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家庭。家族。お金。宗教。(35,253文字)



これは、僕の生い立ちについて、記述したものである。

家族について

両親の詳細についての話はすべて聞いた話なので、事実かどうかはわからない。
そして、聞いた話をうろ覚えなので、さらに信憑性は薄い。
それでも書いておこうと思う。

父親

父親は、1959年、昭和34年に生まれる。
生まれた場所は埼玉県の上里町。農家に生まれた。

おじいちゃんとおばあちゃんが結婚して、
一人目の男の子が生まれる。
そのあと、おばあちゃんは亡くなる。
おじいちゃんは再婚をする。
二人目の女の子が生まれるも、2歳にも満たない年齢で亡くなってしまったらしい。
女の子がいたらしいっていうのは最近になってわかったことらしい。

三人目の男の子が生まれる。
そして四人目の男の子が父親だ。

おばあちゃんは女の子が欲しかったらしい。
なのに、亡くなってしまったから深い悲しみを感じていたらしい。

そのせいか、残された二人の男の子は、男らしい教育、子育てというのをしなかったらしい。
女の子っぽい子育てを受けたらしい。

父親の一番上のお兄さんとは何度か話したことがある。僕からすると叔父さんにあたる。
叔父さんは、国鉄にいたらしい。
退職後、農家を継いで、いまも働いている。

叔父さんは、農家で貧しい時期にちょうど若い働き手だったから、学校行く前や帰ってきた後は農家のお仕事を手伝っていたらしい。
それでも、3兄弟、全員が大学に行って卒業している。

これはすごい。

母親

母親は、埼玉県の川口市に生まれたらしい。
昭和39年、1964年だ。

母親の兄弟はめちゃめちゃ多い。
話を聞いたが、あまり把握していない。
6人か7人兄弟だ。

母親の小さいころに、お母さんが失踪してしまったらしい。おばあちゃんにあたる。
そこから、父子家庭で生活していたらしい。

アルバイトしながら定時制高校に通っていたというほどだから、お金に困っていたんだと思う。

兄弟を紹介しようと思う。
一番目は、介護施設に入っていて、生活保護を受けているらしいといっていた。でも連絡がとれないからわからないと。
二番目は、消息不明。
三番目は、トラックドライバー
四番目は、専業主婦
五番目が、母親
六番目が、墓石屋さん

こんな感じだ。兄弟の話はあんまり聞いたことがないのでとても曖昧だ。

両親の出会いと兄

出会いはたしか埼玉県のミスタードーナツらしい。
店長をしていたのが、父親で、母親がアルバイトをしていたらしい。よくある出会いだ。

それで付き合って、結婚したんだろう。
そこらへんの話を聞いたことがない。
多分、いまとなっては思い出したくもないんだろう。

ここで兄が生まれる。1992年だ。
兄は、埼玉県生まれだ。多分。

兄がどんな子だったかどうかは聞いたことがない。

転勤

ここで、父親が転勤することになる。
当然、家族は引っ越すことになる。

新天地は奈良県だ。

父親と母親、そして小さい兄をつれての生活は大変だったんだと思う。
特に母親は、近くに頼れる人もいなく、簡単に連絡を取れる手段が固定電話くらいしかなかったから、とても精神的にもきつかったと推測できる。

そこで仲良くしてくれたのが的場さんだ。
的場さんというと僕ら兄弟の中では大体どんな人か認識している。

母親と的場さんはいわゆるママ友みたいになったんだと思う。2人が話しているときはとても楽しそうだから。

宗教

ここで、的場さんに誘われて、母親は宗教に入る。新興宗教だ。
かといって、カルト集団ではないので、安心してもらいたい。

新興宗教とカルト集団の違いの説明は省く。

誘った的場さんが悪いわけでもないし、入った母親が悪いわけでもない。
宗教問題で悪いのは、人の心を利用して、お金を稼ごうとしている奴らだ。まぁそこは置いといて。

この、宗教という場所が、母親にとっては、
家庭でもない、父親でもない、第3のコミュニティとなって心理的安全圏を手に入れたのだと思う。

姉が生まれる。1995年だ。
姉の話はあまり聞いたことがない。


このころ、海外旅行に行ったらしい。
ハワイかグアムに行ったって話を聞いたことがある。
僕はまだ生まれていないので、僕以外はみんなパスポートを持っているっていう話をしたことがある。

僕が生まれてからの旅行らしい旅行は一度もない。
僕は当然、パスポートを持っていない。
発行したことがないのだ。

幼少期

生まれる

1997年6月26日に僕が生まれる。
奈良県奈良市二条町というところに住んでいたらしい。
記憶はないが、戸籍の附票を見ると確認できる。2歳手前まで住んでいた。

引っ越し

引っ越しをする。
埼玉県に戻るのだ。埼玉県の川越市。
僕としては初めての埼玉県。

兄は、小学校上がる前くらいになるのか。
姉は、幼稚園の期間中に…。
僕は、2歳で。

ここから長い間、川越での暮らしになる。

2歳の誕生日

僕の2歳の誕生日に、父親のお父さん、つまり、おじいちゃんがなくなる。これは記憶にある。
誕生日パーティーの、「ハッピーバースデートゥーユー♪」の曲の途中で家に電話がかかってきて、最初に母親が出て、父親に代わって、父親が神妙な面持ちになっていたのを覚えている。

その時僕は、青いダンプカーのおもちゃをもらって、それで遊んでいたが、両親の笑顔がなかったのを覚えている。

そして次の日、訳も分からず車に乗って、上里町に行った。
父親の実家は農家だったので、昔ながらの田の字型の間取りで、ふすまを外すと大きい部屋となる。
そこでいろんな人が黒い服を着て、神妙な面持ちだったのを覚えている。

母親の顔を見ながら、ここでふざけちゃいけない、はしゃいではいけない、それだけを察しておとなしくしていた。
その記憶だけはある。

幼稚園

幼稚園は家から近い場所だった。
母と手をつないで通園していた記憶がある。

幼稚園ではいろんな子と喧嘩したり、楽しく遊んだり、普通に過ごしていたのだと思う。
ここの幼稚園は、とにかく遊ぶのが目的だ。
そういう教育方針らしい。
子供たちで遊ばせて、大人は見守る。

だから、幼稚園の時に、ひらがなも漢字も算数も学ばなかった。そのせいもあるか、小学校のことちょっと大変だった。

そして母親からも何も教育的なことは受けてなかったと思う。自由主義、奔放主義だった。


幼稚園のアルバムや日記を見るとそんなことがあったのかと思って面白い。

何度か休んで旅行に行ったらしい。
まぁ旅行ではないのだが。
岐阜県の飛騨高山に行く。

宗教の本山に行くのだ。
宗教施設に行く。家族みんなで。

宗教の人たちとバスに乗り合わせて川越から夜に出発する。

それを旅行だと言っていたのだ。
でも、遠出するのは楽しかった。滅多に遠出することはなかったからだ。

昔の写真を見ると、僕がディズニーランドでミッキーとの写真で泣いている写真がある。
記憶にないが、それがお出かけと呼ばれる記録の一つである。

学生時代

小学校

これはうろ覚えの話だが、四年生か五年生のころに
家にノートパソコンが来た。
白いNECのノートパソコンだ。

ノートパソコンに触れているとき、とても楽しかった。いろんなソフトをいじったり、ネットサーフィンをしたり。

そして、幼稚園の幼馴染と、一緒にオンラインゲームをやるようになる。
ネクソンの、「マビノギ」というゲームだ。

このころはずっとハマっていた。
楽しかった。

家で会話することもなく、ずっとマビノギをやっていたのだ。
マビノギ内でのフレンドができたりして、新しい世界に入った感じがした。

習い事のドッジボールの楽しみがなくなったときに、癒しとなっていたのはマビノギだった。
本当にハマっていた。

これはもう時効にしてほしいのだが、母親の財布からお金を抜いて、課金していたこともある。
本当に申し訳ないと思っています。

それほどのめりこんでいたのだ。


小学四年生、10歳。
10歳となると、僕ら兄弟は、宗教に入信する。
10歳から入れるからだ。

母親が入ってる宗教に入信する。
父親はすでに入信していた。
兄、姉が順番に自然と入った。

僕も当然のように入った。
むしろ入るのが当たり前だと思っていた。

母親は、これを今でも自分の手柄のように喋る。
半ば強制、いや、沈黙の強制が雰囲気としてあった。しかし、母親はいつも「あなた達が自分で入りたいって言ったんだからね。」という。

母親は、あたかも自分のおかげだと言ったりする。
僕らは入る以外の選択肢がなかったのに。

そうして、入信する。
若い人たちは、青年隊というものに入る資格がある。そして、小中学生は青年隊の中の少年部に入ることになる。

少年部はとても楽しい。
一泊二日の研修会とか、農作業とかがある。
研修と言っても、少年部は単なるお泊り会になったりする。
青年のお兄さんや、お姉さんに見守られながら、いろんなことを学んでいく。これが楽しかったのだ。

別のコミュニティに所属した感じがして、とても嬉しかった。

今思えば、宗教で学んだことは、活動していない今でも大事にしているものがある。だから宗教が悪いのではなく、カルト集団や周りが見えなくなる人が問題になるのだ。


宗教の本山に行くとき、宗教の団体でバスを借りて、夜に川越を出発して、飛騨高山にいく。

その時僕はいつも、ポータブルCDプレイヤーを持って行っていた。そこでいつもD-51のアルバムやオレンジレンジを聞いていた。

それが大変になった時に母親にipod touchを買ってくれとお願いした。
理由は、深夜バスで音楽を聴きたいからと言った。

すんなり買ってくれた。こういう時はすんなり買ってくれる。


母親といじめについて話をしたことがある。

母親は、学生時代にいじめられていたらしい。
小学校か、中学校か、高校かはわからない。

クラスのある女の子がいじめられているのを止めに入って守ったら、いじめの標的が母親になってしまったらしい。

10円玉を熱して当てる根性焼き。
タバコの火をぶつける。
性的ないたずら。

それを受けたとか受けなかったとか。
あまり覚えていないらしい。

母親といじめの話をするといつもこの話をする。
「母さんは友達を守ったらいじめられた。その友達は友達じゃなくなった。」そう言っていた。

それでも強く生きてきた。
そんな母親だから、僕は弱音を吐けなかった。
母親も自分で対応して解決せずとも、耐えて生きてきた。


家族みんなでご飯を食べたことがない。
僕が小学校低学年ごろまでは、母親、兄、姉、僕の4人でテーブルを囲んで食べていた。

父親は、ミスタードーナツの店長をしていて、僕が学校に行くよりも早く家を出て、僕が寝てから帰ってくる。つまり、一緒に住んでいても会わないのだ。

ちゃんと働いているのか、家にいるのが嫌だから帰ってこないのかわからない。

僕が小学校の高学年になると、家では両親が毎日喧嘩をしていた。

毎朝喧嘩をし、毎夜喧嘩をしていた。
お互い、口論を辞めなかった。

両親が喧嘩をしているとき、僕は泣いてしまった。
声を出さずに。隠れて。
その時、姉はそばにいてくれたと思う。

ご飯もみんなで食べることがなくなった。
自分で自分の食べる分をよそって、テーブルに持っていき、一人で食べ、食べ終わったら食器を片付ける。

そういう生活をしていた。

このころ、子供部屋があったのだが、兄が中学校くらいのときには、兄が子供部屋を占領していた。

兄は中学校に入ったときから、子供部屋で一人で寝るようになった。
姉はテレビのある部屋で自分用の布団で寝ていた。
僕はまだ小さかったのでテレビのある部屋で母親と一緒の布団で寝ていた。

