は進路を決めなければいけない。

僕は、設計職を中心に企業を選んでいた。

候補は
富士重工業(SUBARU)
ホンダエンジニアリング
IHI
だった。

富士重工業は、SUBARUだ。SUBARUの技術職、設計だ。
ホンダエンジニアリングは、本田技研工業の製造ラインの設計だ。
IHIはロケット、船の設計。

前年にきた求人の中からとりあえずの候補を選ぶ。そして進路担当の先生と相談した。

僕は、成績が良かったのでどの会社も選んでいいことになった。

当時の高校生の就活は少し変わっている。一人一社制というものだ。一人一社しか選べない。そして、その一社を受けて不合格になったら余り物から選ぶしかない。

そして、一社につき学校から一人しか採用試験を受けられないので、自然と成績順に選んでいくことになる。

自分の希望の会社を、自分よりも上の成績の奴が選んだら、自分は選べなくなる。だから成績が一番重要なのだ。

僕は、どの会社も選べた。そして、今年の求人が来た時に、どの会社を受けるか決める。この年に、IHIは求人が来なかった。

だから、SUBARUかホンダになった。ホンダといっても、ホンダエンジニアリングだから、生産技術の設計となる。車の設計ではない。

僕は、SUBARUの技術職を選んだ。技能職、生産職には機械科の他のクラスの奴が受けることになった。

受ける会社が決まると、試験対策が始まる。例年の試験内容を見て、何度も問題を解いたり、面接対策をする。

僕は学科試験の対策として、何度も同じ問題を解いて、解いて、解いていた。もう問題すら暗記できるレベルになっていた。

面接対策は苦手だった。機械科の先生にお願いしなければいけない。この時にお願いする先生は、基本、課題研究で担当してもらっている先生にお願いする。

僕はその先生が苦手だった。とにかく苦手だった。

その先生は、生徒指導部長で、ソフトボール部の顧問で、常に高圧的だった。面接対策も圧迫面接のようだった。

課題研究の授業の時間で進学組に作業を任せて、就職組は面接対策をするみたいなことがあった。

僕はもう逃げ出したくて仕方なかった。体調を壊すほどだった。この時期は常に下痢になっていた。

そして、事前に面接対策をすることが予告されていたから、課題研究の授業が始まる前に初めて早退をした。

高校生活で初めて早退をしたのだ。それまで皆勤だったのに。

次の週、課題研究の授業の時に、先生に形だけ体調を心配されて、「お前だけやってないけど、特別に面接対策するか?」と聞かれて、僕は即座に断った。

そして、面接対策をせずに、僕はSUBARUの採用試験を受けに行く。


SUBARUは群馬県に本社がある。埼玉から群馬に行かなければいけない。技術職は、学科試験が長いため、朝早くからの試験だった。

SUBARUは群馬以外の生徒に対してビジネスホテルを用意した。初めて一人でビジネスホテルに泊まった。使い勝手が良く分からなかった。

ここで、勉強したりはしなかった。緊張してしまうからだ。ビジネスホテルのご飯を初めて食べたが、とてもおいしかった。

当日、数百人の生徒が一堂に会して、学科試験を受ける。SPIを受けた後、技術職は、専門試験を受ける。最後に、面接だったと思う。

県内からきていた事務職希望の女子たちがたくさん近くにいて、すごい興奮したのを覚えている。工業高校の機械科で男子ばっかりの生活をしていたからなおさらだ。

専門試験はもう簡単すぎた。なぜなら、対策していた問題がその通りに出たからだ。

文章を見ただけで答えが分かった。念のため、確認のために計算したら、その通りだったので、数字もあまり変わっていなかったのだろう。

おそらく満点か9割を取れていたと思う。

問題は、面接だった。半端なく緊張した。なんて受け答えしたのかあまり覚えていない。印象に残っているものだけ紹介する。

面接官「この会社に入ってやりたいことはなんですか?」
僕「私はCADがやりたいです。なぜなら学校の授業でCADに興味を持ちました。パソコンの中で車を設計する。それがカッコいいと思ったのでCADに携わりたいです。」
面接官「(苦笑)」

自動車会社にいるCADオペレーターなんてほとんどが派遣社員だ。だから苦笑いだったのだろう。

設計職というのはCADを使わなくてもできる。作業をするよりも頭で考えるのが仕事だ。設計職でCADは使えたらまぁいいんじゃないくらいのものだ。

面接官「なにか質問はありますか?」
僕「入社までに自動車免許は必要ですか?」
面接官「はい、自動車会社なので(苦笑)」
僕「家庭の事情などで取れない場合はどうしたらいいですか?」
面接官「その場合は、いろんな人に相談をして、入社までに取得できるようにしてください。」