そうしたら、兄の独裁政治が始まって、三兄弟の学習机や荷物が子供部屋にはあるが、出入りがしづらいような雰囲気になっていた。
当然のように兄は、広い部屋で一人で寝て、挙句の果てにはその部屋でご飯を食べるようになった。
もう子供部屋ではなく、兄の部屋にされていた。

そうなると当然、僕はテレビのある部屋で活動することが多くなる。姉も追い出される形となってそれが当たり前だった。


兄は、市内の工業高校の機械科に入学した。
母親も初めての息子の入試で緊張していた。滑り止めも受けたらしい。
兄は、プラモデルやミニ四駆とかをいじっていたので、モノ作りに興味があったみたいだ。
兄は、写真部に入ったが、ほぼ幽霊部員だった。
レポートや実習が大変らしい。そんな生活を傍から見ていた。

姉は、中学でバスケ部の部長をしていた。
母親は、バスケ部の大会とかを見に行って応援していたらしい。
可愛い娘の頑張る姿を見ていたいのだろう。
姉は、身体を動かすのが好きだから、隣の市の体育科のある高校にいった。
滑り止めを受けたが、そんな心配もいらないくらい成績が優秀だった。

ちなみに僕が中学生のころ、陸上部に入っていた時、母親が大会の応援に来たのは1回しかない。

中学生

母親と僕と姉がテレビのある部屋でいつも寝ている。母親と僕はシングルの布団に一緒に入る。
姉は敷布団を敷かずに狭い空いたスペースで寝る。

僕は当時、オンラインゲームにハマっていた。
幼馴染たちと一緒に、深夜までスカイプで通話しながらやっていた。

あるとき、姉が合宿や何かの用事でいないとき、母親が寝た後も、ゲームをやっていた。

母親が起きて、トイレに行った後、台所で水を飲んでいた。
そこから、僕のところまできて蹴り飛ばしたのだ。

「ごちゃごちゃうるせー。さっさと寝ろ。」と。

言い返せなかった。
言い返したら大変なことになると一瞬で理解した。

兄にそんなことを言ったことはない。
兄も自分の部屋でいつもゲームをしているし、笑い声はうるさい。深夜まで起きていることはあるが、部屋に閉じこもってドアを閉める。

しかし、僕は蹴り飛ばされた。
蹴り飛ばされてからは早々と切り上げて寝た。

僕も部屋が欲しかった。
幼馴染たちはみんな自分の部屋があった。
僕にはなかった。

ないものはないと言われるかもしれないが、兄が独占せずに僕も入れてくれればよかった。姉も入れてくれればよかった。

そこに、両親の政治的介入をしてくれなかったから、こうなった。

父親は子育てに無関心。
母親はめんどくさいこと、環境を変えることを嫌った。

だからそのしわ寄せが僕に来た。そう思っている。
今でもそう思っている。


一年生のころ、母親のお父さん(おじいちゃん)が亡くなった。
車で、母親の実家に行った。
その車内で、ウルフルズの「笑えれば」が流れていたのをよく覚えている。

母親は、特に泣いたり、感情を乱すことなく、俯瞰して周りを見ていた。その後の事務作業等に追われているのを見て、大変なんだなと感じた。

申し訳ないが、お年玉が減ってしまったと思っていた。


二年生のころ、父親のお母さん(おばあちゃん)が亡くなった。
父親の実家は農家だったから、土地や家をどうするのか、そういう話をしていた。僕は豪華な料理をたくさん食べていた。おいしかった。

この時、兄と姉はいなかったように思える。
なんでいなかったのか理由はわからないが、僕と母親が車に乗って、父親はスクーターで来ていた。

そこで叔父さんから、お小遣いをもらった。
1万円だ。大金だった。

兄弟のいる人ならわかると思う。
兄弟が、お年玉をもらったり、お小遣いをもらったりするとき、兄弟で差をつけられる。

三兄弟で末っ子の僕は、いつも少額になる。
たとえば、兄が5千円、姉が4千円、僕が3千円となる。これが、兄が1万円、姉が5千円、僕が3千円となるときもある。

どういう理屈で、どういう計算でこうなっているのかはわからない。
しかし、僕が見ている世界ではそうだった。

だから、兄と姉がいない親の実家の集まりに参加すると、僕が参加者の子ども代表になれるから自然と大金を頂ける。

だから叔父さんからもらった1万円のお小遣いはとても嬉しかったのだ。

お小遣いをもらうと、母親は
「用事があるので失礼します。」
と、そそくさに帰るそぶりを見せた。
ちなみに、用事はない。この場にいるのが嫌なだけだ。

そうして、僕と母親で車に乗り、帰ることになり、その途中で、お小遣いは母親によって回収された。

ガソリン代と高速代に変わった。
僕のお小遣いではなかったのだ。

お年玉としてもらえたものだけが自由に使えるシステムに勝手に変わっていた。

小さいころに法事でもらったお金は、おもちゃとかに変わっていたはずだった。それもきっと記憶が曖昧だから、それを利用されてしまったのだろう。
悲しかった。


家で両親が喧嘩するようになってから、母親は父親のほうの実家に行くことを嫌った。

家の車を運転するのは、いつも母親だ。
車の名義は父親だが、実質的支配をしているのは母親だった。だから子供たちは、母親の車に乗せられて、出かける範囲、それが社会の、世界のすべてだった。

となると、父親の実家に行くことを嫌った母親に支配されている子供たちは、父親の実家というお年玉の太いパイプを失う。

父親の実家での年始の集まりに参加しなくなると、
その年から、お年玉が減っていった。
父親のお父さん(おじいちゃん)が亡くなってから、年数もたっていたから、法事に参加することも少なくなっていって、お小遣いをもらえるタイミングが少なくなっていた。

だからこのとき、すでに収入源をすべて失ったに近い。両実家の法事に行くことも少ない。家族の集まりに行くことも少ない。そして、三兄弟の末っ子だから、金額も少ない。

ちなみに、僕はお年玉で、一年の総額が1万円を超えたことはない。兄はいつも1万円を超えていたし、姉は女の子だから1万円を超えていた。
親戚の人も女の子はきっと可愛いんだろう。

周りの友達の話を聞いたとき、3万円とか5万円とか聞いたとき、世の中の理不尽さを知った。


これもまたお金の話だが。
うちはお小遣い制ではない。申告制だ。

「必要なものがあれば申告する。」
申告を受けて、審査があって、それが通れば購入となる。

欲しいものとか買いたいものは買ってもらえない。
必要なものだけだ。

だから陸上部に入ったときのユニフォームとスパイクは買ってくれたが、ゲームは買ってもらえない。

だからこそ、当時ハマっていたオンラインゲームの「マビノギ」に課金したいと思ったとき、母親の財布からお金を取るしかなかったのだ。

お金はとってはいけない。それはわかっている。それも当時の課金に使うなんてありえない。
今この記事を書いている時点でゲームに課金する文化は当たり前のようにあるが、当時のオンラインゲームに課金するのは世の中的に馴染みはなかったんじゃないかと思う。

ある日、母親に
「母さんの財布からお金なくなってるんだけど」
と言われた時は、死ぬほどひやひやした。
トイレに行ったり、知らん顔したり大変だった。

申し訳ないと思う。これから何かしらの形で返せればと思う。


家にあるゲームは、64(ロクヨン)、ゲームボーイ、ゲームボーイアドバンス、ゲームボーイアドバンスSPだった。
僕がやったことあるのはポケモンだったと思う。
母親はポケモンが好きだった。

ロクヨンでやったソフトは覚えてないが、たぶんスマブラはやったことあると思う。

そして、PS2が来た。
PS2は兄のお年玉で買った。だから兄のものになった。そして、子供部屋をすでに占領されていたから、そこで兄はこもってPS2をやっていた。

兄はよく地球防衛軍をやっていたり、ラチェット&クランクをやっていた。
僕はそれが羨ましかった。

だから母親にお願いして、ソフトだけ買ってもらうことにした。めちゃめちゃお願いして渋々買ってもらったのは桃鉄だった。

でも、兄が家にいる時は桃鉄はできなかった。
兄がいないときだけ桃鉄をやっていた。

僕は、桃鉄で、地名を覚えた。そして、名産品も桃鉄で覚えた。

でも、中学生のころの社会科目の地理は、深いところまで掘り下げないから、桃鉄の知識はあまり使うことなかった。

ゲーム内のさくまさんを倒せるようになった時、僕はもう桃鉄をやらなくなっていた。


そしてこのころ、流行っていたのは、モンスターハンター2ndGだ。当然、中学校の周りの友達もやっていた。PSP。買えない。

兄はもちろん、お年玉でPSPを買い、モンハンをやっていた。僕は買えない。桃鉄をお年玉で買っていた。友達が集まってモンハンをやっているのを見ていた。

母親に土下座した。
「今までもらったお年玉、そして今後もらうお年玉、お小遣いすべてささげるので、PSPとモンハンを買ってください。」と。

ゲームに疎い母親は
「兄ちゃんの使えばいいじゃない。」といったのだ。
それじゃぁ意味がない。だから僕の専用のが欲しいとお願いした。

そして悪魔の契約は成立した。
PSPを買ってもらったのだ。そしてモンハンも。
その代わりに、一生欲しいものが買えないということになった。

悲しいことに、僕がモンハンを買ってもらったタイミングでは遅かった。周りとの成長スピードと自分の参入のタイミングだ。

友達は全員強くなっているし、レベルが高いクエストをこなしていた。しかし、僕は初心者で、素材集めとかをしなければいけない。どんなに頑張っても追いつかない。

そして、友達は、手伝ってくれない。
なぜなら、手伝うよりもみんなで強いのを倒しに行くのが楽しいからだ。

そこで僕はネットでたくさん調べて、効率的に素材集めをするためにどうしたらいいのか考えていた。
そこで当時、バグ猫というのを使った。
アイルーというお供のスペックを最大にしたものをネットから拾ってpspに入れた。
そうすると、どんなモンスターもアイルーの一撃で倒せる。

そうやって素材集めをしたり、レベル上げをしていた。当然、自分の技術力は上がっていないから上手くはなっていない。

そうやって、レベル的に友達と一緒にやれるようになったとき、僕は足手まといだった。技術力がない。
そして、居ても立っても居られなくなって、面白いものがあるよと言って、バグ猫をみんなの前で使ったのだ。

僕は面白いものだと思っていた。でも友達みんな冷めていた。
俺が、バグ猫でレベルを上げていたこと、素材を集めていたことをそれを感じ取ったのだろう。
ゲームの面白みもなくなってしまった。

試行錯誤して、モンスターを倒すのが楽しいのに、その意味がなくなってしまったからだ。

3rdが発売されたのもあったし、僕がいけないことをしたのもあって、僕の周りからモンハンの流行は去った。

そして、モンハンをやらなくなって、PSPも使わなくなってしまったのだ。
あんなにお願いして買ってもらったものなのに、自分自身の行動で無駄にしてしまった。


小学生の時の話になってしまうが、2007年から2008年に放送された「SP 警視庁警備部警護課第四係」というドラマにハマった。
そして映画の、2010年、野望編、2011年、革命編。
映画は、テレビで放送されたのを見た。

全部見終わったのが中学生だったと思う。

このドラマがめちゃめちゃ好きだった。
それで、野望編や、革命編の情報をパソコンで見ていた時に、オリジナルグッズが発売されることが分かった。

G-SHOCKだ。
オリジナルの刻印と、オリジナルのバックライトをつけたシンプルなG-SHOCKだ。

これがどうしても欲しかった。
ただ、うちにお金はない。2万円くらいだったとおもう。

到底払ってもらえる金額じゃない。でもどうしても欲しかった。だから注文したのだ。勝手に。支払はどうするのか。代引きにした。

母親が必ず家にいる日、時間帯に配達指定にした。

配達される当日、僕は異様にそわそわしていた。
玄関のピンポンがなる。まず出たのは、僕だった。

「荷物来たけど、なんか母さんじゃないとダメらしい。」
と噓をついた。
そこで母親は代引きということを知る。そして2万円ということも知った。

この時に、お金がなかったらどうするのか。
そんなものはすでに考えていた。
母親がお金を隠す場所と、財布の中の量は把握していた。絶対に2万円はあった。

母親はまず払わずに僕のところに来た。
「あんたでしょ、頼んだの。どうするの2万。」
土下座した。僕は
「とりあえず、払ってください、お願いします。返品しますので。」
「ほら、配達のお兄さんも待たせてるし!」
といった。

母親は2万円払った。

僕は、そのあと何時間も正座した。
とにかく怒られた。なんで怒られてるのかわからなくなるほど怒られた。

当然、返品するなんて言うのは嘘だ。
中学生で腕時計なんて使う機会がないのに、買った。

どうしても欲しかったのだ。絶対大事にすると誓った。

そして、10年以上経ったいまも、その腕時計だけは変わらず動いている。すごすぎる。G-SHOCK。
僕が生涯で購入した腕時計はこの一本だけだ。


中学二年生のころ、父親がクビとなった。
ミスタードーナツの店長をクビだ。
クビじゃないのかもしれない。真相はわかっていない。

父親がクビになったとは言わなかった。
会社を辞めたと言った。

母親は、当然のように退職金が入ると思っていた。
そりゃそうだ。勤続20年はゆうに超えていたから。

退職金は入らなかった。

母親が問い詰めると、父親は誤魔化した。
話をしていても埒が明かなかったらしい。

だから、僕ら家族の中ではクビになったということにした。クビになった理由は、衛生管理が杜撰だったらしい。これも不確かな理由だ。

すべて曖昧で、正しい情報みたいなものは得られなかった。だから家族みんなモヤモヤしていたのだろう。

ここから父親は無職となる。給料も入らない、退職金もない、貯金を切り崩す生活となる。

父親は、このあと、順番は覚えていないが、職を転々とする。
NHKの集金、数か月で辞めた。
不動産の営業、成績悪くて辞めた。
辞めては無職になってを繰り返して、
歯医者の訪問診療のドライバーとなって、今も落ち着いている。

給料は大卒初任給よりも低かった。


クビになってからの両親関係は最悪だった。
喧嘩がエスカレートしていた。
母親は物を投げたり、父親は声を荒げて家を出たり。

僕は小学生のころに、両親の喧嘩を見て泣いた時から、もう慣れていた。
慣れは怖い。

この時のストレスの影響かわからないが、中学生のころに、家にいて過呼吸になったことがある。
息が吸えなくなるんだ。

本当に怖かった。死ぬと思った。
母親はそんな僕を見て、おまじないをかけたのだ。
宗教のおまじないだ。

この時、僕は生きることを諦めた。
おまじないじゃ何もできないことを知った。
このまま死ぬんだなと。

次第に息ができるようになって、無事に落ち着くことができた。

母親は健気に
「おまじないのおかげだね。感謝しないとね。」
と、言ったんだ。

母親は父親がクビになる前からも喧嘩すればするほど、居場所を宗教に求めたんだろう。
だからこそ信仰心が強くなっていったのかもしれない。

それを示すように、僕が中学生になると、母親は一定の子育てが終わったと思ったのか、家にいること自体が少なくなった。

毎日、朝から、夕方まで、宗教施設に参拝していた。時には夜遅くまでいた。

夜遅くなる時は、事前にご飯を作って、勝手に食べてと言われる。夕方帰ってくるときは、帰ってきてからご飯を作る。

土日の昼は、テーブルの上に500円玉が置かれるのだ。500円玉がテーブルに置かれないときは、前日の夕飯の残りを食べてくれという意味だ。

僕が、土日に部活動があって、練習が遅れて、家に帰ってくると、ご飯がないときがある。
それは、兄が、間違えて、僕が出かけて昼ごはんを食べないものだと思って全部食べてしまうのだ。

その逆もしかり。
この時、姉はどうしていたのか覚えていない。
なぜ覚えていないかもわからない。

食の恨みは怖い。この兄弟喧嘩が一番怖い。

1日昼ご飯を食べなくても生活できるような体になっていた。
お小遣いのない生活をしている僕にとって500円玉は大金で、これを昼飯代として使わずに我慢すれば別で買いたいものが買える。
だから500円玉が支給された時はほとんど食べていなかった。

母親はそんなことも気にせず、宗教施設に通っていた。あたかもそこで働いているかのように、行く義務があるかのように、通っていた。
そして、通っている母親自身を肯定化していた。

母親は
「母さんはあそこでやること任されてるから行かなきゃいけないの。」
そんなことを言っていた。
一般人は普通の会社でも休むことすらあるのに、
母親は毎日欠かさず行っていた。

ときに、僕が
「母さん、働けばいいじゃん」というと、
「え、家で働いているじゃん」という。

家にいない専業主婦がいるのかよと思った。
部屋の整理整頓はできないし、宗教の本が大量にあって処分できないし、掃除は1週間に1回くらいだし、ご飯のレパートリーが少なかったり、栄養配分も考えられていなかったりする。

専業主婦として仕事をしているのであれば、そこでなにか進歩があってほしいと思っていた。

母親は、宗教でボランティアとしてお手伝いする側になっていて、そこでの役割がつくようになっていた。宗教ではベテランになっていたのかもしれない。


中学三年生のころ、僕は宗教に没頭する。
中学二年生までは、青年隊の中の少年部という扱いになる。
そして、高校生から正隊員になることができる。
正隊員になるためには、一年間の訓練が必要になる。
そのため、中学三年生からは準隊員として一年間、訓練をする。

最低の年齢が、高校生からなので、一番早い入隊となる。
普通に若い人が入ったときも、正隊員になるためには一年間訓練をするので、準隊員の中には中学三年生から成人した人までいろんな人がいる。


いわゆる宗教二世は、エスカレーターのように入隊する人が多いので、
同じ境遇で、同じ年代の人たちが集まることが多い。

そして、一年間の訓練で何回も同年代と会うことがあるから、とても楽しかった。

訓練できついことがあっても、仲間と一緒なら乗り越えられるし、きついことだけじゃなくて、農業体験とか、街に出たりとか、楽しいこともあるので、充実していたと思う。

訓練以外にも、熱心に宗教施設に通ったりしていると、ほかの大人から褒められることがあったのでそれも嬉しかった。

青年隊の年上のお兄ちゃん、お姉さんに甘やかしてもらったり、厳しくしてもらったり、とても嬉しかった。

そして何よりも、母親に褒められた。いや、直接褒められたわけじゃない。
嬉しい顔をしていたのだ。
僕が頑張ると、噂になって、母親の耳に入って、母親の評判が良くなる。
そうなると母親の気分が良くなる。

母親は、周りからの評価、世間体が良くなると機嫌が良くなる。
そして、嬉しいのかわからないが、上機嫌で僕に対して
「〇〇さんが、あなたのこと褒めてたよ。」
と伝える。だから褒められている気持ちにもなった。