僕が入社までに免許を取ることはどう考えても無理だった。お金がない。家にお金がない。出してくれる人もいない。相談しても意味がない。

他の受け答えはもう覚えていない。

そして、入社試験が終わって、交通費の清算をして帰路につく。

僕は帰り道に確信した。落ちたと。いや、落ちなくても、免許が取れないことがわかっている。どっちにしろ救われなかった。

免許については生い立ちの記事に詳しく書いてあるので、そちらを呼んでもらいたい。


そして、数日後、文化祭の前日で、終日、文化祭準備という日があった。

僕はもちろん、課題研究の自動車班につきっきりだった。最終テストを行っていた。

校内放送がかかる。
「3年E組、つかもと、至急、進路室。」
進路室に呼び出された。

先生「良い話と、悪い話、どっちから先に聞きたい?」
僕「なんですかそれ…怖いですよ。」
先生「そうだよな。まぁ早く選べ。」
僕「じゃぁ悪いほうで。」
先生「スバル、不合格。」
僕「ですよねぇ~…面接ダメダメでしたもん。」
先生「なんだ、全然落ち込まないじゃん。」
僕「そりゃそうですよ。でも、学科試験、たぶん最高だったんじゃないですか?対策した通りの問題出てきましたし。」
先生「そうそう、それでいい話っていうのは、技能職でお前を取りたいってさ。」
僕「え、なんで。」
先生「学科試験の成績が良すぎたらしい。」
僕「なるほど。」
先生「この話を受けるかどうか、今決めてほしいのよ、すぐ返事しなきゃいけないらしくて。」
僕「マジですか、ちょっと悩んでもいいですか。」
先生「いいよ。5分ね。」
僕「そういえば、他のクラスのやつ、技能で受けてますよね?そいつは受かったんですか?」
先生「まだ、連絡来てない。」
僕「そうですか。んー…」

長い沈黙、たくさん悩んだ。

僕「技能職での話、お断りしてもらってもいいですか?設計にこだわりたいので。」
先生「そういうと思った、わかったよ。」
僕「技能で受けていたやつの枠も空けてあげたいですしね(笑)」
先生「それはわからないけどね。」
先生「じゃぁ、また就活、イチからになるけど、頑張って。」
僕「はい。」
先生「以上。」
僕「失礼しました。」

こうして僕は、SUBARUの技術職の採用試験に落ちた。技能職では合格していたかもしれない。けど、断った。

課題研究の自動車班が作業しているところに戻ると、いろんな奴から「どうだった?」と聞かれた。

このときすでに自動車班の就職組の採用通知は来ていて全員合格していた。僕だけが採用通知待ちだった。

元気に「落ちたわ~」って言ったけど、奴らは笑うことなく心配してくれていた。

「落ちたけど、なんか技能職で採用みたいなこと言われたけど、断ったのよね。」といったら、猛反発を受けた。

もったいないという意見でいっぱいだった。それでも僕はCADに携わりたかった。こうして、気分が落ち込んだまま、文化祭を迎えることになる。

クラスの就職組はほとんど合格していた。落ちたのは僕くらいだった。


高校二年生の文化祭で知り合った、写真部の先輩、森さんは、僕が高校三年生になっても文化祭に来ていた。

僕は自動車班につきっきりだった。安全性が担保できなくなったら、すぐに止めなければいけなかったからだ。

僕が休憩中に、連絡が来て、「下回りに亀裂のようなものがある」と連絡が来て、一度止めて、検査して、何回も自分たちで乗って、異常なし、再開の判断をしたときはとても緊張した。