母親が認めてくれることはない。
僕が宗教を頑張っても、「母さんのほうが毎日いってるから」と張り合ってくる。
母親が僕を褒めてくれたことはほとんどない。


中学生の時、家にコンパクトデジタルカメラが来た。
CANON PowerShot SX200 ISだ。


なぜ家にカメラが来たのは理由はわからない。
なぜなら、僕が小学生になってからの家族写真はない。
撮る機会もないのだ。

僕が写真に写ってるのは、習い事のドッジボールのときの集合写真くらいだ。

そして、ドッジボールは小学生の時点で終わっている。カメラが来たのは中学生だ。

なんのためにカメラを買ったのか訳が分からなかった。家のカメラだったが、だれも使わなかったので、僕が独占して使っていた。

主に、夕焼けを撮っていた。


そんな中で、母親に、
「この写真、上手くない?」と聞いて、
「上手いね」と言われた写真がある。
後にも先にも、上手いねと言われたのはこの写真だけだったと思う。

幼馴染の家の駐車場にある、雑草だ。
褒められたのは夕日じゃなかった。
それでもよかった。

この写真は、実際に見なくても、記憶の中ですぐに思い出せる。それほど、記憶に残っている。


僕が中学三年生に上がったとき、兄が工業高校を卒業し、就職した。体調を壊した。

適応障害だ。

兄が休職する。そして退職。
家で療養することとなる。

兄は子供部屋で療養していた。
すでに子供部屋は兄の独裁政治のもと、支配されていたから、正直、何の変化もないと思っていたが、家族は神経質になった。

兄は常に寝込んでいて、ご飯が食べられないようになっていた。ゼリーかプリンを食べるようになっていた。

冷蔵庫のゼリーかプリンは兄のものだ。
僕が間違えてプリンを食べてしまったとき、兄に殴られた。そして母親にも怒られた。

全家族が、兄に気を遣う生活が始まった。

そのときがちょうど父親が仕事を転々としている時期だったから、両親の喧嘩がエスカレートしているときだった。

そこで兄が登場する。
「お前らうるせーんだよ、いい加減にしろ」と。

その混沌の中で僕は過呼吸になったんだと思う。

兄が子供部屋にいるときは、部屋に入れないし
兄が、トイレやお風呂に入るときは、あまり接触しないようにしていた。

家に僕の居場所がなくなった。


僕が中学三年生となると、姉が高校三年生になる。
姉とは2歳差だが、姉が早生まれのため、中学、高校の期間が被ることはない。

姉は、体育科で身体の構造とかを学んでいた。
卒業後は、大学に入って、理学療法士になりたいと思っていたらしい。

しかし、うちにお金はない。
父親は転職を繰り返し、兄は療養中、母親は専業主婦。稼ぎ頭がどこにもいない。

姉は、大学と短大を受けた。入学試験を受けるお金はあったみたいだ。
両方とも受けて、成績を見て、学内奨学金とかを狙えるほうに行こうと考えたみたいだ。

ちなみに姉は高校の最後の成績はオール5だった。

母親は奨学金に後ろ向きだった。
借金だからだ。金利が付くのを嫌った。

姉は短大を選んだ。特待生にはなれなかった。
しかし、日本学生支援機構の奨学金で、無金利を借りることができた。
それで何とかつかんだ。

しかし、短大では、理学療法士にはなれない。
3年通わなければいけない。
短大で2年やって、場合によってはもう1年在籍して資格を取る方法があるらしい。それを踏まえて短大を選んだ。

短大にしろ、大学にしろ、入学が決まれば、まずお金を入れなければいけない。

奨学金は入学後に支払われる。学費を入れなければ入学は認められない。詰んでいる。

そこで、父親の両親がなくなったことによる、遺産を使ったらしい。遺産といっても、現金は、大学の学費の2年分ギリギリしかなかった。

それでなんとか納入し、入学した。


姉の進学ともに、僕も中学三年生なので進路を考える時期となる。
正直、中学三年生に進級した時点で進路は決まっていた。

中学二年生の時点で決まっていた。
中学二年生というと、父親が会社をクビになった時だ。心の中では、兄と同じ工業高校に行こうと思っていた。

中学三年生になって、進路を考えた時、母親にこう言われた。
「高校卒業まではお金を出せる。そこからは自分で調べてどうにかしなさい。」
たしかそんなことを言われたんだ。

高校卒業後は働くしかないと思った。
働くには普通高校じゃなく、手に職をつけるために工業高校しかないと思った。

さらに、電車賃は出してくれないだろうから、自転車で行ける範囲がいいと思った。

兄と同じ市内の工業高校であれば、制服も、製図道具も、電卓も、新しく買わなくて済む。
そうすれば、お金も節約できると思った。

教科書は買うしかない。体操着もジャージも買うしかない。それでも確実に節約できることはわかっていた。

もう工業高校一本で考えていた。
そしてそれ以外行きたい場所を考えてしまったら、揺らいでしまうから一切考えないようにしていた。

本当は、埼玉県内の、芸術を学べる高校に行きたかった。その理由は、このとき写真家になりたいと思っていたからだ。

芸術を学べる高校では、映像学科があって、その中の授業で写真も学べることができる。そこで学びたかった。

卒業後は日大芸術学部や武蔵野美術大学に行くのが通例だった。
学費はまず出ないし、そもそも試験に受験するためのお金すら出してくれないと思った。

そしてなにより、芸術を学べる高校は、電車で通う必要があった。
電車賃なんてバイトすればいいじゃんと思うかもしれないが、頑張ってバイトして、高校を卒業したところで、専門学校や大学に行けないのであれば、
単なる高卒のフリーターになるだろうと考えていた。

それに比べて、自転車で通える工業高校にいけば、バイトをしなくて済むから、その分勉強ができて、勉強ができる分、成績を上げることができる。
工業高校の就職組は、成績が高い人から就職希望先を選ぶことができる。
これは、兄がそうだったから事前に知っていた。

高校卒業した後のことを考えて、僕は工業高校にした。するしかなかった。両親にそうしろと言われたことはない。

自由に選んでよかった。うちの家は、自由主義だ。

でも、子供も中学生となれば、気を遣うことができる。親に、家族に、気を遣った。

そして、お金を節約したことによって、母親に褒められたかった。
今でも、このときの進路選択の時の話をしても、母親は僕を褒めなかった。

当然だ。母親自身も、お金がない家出身だ。
そして、母親は、アルバイトしながら定時制高校に通っていた。

アルバイトしなくても高校に通えることに感謝しなさい。と言わんばかりの態度で僕と接する。言われたことはない。

工業高校は公立である。
公立を第一志望にする学生は大体、私立を滑り止めとして受験する。僕は受験しなかった。
なぜなら合格してもお金がないから入学できないからだ。受験する意味がない。

埼玉県では、北辰テストというものがある。
偏差値とか、希望高校に合格できるか判定する模試だ。その模試も受けなかった。受ける理由がなかった。

工業高校を落ちたら、定時制高校に行こうと思っていた。
僕が受けようとした工業高校は定時制がある。定時制は4年間。
もしも、落ちたら、定時制でいいやと思っていた。
定時制は基本定員割れになるから、二次募集がかかる。それで受験すれば大概間に合うし、基本は合格できる。

だから、模試を受ける必要もなければ、私立の滑り止めを受ける必要がなかった。

自分が置かれた環境において一番合理的に進路選択する方法は何か。それを常に考えていた。

そしてそれを正当化するのに必死だった。
周りが楽しそうに、進路の話をしていたら、耳に入れないようにしていた。
耳に入ったら、自分が崩れてしまうと思っていた。

そういう時期に担任の先生から
「高専とかは考えないの?」と言われた。
そのせいで、余計なことを考えてしまった。
高専とは何か知らなかったし、分からなかった。
そして知らなくていいと思っていた。

「考えなくていいです、一本で行きます。」といった。高専について何も調べずに、進路決定した。

高専とは何か。それを深く知ったのは社会人になってからだった。

そうして、僕は、兄と同じ、市内の工業高校を受験し、合格し、入学する。

高校生

中学校三年生で、宗教の青年隊の準隊員として一年間訓練し、無事に訓練を終えて、正隊員として入隊を許可される。

準隊員のときに、僕が頑張っていたことを評価され、スタッフ等の役職に就かせてもらった。

僕はまず、少年部スタッフになった。
少年部は準隊員になる前に自分がいたところだ。
そして、そこのスタッフになる。つまりあの時見ていたお兄さんたちになるということだ。

スタッフになると、ただただ楽しかった一泊二日の研修会も大変になる。
運営側になるからだ。いろんな子供たちの面倒を見なければいけないし、深夜まで会議をやったりする。大変だ。

結局それが、きつくなってしまって、僕はスタッフとしてあまり手伝いに行けなくなってしまった。

そして正隊員になったときに少年部スタッフと同時に農園スタッフも兼任することになった。
1年目からの兼任は珍しい。

なぜ農園スタッフになったかというと、少年部のころから可愛がってもらっている先輩からお誘い頂いたからだ。

農園スタッフというのは、青年隊として管理している農園があって、それを管理するのだ。農作業が主な仕事だ。

しかし、僕は、農園スタッフとして活動するよりも先に、きつくなってしまったことによって、手伝いに行けなくなってしまった。

こうして、中学校三年生からの居場所だった、宗教、青年隊から少しずつ距離を取るようになっていった。
頑張っていたものも、何も残らず、消えていった。


高校生になって、僕は写真部になった。
写真部では、カメラが必要となる。
しかし、必ずしも購入が必須というわけではない。
貸し出しのカメラもある。

貸し出しのカメラは数が限られているから、順番待ちとなることもある。

だから、僕は自分のカメラが欲しいと思っていた。
でも、買えないだろうなと思っていた。

試しに母親に、入学祝いにカメラが欲しいと言った。そしたら、珍しく買いに行こうと言われた。

その時に欲しかったのは、向井理がCMをしていたPENTAXのK-30だ。

これの青が欲しかった。

母親と一緒にいったケーズデンキでは当時、青色がなかった。黒しかなかった。

だから黒にした。
ダブルズームレンズキットにした。
ズームレンズが二本セットになっているやつだ。

たしか15万円くらいしたと思う。
なぜ、こんなに高額なものを買ってくれたのか。
当時は理解できなかった。

ただ、おそらくだが、子ども手当を貯金して、それを使って買ってくれていたのだと思う。

この時ばかりは感動した。嬉しかった。本当に嬉しかった。

必ず写真で結果を出そうと思った。
当然、写真で結果は出した。賞を取った。

この構図の黒白フィルムで撮った写真が入賞した。

賞を取ったのは、フィルムの写真だったが、カメラを買ってもらって、たくさん写真を撮って学んだからこそ撮れたと思っている。


高校生になってから、父親の仕事が安定した。
歯医者の訪問診療のドライバーだ。大卒初任給以下の給料だった。

それでも安定して給料が入ってくると思うだけで、
安心できる人もいるんだろう。

そんなに忙しい仕事ではないはずなのだが、父親はいつも夜遅く帰ってきていた。

残業も多くあるはずがない。

どこか寄り道をしているのだろう。と母親はそうやって言っていた。
父親の荷物の中に市立図書館の借りてきた本とかがあったから、図書館で時間をつぶしているのだろうと思っていた。

家にいても、喧嘩するだけだから、家に帰ってきたくないのだろう。


母親はずいぶん前から、父親にだけ食事を作らなくなっていた。

作らなくなったのは理由がある。父親が、残した夕飯をそのままゴミ箱に捨てたからだ。

食べきれなかったら、次の日に食べればいい。母親はそういう考えを持っている。なにより、食べられる状態のご飯を捨てるなんてありえないと思っている。

母親は、ご飯をごみ箱に捨てたことに対して激高した。
ご飯いらない、食べないってことだから、絶対に作らない。
頑固たる態度でずっとそうやって言っていた。

その日から絶対に父親の分の夜ご飯を作らなくなった。

だから父親は、家に帰ってもシャワーを浴びて寝るだけ。
朝ごはんも夜ご飯も出ない。
そんな家に帰ってくる理由なんてないのだろう。


事件が起きる。
父親が宗教に、職場の女性を連れてきた。

そして、その女性が入信することになる。お導きという。父親がお導き親となる。

父親が宗教の所属している班の班長は母親だ。
だから、母親がサポートに入る。

父親とその女性は、仲睦まじい姿を見せていたらしい。父親の職場の女性に対するサポートがダメダメなとき、母親はイラついていた。

母親は、親族以外をお導きしたことはない。
親族のお導きはハードルが低い。簡単だ。入ってもらえればいいだけ。

それとは違って、普通の人間関係の中でお導きした父親は意外とすごい。
当時はそう思っていた。しかし、今は、きっとその女性と特別な関係だったからすんなりいったのだと推測できる。

そして、職場の女性が入信してから数年の時が経ったとき、その女性が亡くなる。心不全。突然死だった。

父親の顔に元気がなかった。

聞いた話だが、その女性のお葬式で父親は、女性のご遺体の首に宗教のお守りをかけようとしたらしい。非常識だ。ありえない。

親族でそういうことをやることはある。
しかし、親族以外でやってはいけない。
ご家族のご意向を最優先するのが常識だ。
そんなことは、僕ですらわかる。
なのに、父親はわからないのだ。

非常識な行動をすることで宗教に対して悪いイメージを持たれてはいけない。一瞬にして、ご家族の心情を踏みにじってしまったのだ。

父親はそういう人間だ。

そして、父親はこの女性が亡くなってから、仕事のために家を出る時間が遅くなった。そして、家に帰ってくる時間が早くなった。

自然と家にいる時間が増えたのだ。

確信した。
家に居たくないから、女性の家に通っていた。
証拠はない。証拠はないが、確信できた。

そして、後日談だが、
「死にたくなったこととかあるの?」と、父親に聞いたことがある。そしたら、「あるよ、つらいときがあった。」といった。

感じ取った。きっと女性が亡くなった時だ。
そういうことではない。僕と一緒にしないでくれと思った。

そんな父親だ。


兄は療養していたが、少しずつ動けるようになっていた。そして兄はバイトを始めた。自転車の修理屋さんだ。

そこで資格を取ったり、接客を頑張ったりしていた。しかし、バイトに行く前にいつも嗚咽をしていた。

僕はその嗚咽を聞くたびにうるせーなぁと思っていた。

そして、兄はバイトのお金をためて自分のやりたいことをやり始めた。
声優の学校に通い始めたのだ。声優の学校と言っても、学んでいたのはラジオパーソナリティだった。
兄はラジオが好きで、ラジオパーソナリティになりたいと思ったんだろう。

自分でアルバイトをして、お金をためてやりたいことを追う。それは素晴らしいと思う。

でもアルバイトに行くたびに嗚咽をしていたのだ。
僕はそれを見るたびにフラストレーションは溜まっていたが、何も言うことはなかった。

兄は学校で知り合った人と付き合うことになったらしい。
彼女ができたみたいだ。そうするとみるみるうちに回復していったと思う。

正直、ムカついた。
他人に悪影響を与えていて、自分は幸せになりやがって。そう思っていた。

兄が専門学校を1年通ったときに、2年目から学校が移転することになったらしい。

学校が遠くになることで、通学定期代がかなり増える。そうすると、バイトを増やさなきゃいけない。
バイトには行きたくない。だから通えない。となったらしい。

そうして、兄はまた、ただバイトするだけの生活に戻った。


姉は、短大卒業が近づいていた。家にお金はなかった。父親の両親の現金の遺産は使い切っていた。

だからもう1年学校に在籍して、理学療法士の資格を取得する選択肢を諦めることになった。

ジムに就職した。身体の構造を学んでいたことを活かせるのだろう。
就職とともに千葉に引っ越すことになった。初めての一人暮らしだ。

姉は以前から劣悪な環境で寝ていた。

母親の宗教本や荷物によって寝る場所が狭くなって、敷布団を敷かずに掛け布団をかけて寝る。

僕は母親と一緒にシングルの布団に入って寝る。寝返りする場所はない。
兄は子供部屋に一人で、折り畳みベッドで寝る。父親は別の部屋で寝る。

これは完全な想像だが、一人暮らしになって、初めて寝た時、嬉しさと寂しさが半端じゃなかったと思う。もう実家のあの環境には戻りたくないと思っただろう。

姉は、特に精神疾患等を発症することなく、しっかりと社会に出て働いている。成功例と言っても過言ではない。

でも、姉の本当の気持ちは誰も知りえることはない。姉は感情を表に出さない。自分がこうしたいとかああしたいとかを人に言わない。

きっとあの人が一番頑張っていたんだと思う。


姉と僕が小さいころに、2人で小さいお祭りに行ったことがある。輪投げで欲しいものがあった。お金は限られていて、結局取れなかった。

僕はめちゃくちゃ泣いていて、姉は慰めてくれていた。手をつなぎながら帰った。

両親が喧嘩しているときに僕が泣いても、姉はそばにいてくれた。姉は優しかった。

姉は家にいて何を考えていたのだろうか。
姉は家にいて何を思っていたのだろうか。

そんなことを考えるが、直接本人に聞くことはない。

いまは奈良に住んでいるらしいが、連絡を取ることはない。年末年始や連休に帰ってくるらしいが、会うことはない。

それくらいの距離感。


高校生になって、原付免許を取った。

母親は、ルールや常識、世間体を気にする。
だから当時、埼玉県で3ない運動があったとき、原付免許を取ることなんてありえないと考えていただろう。

3ない運動は、バイクに関するものだ。
「オートバイの免許を取らせない」
「オートバイに乗せない」
「オートバイを買わせない」

もちろん、自分の学校でも免許をとってバレたら、
停学にはなるだろうし、免許も学校に預けることになるだろう。
だから免許が入ってる財布を絶対に落としてはいけない。

僕は、幼馴染と一緒に免許を取りに行った。
夏休みに、幼馴染のお父さんが朝早くから車を出してくれて、免許センターにいった。

財布の中に現金がなくて、ギリギリしかなかった。
そしてなにより、ほとんど勉強していなかった。
落ちてしまえば、怒られることもないし、仕方ないだろうって思っていた。

何も言わずに休みの日に朝早くから出ていく僕を母親は疑問に思っていた。

すぐに免許を取ったことが母親にばれる。母親は
「どうするのこれ、返納してこい」
「馬鹿じゃないの、学校にばれたらどうするの」
「母さんが預かるわ。絶対に使うな」
そんなことばかり言っていた。

僕は言うことを聞かなかった。
免許は自分で管理した。母親の言うことは本当にうるさかった。

母親はとにかく、ダメなことはなダメで融通が利かなかった。決して正しいこと以外認めなかった。

そうして、免許を取っただけで
「この不良が」と言われた。

ちなみに母親は高校生の時に原付免許をとっている。定時制だったからとってもよかったらしい。


高校三年生になって、アルバイトを始めた。
何より、ある程度、学校の成績が出来ていたからだ。3年間の成績で、ほとんどがいい成績なら、就職は何とかなる。

アルバイトも、幼馴染と一緒にした。
ピザのデリバリーだ。原付免許を当然のように使った。

母親には、デリバリーをしているとは言わなかった。ピザを作るほうだと言った。

アルバイトで貯めたお金で原付バイクを買ったのだ。

買った原付の写真はこれしかない。高校生当時のナンバーではない。

原付を買ったことで、母親は激怒した。収拾がつかないレベルまでなった。でも、もう原付はあるし、手放すのもめんどくさい。次第と母親の怒りは収まっていき、呆れてくれることに成功した。

当時は任意保険なんて知らなかった。
そして、知ったとしても入れなかっただろう。お金がないから。

このバイクがあったおかげで、アルバイトの通勤がとても楽になった。楽になったことで、たくさんシフトに入れるようになって、お金も稼げるようになった。

幼馴染と一緒にやっていた、ピザのデリバリーのアルバイトは人間関係が嫌になって、ぬるくバックレてしまった。幼馴染の顔を汚してしまった。

そうして高校生最後の年末年始は、郵便局のアルバイトをした。
郵便局と言っても配達ではなく、仕分けのアルバイトをした。

その給料で、欲しいカメラを買った。リコーのGRだ。このカメラは本当に好きだった。でも短命だった。



高校三年生ともなると、工業高校の車好きたちは運転免許をとる。
そして就職組は、免許が必要となるから運転免許をとる。

僕は取れなかった。いや、取らなかったのかもしれない。

うちには当然お金がない。いや、あった時代もあるのかもしれない。僕の運が悪いだけだ。

兄は、運転免許のお金を家から出してもらって、高校在学中に取得した。
姉は、運転免許のお金を家から出してもらって、短大在学中に取得した。

母親に聞いたことがある。
「免許取りたいんだけど」
「お金ないよ、自分で働いて取れば?」
これだけだ。

そりゃそうだ。アルバイトをしていたから。僕は。
僕だけがアルバイトをしていたのだ。

兄は高校在学中にアルバイトをしたことはない。
姉は高校も短大在学中もアルバイトをしたことがない。基本働き始めるのは卒業してからだ。

そんな中、僕は高校三年生で初めてアルバイトをする。
18歳になったことで、今まで払ってもらっていたスマホ代、通信料を自分で払うようになった。そしてスマホの契約も自分名義にした。

兄は、社会人になっても親に通信料を払ってもらっていた。最近やっと自分で払うようになったらしい。アラサーでだ。
姉は、まだ通信料を親に払ってもらっていて、ある程度溜まったら親に返すらしい。
僕は高校三年生、18歳から自分で払っている。いまも当然払っている。

だから当然、母親は免許も「自分で働いて取ればいい」と言うだろう。
それを僕は許せなかった。なぜ僕だけがそんな思いをしなければいけないのか。ずっとそうやって考えていた。

原付を買わなければ。カメラを買わなければ。最初に買ってもらったカメラを売れば。たくさん働けば。
免許は取れただろう。30万円。貯められただろう。

でもそれをしなかった。許せなかったから。
親が金を出してくれるまで免許を取らないと意地を張っていたのだろう。

今もきっと許せてない。


社会人になるための準備をしていた。
僕はスーツが買えなかった。いや、買ってもらえなかった。

これも免許と一緒だ。兄も姉も買ってもらっている。

僕はアルバイトをしていたから、
「お金あるんでしょ?自分で買えば?」
と母親に言われるばかりだ。

でも当時、ピザのデリバリーは人間関係で嫌になって、郵便局のアルバイトは短期だから終わっていた。

しかもカメラを買ってしまっていて、貯金はほとんどなかった。
もちろん、最初に給料が入るまでの生活費を残しておかなければいけなかったから、それを残したうえで、スーツ代を捻出できなかった。