責任を負うということを身をもって体験した。

そして、森さんも挨拶しに来てくれて、たくさんお話もした。新しい写真部の部長も紹介した。

当然のように森さんは、お昼代としてお小遣いをくれた。

文化祭を無事に終えて、片づけをして下校時に、森さんが校門にいた。前年と同じように、森さん行きつけのバーに連れて行ってもらってご飯をたくさん食べさせてもらった。

採用試験に落ちた話もした。心配してもらった。僕自身は意外とケロッとしていた。


楽しい文化祭も終わり、課題研究も残すは発表会準備のみになった。発表会準備は手分けして行うので、比較的、気楽にできた。

問題は、進路だった。僕は就職先が決まっていなかった。

この時期となると、ほとんどの人は就職先が決まっているので、余り物から選ぶことになる。

一発で受からなかった人間は悲惨だ。みんなが選ばなかった会社を選ぶしかなくなる。

僕は、CADが必ずできる場所に絞っていた。そして欲を言えば自動車関係が良かった。そしてなにより県外で、寮があるところがよかった。家から出たかったからだ。

その条件に当てはまる会社が一つだけあった。

その会社は栃木にある会社で、ホンダ関係の仕事をしていた。委託や派遣をしている会社だ。簡単に言えば派遣会社だ。

僕はその会社を受けることにした。正直、このとき、採用条件とかは気にしていなかった。気にする余裕すらなかった。

採用試験は、学科試験と面接だった。学科試験は機械系の問題も出るらしいが、勉強はしなかった。すでにSUBARUで散々したからだ。

採用試験当日、宇都宮駅集合で、そこから会社の車に乗って、会社にむかう。その道中も見られているようで、緊張した。

学科試験はそれなりに解けた。SUBARUのときと同じような問題が出た。

問題は面接だった。このときもまた面接対策は一切せずに臨んだ。面接自体が2回目だったからあまり緊張しなかった。

面接官「この会社に入ってやりたいことはなんですか?」
僕「私はCADがやりたいです。実習でCADを触ったときに、CADに興味を持ったのと、それを使って自動車に携わる仕事がしたいです。」
面接官「嫌になるほど、できると思うよ(笑)」
僕「楽しみです(笑)」

面接官「なにか質問はありますか。」
僕「自動車免許は、いつまでに必要でしょうか。私は、家庭の事情により、入社までに準備できない可能性があります。その点、考慮していただけるでしょうか。」
面接官「原則、入社までにとっていただきます。しかし、事情があるのであればこの限りではありません。ただ、仕事で必要になることはあるので、一年以内を目安に取得してください。」
僕「わかりました。ありがとうございます。頑張ります。」

この受け答えだけで、僕はこの会社に入社したいと思った。会話が楽しかった。優しく受け入れてくれたんだと感じ取った。

そして、もうすでに入社する気満々でやり取りをした。

僕の学校からこの会社に入った先輩がいなかったので情報はほとんどなかったが、1次採用だけではなく、例年、7次採用くらいまで採用試験を行っている会社だった。だから3月くらいまでずっと採用を受け付けている。