だから僕はカメラを全部売った。

写真部に入って、買ってもらったカメラ、レンズ。
自分で頑張って働いたカメラ。
それらを全部売って、スーツ代にした。

ここから僕は、写真ができなくなった。何かを撮ろうと思えなくなった。

スーツも、リクルートスーツじゃなく、普通に使えるスーツにした。
なぜなら、入社式以外にも使うかもしれないと思ったからだ。
そうするとリクルートスーツよりも値段は高くなった

上下だけ買った。上下しか買えなかった。
シャツ、ネクタイ、ベルト、革靴、バッグ。
セットになってるものは買えなかった。高かった。

シャツは家にあるものを使った。
ネクタイは、ドン・キホーテで3本セット1000円になってるやつを買った。
ベルトは、ドン・キホーテで安いやつを買った。
革靴は、靴屋さんで最安になってるやつを買った。
バッグは買えなかった。

バッグが買えなかったのだ。
でも大学生と違って、社会人にとってバッグは必要だ。リュックで行くわけにもいかない。

だからバッグはどうしても必要だった。
でも母親にお願いすることはなかった。
どうせ、お金ないと言われるだけだからだ。

そこで僕は、高校の友達で、アルバイトをめちゃめちゃしている友達に相談した。
お金を貸してほしいと。

5000円借りた。給料入ったら絶対に返すと。
それでバッグを買った。
今でもそのバッグは持っているし、捨てることはできない。

後日、初任給が出てすぐに返した。

あの時の友達には本当に感謝している。
今は連絡取れていないが、もしまた会えることができたらもう一度感謝を伝えたい。


そして、卒業が近づいてきたときに僕はどうやって引っ越すか。それだけを考えていた。

僕は栃木の会社に就職することが決まっていた。
実家の車に荷物を積んで、原付は自走で栃木まで行こうと思っていた。
だけど、救いの手を差し伸べてくれた人がいた。

高校の文化祭で知り合った写真部の先輩たちだ。
そんな状況を知って、トラックで引っ越しを手伝ってくれることになった。

トラックのほうに原付を乗っけてくれて、
母親の車のほうに布団やら荷物やらを積んでいった。

引っ越し先について、何もない家に、布団と着替えと荷物だけを置いた。

写真部の先輩たちが、
「冷蔵庫や洗濯機はどうすんの」
というので
「給料入ったら買います。」
と答えた。そうすると、先輩たちは
「今から買いに行くぞ」
といって、トラックに僕を乗せて走り出した。

中古の冷蔵庫と洗濯機を買ってくれたのだ。
就職祝いと、引っ越し祝いだ。と。泣きそうになった。

本来、親がやるようなことを、親代わりのようにやってくれた。感謝してもしきれない。

写真部の先輩と母親が顔合わせしたときも、母親はよそいきの顔をして形だけのあいさつと感謝の言葉を述べて、そそくさと家に帰っていった。

母親は何も感じなかったのだろう。

そうして僕は社会人になる。

社会人

1社目

入社して、初めての一人暮らし。
手取りは13万円。寮費が1万円。電気ガス水道は自分持ち。
当然金はない。金はないが、免許のために貯金しなければいけない。

初めての一人暮らしで戸惑うことはたくさんあった。
インターネットを契約することができなかった。
お金がないからだ。

そのことを隣に住む女性の先輩に相談したら、
「うちのwi-fi使っていいよ」と言われた。
嬉しかった。本当にありがたかった。

そして、写真部の先輩が心配して家に遊びに来た時に、
「若い男が、何の娯楽もなくスマホだけでどうするんだよ。」
といって、ノートパソコンをくれた。

本当に周りの人に助けられた。
だからこそあの環境でも頑張れたのだと思う。

そうやっていろんな人に支えられながら節約をして
貯金をしていた。

しかし、何を血迷ったのか、何かが爆発したのかわからないが、僕は車の免許をはじめに取らなければいけないのに最初にバイクの免許を取ったのだ。
いままでのフラストレーションがたまっていて爆発したのだ。

たとえ雨の日でも雪の日でも原付バイクで通勤していた。毎日通勤しながら、毎日教習所に通い、免許を取った。たとえその日に教習が入っていなくても通い、キャンセル待ちを狙っていたのだ。

無事にバイクの教習を終えて夏季連休がやってきた。夏季連休中の平日に免許センターに行って、バイクの免許を取ることができた。

バイクの免許を取って、次の日に車の教習の申し込みをした。そうして、教習を予約した。車の初めての教習まで4日間ほど期間があいたからその期間を使って帰省をした。


帰省したとき、家には誰もいなかった。
父親は仕事、母親は宗教、兄はバイトだ。
そんな家に帰ってきた。

僕はホンダのディーラーにいた。車が欲しかったから。でも、まだ車の免許を持っていない。教習前だ。

以前から会社の同期の中で車が欲しい談義をしていた。その中でいつも出てくるのはホンダのS660だった。

僕はお調子者の節もあるから、絶対に買ってやるよと大口をたたいてた。

そして、ディーラーにいる僕は当然のようにホンダのS660の見積もりを出してもらった。
念のため、N-ONEの見積もりも出してもらった。

そして、有無を言わさず、ホンダのS660を新車でフルローンで契約をする。
契約と言っても、自分だけの年収で審査が通るわけがない。
なぜなら年収300万円以下だったから。
それで諸々込みで240万円の車を買えるわけがない。

だから連帯保証人を付けた。連帯保証人は父親だった。

まず、母親にローン申込書を見せたが、
「父さんに言いなよ」といった。

あくまでも自分は責任を取らない。そういった態度だ。

僕はもう父親と話すことを嫌っていた。
会話が通じる相手じゃないからだ。

だから、ローン申込書の書いてほしいところに印をつけて書いてくれと頼んだ。

中身は何も言わなかった。
冬に雪が降ったとき、原付じゃしんどいから車が欲しい。そんなことだけを言った。ホンダのS660を買うとは言わなかった。

父親はとりあえずローン申込書に必要事項を書いてくれた。そして、僕はローン申込書等、必要書類を提出した。

1日目ディーラー訪問
2日目書類一式準備
3日目ディーラー休み
4日目書類提出

4日間をそうやって過ごした。
そうして、電車で栃木の地に帰っていた。


また教習の日々を過ごすことになる。
車の免許の教習をしているときは、泣きながら教習所に通っていた。

どうして俺が。俺だけが車の免許代を自分で出さなければいけないのか。
生まれてきた順番が悪いのか。家が悪いのか。
ずっとそんなことを考えていた。答えは出なかった。

そうして、申し込んだ新車のホンダS660の納車日が決まる。11月5日だった。

その日までに免許を取る。
それだけが目標だった。

10月に教習が終わり、有休をとって免許センターに行った。合格した。合格してよかった。

7月あたりから、10月までずっと教習の日々だった。
毎日いった。

教習の料金が一括納入じゃなかったからそれだけが救いだった。
最初に必要になる金額だけ貯金をしてそれからは時間がかかるから教習のスピードと給料日と相まってうまく進めることができた。

それでも3か月で40万円以上は使ったことになる。
いまでも思い出せない。
入社してからの半年の間で、手取り13万でそこまで使えるのか。
どうやっても思い出せない。

もしかしたら辛すぎて思い出さないようにしているのかもしれない。


ホンダのS660納車日まで、駐車場を準備したり、任意保険を準備したりした。

納車日にお花を頂いて、ディーラーさんからは羨ましいですのお言葉を頂いで嬉しかった。
なにより、自分の車だという実感がわいてきて、とんでもない感動を覚えた。


納車時の走行距離

納車してから、そのまま栃木に帰るのだが、同期の東京出身組とコンビニ待ち合わせて一緒に帰ることになった。
それはとてもとても楽しかった。
初心者マークのS660の僕を守ってくれるように前後に車を付けてくれて安心して栃木に帰ることができた。

この車を買うと大口をたたいて有言実行した自分は鼻が高かった。
そして調子にも乗った。
同期からも羨ましがられた。それが嬉しかった。
自分の車を見せるたびに誇らしい気持ちになった。

この車を納車してから人生が楽しかった。
通勤で雨に濡れなくていい。そして今までよりも遠くに行ける。

そして楽しい。

毎週末地元に帰って、高校の友達や幼馴染に自慢して、一緒にドライブにいったりした。
女の子をデートに誘ったり、今まで見てきた世界よりもはるかに視界が広がったのだ。

そんな日常もあった。



親からの仕送りが来た、親が遊びに来た。
そんな話を同期から聞いたとき、とても羨ましかった。

父親は、連絡をしてこないし、きっとこの会社に就職していることさえ知らない。

母親が連絡してくるときは、いつも宗教の出来事や、宗教の連絡だった。
決して僕を心配するような連絡はしなかった。

当然、仕送りなんて来たことはない。悲観的になった。


気分が安定しない。そんな1年目だった。
そんなときに、母親から連絡が来た。

僕のいとこが自殺した。
葬式に来るかどうか。

僕は休みだったが、行かなかった。
自殺したことが羨ましく思えてしまうし、周りの人間と一緒に悲しめないと思ったからだ。

母親はこうやって言っていた。
「相談してくれればよかったのに」
冒涜だ。

相談できないから死ぬのである。
相談できないから閉じこもるのである。

あたかも、死んでしまったのは自分のせいじゃないと言いたいのだろう。

そんなことを言わなければいいのに、わざわざいう人間の心理がわからない。

死にたいから死んだ。だから、
楽になれてよかったね。痛かったね。気づけなくてごめんね。
そうやって言ってあげて欲しい。

そんなこともわからない母親なのかと僕は悲しくなった。

僕は自殺は悪くないと思っている。悪いのは周りだ。相談しない当人がいけないのではない。

気づけなかった自分を棚に上げて相談しないで死んだ当人に責任を擦り付けるような言い草は断じて許せない。

そんな風に思ったのだ。


入社してから一年が経ったとき、転勤があり、体調を崩し、病気として診断され、休職し、のちにこの会社は退職することとなった。


病気は双極性障害Ⅱ型だ。
母親自身は精神疾患に理解があると思っていた。
なぜなら兄が適応障害を最初に発症したからだ。

しかし、母親は精神疾患に対する薬を飲むなという。いや、精神疾患だけじゃない。薬というものが嫌いだ。なぜなら、宗教で薬はダメだと教わってきたからだ。

ちなみにコロナワクチンにも懐疑的で当然のように打っていない。

休職中、療養中、そして退職後も通院はしているが服薬はしなかった。母親のいる時に薬を飲むと、嫌味を言われるからだ。

その対応がめんどくさくて、薬を飲まなかった。
そして次第に通院しても意味ないと思って通院も辞めてしまう。

もちろん、当時の病院は転勤した先の浜松の病院で、休職中は地元川越に戻っていたから、簡単に通院できなかったのもある。

診断書の書類等をもらいに行くためだけに通院していた。

それも退職することを決めたことで、通院するのを辞める。診断書が必要なくなるからだ。


退職が決まり、浜松の家から川越に引っ越さなければいけなくなる。
実家の車を使って荷物を積んで、川越に行く。

僕は荷物の整理で先に浜松にいた。
母親が一人で車で浜松まで来てくれた。

その車に荷物を全部積んで川越に帰る。
その帰り道は、母親が疲れているだろうから僕が運転することにした。

高速代がかなりかかるから、下道で帰ることにした。
浜松から、川越。休憩時間含めて8時間かかった。

8時間、僕は母親に対して一方的に喋っていた。
そして、家に着いたとき、一切疲れを感じず、
車に積んだ荷物を家に運んでいた。

そうして僕はまた、浜松に行ってS660を取りに帰る。
そしてまた浜松から川越まで、自走で帰るのだ。

異常だ。疲れを感じないなんて。
しかも喋り続けるのもおかしい。

そんな状態にあっても、自分は病気じゃない。
そう思っていた。

無職、フリーター期間

無職になっても、S660のローンの支払いは止まらない。当然だ。健康保険、国民年金も止まらない。

この時は、雇用保険の失業手当について知識がなく、申請をしていなかった。
健康保険、国民年金の免除についても知識がなかった。
そして、携帯代やクレカの支払いも止まらない。
お金の支払いが付きまとっていた。

母親に相談して、毎月支払いが来る分のお金を、毎月借りていた。
そうして、親ローンがどんどん膨れていった。

療養中ということで、体調が悪いときはいつも家にいた。
家にいて、朝ごはんを食べて、昼ご飯を食べて、昼寝して、夜ご飯を食べてまた寝る。

そんな生活をしていた。
宗教から帰ってきた母親はいつも家にいる僕に対し、
「贅沢な暮らししてるなぁ、居候、働け」
と、冗談のように言った。

当時、季節は夏で僕はクーラーをつけていた。
そんな中でいつも家にいる僕に対して冗談のように言ったのだろう。

僕はその日からクーラーをつけるのを辞めた。
意外と、クーラーがなくても耐えられる。
そして、クーラーをつけないで昼寝をしたりしていた。

母親はクーラーをつけない僕に対し、
「クーラーつければいいじゃん」と言った。
しかし、僕は断固としてつけなかった。

兄には言ったことないだろう。
兄が療養中は、部屋に閉じこもる。
閉じこもるからこそコミュニケーションが不足する。
そうなると冗談も言わなくなるだろう。
だから兄は療養期間、何をしても文句は言われなかっただろう。

僕は言われた。ただそれだけだ。嫌味のように聞こえた。

この時の経験から、僕は夏にクーラーをつけなくても生活できる身体になった。
今でもそうだ。


朝起きて、ツイッターやYouTubeを見たりして時間をつぶしていた。
それだけだと、社会へのつながりに対しての不安が募ってきたり、お金を親から借りられる幸せな状況であることには変わりないが、それでも支払いへの不安が募ってくる。

そうして、僕は就職活動をすることになる。

どうしても就職するには自動車関係が良かった。
そんな簡単には見つからなかった。

そして、膨らんだ親ローンを早急に返したいと思っていたから、給料がいいとこにしたかった。

早急に返さなきゃまた嫌味を言われるだろうと思ったから。

だから僕はホンダの期間工に応募した。期間従業員というやつだ。期間工は給料がいい。交代制で自動車の生産をする。家からも近かった。

だから応募した。

結局、実質労働2週間、在籍は3週間ほどで期間工は辞めた。
慣れない交代制と、体力が持たなかったからだ。

僕が期間工を辞めた時、母親は何も言わなかった。


この後、僕はアルバイトを転々とする。

温泉。
2日でバックレた。申し訳ない。
サウナマットの取り換えが本当にきつかった。耐えられなかった。
それを今後もやらなければいけないのかと思ったときに僕は逃げ出してしまった。

洗車。
1週間ほどで辞めてしまった。
きつ過ぎる。体力的に追いつかなかった。
時間と丁寧さ。相反するものを両立しなければいけない。
それがきつくて仕方なかった。
これはバックレることなく辞めますと伝えた。
新しい仕事が見つかったのでと嘘はついたが。


そうしてまた、高校生の時にお世話になったピザのデリバリーをすることになる。
これもまた人間関係で辞めてしまう。
働いているのがばかばかしくなったり、プライドが邪魔をした。
一方的に辞めますと伝えて、行かなくなってしまった。

このときもまた、幼馴染がいたが、また高校生の時と同じことになってしまった。

そんな僕を見ても母親は何も言わなかった。
しかし、嫌味は言ってきた。
「いつ、お金返してくれるのー?」
と、冗談ぽく言うのだ。

冗談なら言わなくていい。こっちだって考えてる。
頑張ってるけどうまくいかない。
そんな日々がずっと続いていた。


転職活動をたくさんして、スーツをたくさん着ている時期だった。
そんなとき、スーツをクリーニングに出して、面接前日に取りに行くのを忘れてしまった。
面接は朝からだった。次の日、お店に取りに行ったら確実に間に合わない。

詰んでいた。これは確実に僕の失態だった。

母親に相談したら、
「兄ちゃんのスーツ貸してもらったら?」
と言われたので、兄に相談した。
僕「スーツ貸してー」
兄「無理。」

それだけだった。

僕は予想外の出来事にどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
無理な理由は、クリーニングに出してなくて、シワがたくさんあるからだったらしい。

ダメだとしても僕の理想の会話は
僕「スーツ貸してー」
兄「クリーニング出してないけどいいの?」
僕「一回見せて」
兄「ほら、これ」
僕「あー、これはきついね。ごめん、他あたるわ。」

こんな会話は僕の家族ではできない。
無理なものは無理。そして代案を提示してくれない。
お前のせいだろ、お前がクリーニング取りに行かなかったのがいけないんだろ、知らんがな、勝手にしろ。
そういうことを言わんばかりの態度だ。

母親も代案を考えてくれなかった。
兄がダメならどうしたらいいのか。
僕が考えた。僕だけが必死に考えた。

兄の態度に僕は頭に来てしまって、母親に叫ぶように言った。
「ここの家族は、誰も俺を助けようとしてくれない。家族じゃない。ただ一緒に暮らしている赤の他人だ。一緒に悩んだり解決しようとしてくれたりしてくれない。だからもう俺も絶対に今後一切お前らのことを助けない。」

結局、スーツは親友のy君に借りることで事なきを得た。


この転々としていた時期に、彼女ができる。
彼女についてはまた今度書こうと思う。


2社目、3社目

職探しをしているとき、紹介予定派遣が決まった。2社目だ。
半年以内の短期契約。またしても栃木県の会社だった。
契約満了まで投げ出さずに頑張った。

実際に働いたのは4か月程度だった。
それでも4か月は自信につながった。
僕は働けるんだ。そう思えた。

契約満了時に転職活動をして、次の仕事が決まった。
この2社目の経験から、僕は実家にいないほうがいいことがわかっていた。

だから次の転職先も寮もしくは寮扱い物件に住める会社にしたかった。
運よく、1社目に学んだcadを活かせる企業に決まった。3社目。

栃木だと、彼女ともあまり会えなかった。
3社目は、埼玉の本庄市だったから比較的会いやすくなって嬉しかった。

この時の転職について、母親にはあまり何も言わなかった。
もう興味がないだろうと思っていたからだ。
そうして、引っ越しは3社目の会社が手配してくれた。


3社目は8か月で辞めた。

3社目も頑張って節約し、親ローンも返済し、身軽になったとき、代わり映えのない日常に嫌気がさしてしまったのだろう。
そして、上がらない給料、増える仕事。耐えられなくなったのだろう。

今思えば、1年以内で何がわかるのだと言いたい。
1年以上いないのになんでそんなことがわかるのか。本当にわかってるのか。そんなことをあの時の自分に言いたい。

この時僕はタクシードライバーになりたいと思っていた。
ギャンブル性があると思った。たくさん稼げるかもしれないと思ったのだ。

そうして、急に会社を辞めることを伝え、転職した。

転職すると同時に、実家に帰ったのだ。
学習していない。実家に居てはいけないのに。

4社目、5社目

4社目は東京のタクシー会社に就職した。
3か月で辞めた。

東京のタクシー会社は、日産系の資本だったから、セドリックだった。
当時ジャパンタクシーなるものは存在していなかった。

セドリックの運転が苦手だった。小回りが利かない。そう思っていた。
そして、何回もぶつけて、自分の運転の下手さに嫌気がさした。

逃げ出した。

3年以内に辞めたから2種免許取得費用を自分で負担することになった。
そして僕は、特例の教習を受けたから、一般的な2種免許より高額になった。約50万弱した。

当然、全額を一括で払えない。だから、親ローンを借りた。自分の貯金とプラスして一括で払った。

当然、母親に文句を言われるが、もう何を言われたのか覚えていない。
そりゃそうだ。真っ当に相手をしていなかった。


転職活動をして、5社目が決まった。
派遣社員だった。派遣社員としてSUBARUで働くことになった。
完全に名前だけで仕事を決めてしまった。

やる内容は生産技術職。やったことがない。
生産ラインで効率化を図ったり、どのようにものを作るのか考える場所だ。

当然、すぐに辞めた。1か月もしていない。

5社目にいた時、珍しく母親から連絡があった。
「元気にしてるか、ちゃんと食べてるか、寝れてるか。」
僕は当然のように「死にたい」と言った。

そうしたら、休みの日に父親が家に来た。父親が電話してきた。
でも僕は出なかった。こんな時だけ親ヅラしやがって。と思っていた。

結局、辞めることになって、母親が迎えに来て、何も言わずに荷物を積んで、帰った。
この時はあまり何も喋らなかった。喋れなかった。

6社目

埼玉でタクシードライバーをすることにした。実家から通うことにした。
朝早くから、出勤して、深夜に帰ってくる。実家に自分の部屋はない。

社会人になってからも、実家に帰ってきたら居場所がないので、昔から変わらず、シングルの布団に母親と一緒に入る。

だから、母親がまだ寝てる布団から、慎重に起きて、出勤し、深夜に家にいる兄や両親を起こさないように帰ってくる。

たくさん気を遣う生活が始まってしまった。


そうして時代はコロナが蔓延した世界になる。
そうすると深夜に出歩く人が少なくなって、
お店が休業するからそれに合わせて、タクシーは時短営業にもなる。
そうなると、当然、就業時間も短くなる。