だから、ほぼ落ちることはないだろうとおもって受けに行ったのだ。その気持ちで臨めたので変に緊張することもなく、試験を終えることができた。

採用試験の結果は合格だった。企業へのお礼状も書き、提出し、あとは入社を待つことになった。


僕は引っ越しのことについて、考えていた。バイト代で買った原付と諸々の荷物をどのように移動させるかを考えた。

原付は、自走で栃木までいって、荷物は母親に頼んで実家の車で運んでもらおうと考えていた。

ある日、森さんと遊びに行ったときに、その話をした。

そうしたら森さんのお友達が、自営業で、リフター付きトラックを持っているということで、それに原付を乗せて、栃木に行くことを提案してくれた。

そのお言葉に存分に甘えることにした。

そして僕は、母親の車に乗って、荷物を積んでいくことにした。引っ越しの段取りは完ぺきだった。


三年生になって、僕はアルバイトを始めていた。

幼馴染と一緒に、ドミノピザのデリバリーのバイトをしていた。

18歳になった時、バイトもしていたこともあって、携帯電話の名義を自分の名義にした。支払いも自分で払った。

これは、兄弟の中で僕だけだ。通信料も本体代も自分で払っていた。頑張っていたと思う。

兄や姉は社会人になっても親に払ってもらっているのに、僕は高校生から払っていたのだ。頑張っていたと思う。

バイトは、真面目にやっていたが、普通に事故を起こしたり、怒られたりもしていた。

たくさんシフトに入って、お金を稼いで、原付バイクを買った。原付バイクを買ってからはさらにシフトに入って、さらに稼いで、レンズを買ったりもした。

とにかく自分が欲しいもを買うために頑張っていたと思う。たくさんシフトに入ったおかげで、バイト先の人と仲良くなることができた。

その中で、知り合った、別の高校で同級生の女の子とよく喋るようになって、ラインでのやり取りもするようになった。

その女の子は大関さん。大関さんと話すうちに相談も受けるようになった。

付き合っていた人が自然消滅みたいになったのに、今になって急に連絡が来てそれがしつこいということだった。

「彼氏できたと言えばいいんじゃない?」とか、「もし、変に来るようになったら、俺の名前使っていいよ」なんて言ったりもしていた。

僕ら二人は付き合ってもいないのに下の名前で呼び合うくらい仲良くなっていた。

そして、僕はバイト終わりの大関さんを家まで送って行くこともあった。そのときにたくさんいろんな話をした。僕の家庭環境の話をしたりもした。

ある日、バイト先に大関さんの元カレが急に来てしまった。その時、僕は、デリバリー先にいたのでその時の状況は知らない。

その場は、バイトリーダーの大学生の先輩がとりあえずは収めたらしい。大関さんはパニックになってしまって、休憩室にいた。

大関さんは相談して、早めにバイトを上がろうかということになって、誰が家まで送るのかという話し合いになったらしい。

その時に、大関さんがバイトリーダーに「いつもはかずくんが一緒に帰ってくれるので大丈夫です。」と咄嗟に言ったらしい。

そうして、僕がデリバリー先から店に帰ってきたとき、恐ろしいほどイジられた。

僕はまだちょっと時間が残っていたから、大関さんにちょっとだけ待ってもらって一緒に帰ることにした。その時には時間がたっていたので、大関さんはケロッとしていた。

僕は退勤するときにいろんな人に「かずくん、頼んだよ~!(笑)」とめちゃくちゃイジられた。

こうして、僕と大関さんが一緒に帰るのは恒例になっていった。でも付きあってくれとお願いすることはなかった。

この時、すでに栃木への就職が決まっていて、遠距離になると思っていたからだ。遠距離になったとき、僕は耐えられないと思っていた。車もなかったし、すぐに買えると思っていなかったし、それよりも免許取ったり、一人暮らしをしたり、しなければいけないことがたくさんあった。

だから、僕は付き合うことだけは避けていた。告白するかしないかの違いだけで、心はわかりあえていたと思う。

ある日、バイトを土日にフルで入ったとき、いつもスーパーのお弁当を食べている僕を気遣って、大関さんがおにぎりを作ってきた。

おにぎりはあまりおいしくなかった。普通の白ご飯に鮭のおにぎりで、海苔はなかった。

サランラップの匂いか、大関さん家の匂いかがお米についてしまっていて、それがすごいキツかったのを覚えている。

僕は気遣えなかった。おいしいとは言わずにありがとうだけをとにかく伝えた。

ある日の帰り道、公園で少し話そうということになって話しているとき、僕は普通に大関さんにキスをした。

暗い公園でキスをして、普通に胸を揉み、下半身に手を伸ばそうとしたとき、大関さんは「そこだけはダメ。絶対ダメ。」といって拒絶した。

拒絶されて仕方ないから、僕は、何度もキスをした。それなのに告白はしなかった。

それからは、普通に一緒に帰って、別れ際にキスをする。そんな関係だった。

月日が流れて年が明けて、僕はバイト先での待遇の悪さと人間関係、そしてバイトがめんどくさくなったので、初めてバックレた。

連絡をせずにバイトに行かなかった。心配されたが、次の日、普通に行ったり、午前だけ出て、午後は何も言わずに帰ったりしていた。

勤務態度が非常に悪かった。

機嫌が悪かった。家庭の中で、免許が取得できない、スーツが買えない、引っ越しの段取りを手伝ってくれない、そんなどうしようもできない環境に嫌気がさして、頑張る意味を見出せなかった。

結局、頑張って稼いで買った、カメラ類はすべて売ってスーツ代になったり、それまでの貯金は社会人になってから一人暮らしするための生活費に当てたりしなきゃいけなかった。

だからバイトへのモチベーションが保てなかった。

バックレが続いて、シフトに入れられないようになって、そのまま辞めることになった。厳密にいうと辞めてはいないのだが、シフトに入っていない状態だ。

この時は大関さんにも相談はしていなかった。相談したところで解決できないと思っていた。心配もかけたくなかった。

だから悪い態度でいればいいと思っていた。

こうして、僕は大関さんと連絡も取らないままお別れをして、栃木に引っ越して、就職することになる。

3月くらいに連絡が来て、別の高校だけど、大関さんも就職組だったから、「お互い頑張ろうね。」と連絡が来た。

就職して、4月にも安否確認みたいな生存確認みたいな連絡は来た。そしてそこから今なにしているかはわからない。

元気に暮らしていて欲しいと思う。


僕の家はとにかくお金がなかった。だから自動車免許を取れなかった。だから面接のときにあのような質問をどの会社にもした。

そしてお金ないのは他にも影響を受ける。入社のためにスーツが必要だ。スーツが買えなかった。

2月になって、僕はアルバイトをやっていなかった。金もない。そして、入社してからの初任給までの生活費も残さなければいけなかった。

リクルートスーツの一式セットが買えなかった。

持っているカメラをすべて売った。この日から写真が撮れなくなった。精神的にも、物理的にも。

そのお金で普通のスーツの上下セットだけをまず買った。シャツと靴下はあるもので何とかした。

ネクタイはドン・キホーテで3本セットで安いやつを買った。そして、革靴もドン・キホーテで安いやつを買った。

カバンが買えなかった。兄のバッグを借りればよかったが、もう家族に頼りたくなかった。

僕は同じクラスの友達で、バイトをめちゃくちゃしている奴にお願いをした。
「5千円を貸してくれ。給料入ったら、必ず返す。」
頭を下げた。そして僕はカバンを買った。

こうして、一式揃った。

社会人になった時、借りたお金は初任給が出たらすぐに返しに行った。ご飯も奢った。


高校を卒業し、引っ越しとなる。

入寮は、入社一週間前からとなる。僕はあらかじめ準備したかったので、入寮していい期間の初日に引っ越しすることにした。

森さんと森さんのお友達が、トラックで来てくれて、バイクを積む。そして母親の車のほうに荷物を積んで、僕はトラックのほうに乗った。

母親は一人で車にのって、後からついてきてくれた。

寮に到着し、お隣、下の人に挨拶を済ませ、原付を下ろして、母親の車を待っていた。

お隣さんには女性の先輩がいて、連絡先を交換することができた。

母親の車が来て、荷物を下ろし、荷解きをした。初めての一人暮らしだったので、荷物はほとんどなかった。

荷物を下ろすと、母親は用が済んだので帰っていった。

冷蔵庫も、洗濯機も、テレビも、テーブルもない。身の回りの荷物と布団しかなかった。

森さん「家電、どうするのよ。」
僕「お金ないんで、初任給でたら買います。それまではまぁ何とかします。」
森さん「大丈夫かよ。」
僕「親が金出してくれないんでなんとかしますよ(笑)」
森さん「よし、買いに行くぞ。」
僕「ガスの開栓に立ち会わなきゃいけないんですよ。」
森さん「じゃぁ、すぐ行こう。」

こうして、ハードオフにトラックを走らせた。そして、すぐ中古の冷蔵庫と洗濯機とテレビを買ってくれた。

ガスの開栓の立ち会いには間に合わなかった。電話して次に日に対応してもらうことになった。

家電がそろって、生活できるようになったが、ガスが開いていなかったので、シャワーを浴びることができなかった。

僕は結局トラックで実家に帰ることになった。帰る道中に、3人で夜ご飯を食べて、いろんなお話をした。そして、実家に帰った。速攻で帰省した。

お隣さんの女性の先輩からラインが来ていた。
先輩「家いる?」
僕「すいません、ガスの開栓に立ち会えなくて、一旦実家に帰ろうってことになりました。」
先輩「えー、行ってくれればシャワー貸したのにー。」
僕「マジですか!すいません…」
先輩「新人で一番早く寮に来たでしょ?」
僕「たぶん、そうですね。」
先輩「ちょうど同期とご飯食べてたから、つかもとくん入れて歓迎会しようとおもったんだけど、また今度だね」
僕「すいません、ありがとうございます!また、ぜひよろしくお願いします。」
先輩「なんかあったらいつでも頼っていいからね。」
僕「本当にありがとうございます。」

こんな感じだった。

一瞬で好きになった。でも先輩は彼氏がいた。まぁそこは仕方なかったが、シャワーを貸してもらえる機会があったと思うと、すごいもったいないことをしたなぁと深く後悔をした。

実家に帰って事情を説明して、次の日また、森さんと、森さんの友達の車で栃木に向かった。

今回はトラックじゃなくて、お友達の車で行った。

そして僕は、栃木に着いて、お二人を見送り、ガスの開栓に立ち会って、生活の準備が整った。

右隣は新人で、同期だった。高身長で森山直太朗に似ていた。


余談だが、高校三年生の年末年始で、郵便局の年賀状の仕分けのアルバイトもした。これに関しては期間も短かったから、特に話はない。同じ仕分けのシフトに同じ高校だった先輩が一人いたくらいだ。

終わり


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