これによって、ある程度、家を出る時、帰るときに気を遣わなくてもいい生活が送れる。気が楽になった。

僕は給料なんてどうでもよかったし、不真面目なタイプだったから、最低労働時間を超えた瞬間にすぐに帰庫して帰宅する人間だった。

電車が動いている時間に起きて、電車が動いている時間に帰れる。
そんなタクシードライバーがいたわけだ。

そんな中、僕はS660を売った。車は通勤にも使っていて、必須だった。
なぜ、売ったのか。今思えばリセット癖だ。

負債を嫌う母親に育てられて、一緒にいる時間が多いと僕も負債を嫌うようになる。負債を一掃して、生活したいと思ってしまう。

そうなると貯金をしてローンを返済ではなく、
物自体を売ってしまえばいいと考えてしまうのだ。

そうして、S660を売って、ローンの残債がなくなったとき、この上ない気持ちになって、とても気持ちよかった。


売却時の走行距離

その一瞬だけ気持ちよくて、そこからは売ってしまったことに対しての後悔ばかりだ。

車を売っても通勤できる環境だったから、それでいいと思っていた。自転車と電車で通勤していた。

車で通勤していた時よりも何倍も時間がかかっていた。

それに耐えられなくなって、スクーターを買うことになる。ヤマハのトリシティだ。


誰にも相談せずに勢いだけで契約した。
この時ばかりは、フルローンじゃなく、頭金をいくらか入れた。それでもローンだった。

そうして、スクーターにのって通勤してるときに、
面白くない、楽しくないと感じてしまって、すぐに乗り換える。

カワサキninja400だ。フルローンで契約した。


何も学習していない。
しかし、母親は何も言わなかった。

こういう時には何も言わないし、怒らない。
なぜなのかわからない。

こうして、バイクで通勤できて、労働時間も短くなって、気楽に仕事ができるようになった。

そのためか、珍しくこの仕事は長く続いた。
といっても、1年3か月だ。

1年3か月と言っても、このうち1か月はコロナ初期のときに休職した。
そして2か月は、交通事故を起こした後に、気持ち的なもので車に乗れなくなってしまったため休職した。

そう、車に乗れなくなって休職した後に退職したのだ。退職した後、バイクは売った。

もう何も残らなかった。


母親は何も言わなかった。いつも何も言わない。
自由にさせているつもりなのだろう。

どんなものを買おうが、契約しようが、
どんな仕事をしようが、辞めようが。

真剣に話すことはない。
かといって、他人を褒めることもない。認めることはない。

だからどうしたらいいのかわからない。
きっと相談したところで「好きにしたら」と言うだけだ。

褒められないから、
これが正しいのか、この道でいいのか、
わからなくなる。

努力したところで認められないから、
努力というものが意味のないものだと思ってしまう。


だから僕には軸がない。
頑張ってきたものがない。褒められたものがない。目指すものがない。
迷って迷って、考えて考えて。その結果、暗闇の淵に陥ってしまうのだ。

7社目

今度こそは失敗しないように。そう思うしかなかった。

転職活動はうまくいかなかった。今まではすんなりいっていた。今回はうまくいかなかった。

心持ちが違う。

いつもは失敗してもいいやと思っていくから、
緊張せずにうまくやれて成功しやすい。

今回は、失敗したくない。
そういう気持ちから、強烈な緊張に襲われて、
上手く喋られなくなる。

そして、20代の若さですでに7社目という数。
好印象ではない。転職癖だ。

それでも何とか切り抜けて、7社目が決まった。
7社目はテレワークだった。

4社目から6社目まで使っていなかったが、
持っていたCADスキルを使える会社に入った。

派遣社員だった。登録型の派遣で、半年に一回契約更新がある。
それでも仕事をさせてもらえることが嬉しかった。

研修もテレワークで行われた。僕は実家からテレワークをした。
会社からノートパソコンが支給されて、外部ディスプレイも支給された。置く場所がない。そして仕事する場所がない。

子供部屋は当然、兄の部屋だし、僕はいつも通りテレビのある部屋で仕事するしかなかった。

兄はもう仕事をせずに傷病手当を受けて、それを引き延ばしたりして、実家で生活していた。

当然、研修中の僕からしたら、気が散る。
なんなら、声をかけられたりすることもあって、イラついていた。

誰に相談してもきっと解決できないと思った。
だから自費で一人暮らしするしかないと思った。
今までの一人暮らしは、会社の寮だったり、寮扱い物件に住ませてもらっていたから、契約から自分でするのは初めてだった。

初期費用がこんなにバカ高いなんて知らなかった。
思ったよりかかるなと思った。家賃の安いところを選んだ。

引っ越すにしても資金面の援助を家族はしてくれなかった。
そりゃそうだ。
勝手にお前が決めたことだから。そうやって言われて終わりだろう。
賃貸の契約をするのに精一杯だった。お金がなさ過ぎた。

布団は家にあったやつを引っ張り出してきた。
机と椅子は、ジモティーでセットになってあるやつを5千円で譲ってもらった。レンタカーを借りて取りに行ったからレンタカー代を合わせると1万円くらいになった。

実家の車を借りればもっと安く済んだかもしれないが、もう実家に頼るのもめんどくさくなっていた。

そうして、僕の一人暮らし生活は再び始まった。
家族は誰も心配しなかった。


今回は、1社目のように、写真部の先輩の援助がなかったから、大変だった。

すぐに、冷蔵庫や洗濯機を買えなかった。
そして買わないようにしていたのもある。

どうせ、またすぐ仕事を辞めてしまうだろうから、
揃えても無駄だと思った。ゆっくりそろえていくことにした。

朝ご飯はパンを食べていた。
昼ご飯は実家の昨日の夜ご飯の残りを食べた。
夜ご飯は食べなかった。

昼ご飯に実家に通ってご飯を食べられるほど、
実家とかなり近い距離で一人暮らしを始めていた。

夏を迎えて、さすがに冷蔵庫がないとキツイとなったときでも、大きい冷蔵庫は買わなかった。ビジネスホテルにあるような冷蔵庫を買った。
冷凍機能はついていない。飲み物がちょっと入るような冷蔵庫だ。

一人暮らしを始めて半年くらいが経ったとき、洗濯機を買った。
それまでは近くにコインランドリーがあったから、そこで済ませていた。
半年もたったから当分仕事は辞めないだろうと決意し、購入した。

それと同時に冷蔵庫も大きいやつに買い替えた。
冷凍庫もちゃんとついてあるやつ。

こうしてちゃんとした生活が組み立てられていった。


あるとき、実家に通って昼ご飯を食べるのが面倒になってしまった。実家のご飯が嫌になったのだ。

だからスーパーでご飯を調達するようになった。
毎日、お昼にスーパーで弁当を買ったりしていた。

それも、疲れてしまって、炊飯器を買うことにした。お米は実家からもらった。

最初はおかずだけ、スーパーで買っていた。
それもめんどくさくなって、ネットで冷凍宅配弁当のおかずだけを注文するようになった。

こうして、ご飯を一気に炊いて、冷凍し保存、おかずは冷凍宅配弁当を注文する、方式になった。

これで、実家の行き来の回数を減らすことができた。お昼に家に行ったとしても母親はいないが、兄がいるので、少しめんどくさい。

実家との距離感は程よくとっておいたほうが、自分の身のためにもなる。


この時まだ、親ローンが残っていた。だから節約生活をしていた。
車もない、バイクもない。だからすぐに貯金できた。

親ローンを返済した後、借金がすべてなくなったことで、かなりの気持ちよさを感じた。

それによって僕はまた暴走する。


僕はここから、

彼女が欲しいと思い、マッチングアプリに何個も入会した。
(→半年で退会。)

仕事の幅を広げたいと言い、オンラインスクールを契約した。
(→これは役に立った。)

大学に入りたいと言い張り、参考書を何冊も買った。
(→本をパラパラ見ただけで、受験せず。)

興味のあるグラビアの写真集をブックオフで買い占めた。
(→クレカの支払いが膨らみ、後からリボ払いを多用する。)

ヘリコプターの免許を取りたいと言い、体験搭乗に申し込んだ。
(→免許取得費用で500万かかるということで血の気が引いた。)

体験搭乗はした。

もう一度、S660に乗りたいと思い、銀行のマイカーローンを申し込んだ。
(→審査が通らなかった。)

結婚したいと思い、結婚相談所に入会した。
(→実際に入会したが、すぐに休会した。初期費用を分割払い。)

バイクに乗りたいと思って、バイク屋に行く。
(→ninja400をフルローンで即決、契約。)

人生で2度目のninja400。オレンジ色も一緒。年式も一緒。


気分の浮き沈みはあるものの、
これらを一年以内に完遂した。


こうして、僕は究極の躁状態のあとは、究極の希死念慮が来る。
もう自分自身で自分を壊してしまう、そして、壊れてしまうと思った。

実家との距離をとっても、僕の症状は治りはしなかった。

だからちゃんと医療に頼った。
僕が病気であるということ。それにちゃんと向き合うことにした。

いままでは、自分は病気ではない、そう思っていた。ダメだった。

躁状態の時は、楽しい。楽しくて仕方ない。
なんにでもなれる気がした。何でもできた。

うつ状態は何もできなかった。自然と希死念慮が出てくる。そんな状態だった。

治療の再開をした。
いや、いままで治療をちゃんとしていなかったから、再開ではないのかもしれない。

ちゃんと治療をし始めた。薬の服用とカウンセリングだ。

今も治療中である。
そして、治療を始めたことによって、転職癖も抑えられている。

だから7社目は、いまも働けている。

終わり

まとめ

もっとひどい人はいるから甘えるな。
全然ひどくないじゃん、そんなの普通だよ。

そう言われるかもしれない。
そう言われたとしても、発症してしまったのだ。

申し訳ない。医療、福祉の力で援助していただいている。そうでなければ生きていけないのだ。

僕は、双極性障害Ⅱ型。
自立支援医療で、精神疾患の治療費は1割となる。
障害者手帳の3級も取得した。

こんなに施しを受けているのに、
生きていきたくない。そう思ってしまう時がある。
なぜそう思うのか自分ではわからない。自然と思うのだ。

申し訳ない。それでも、今は生きていきたいのだ。
だから治療をしている。頑張っている。
僕は頑張っている。


追伸、母親

この記事の軸となってるのは母親との関係だと思う。
母親が悪いわけではない。母親もまた闘ってきた人間である。

母親は、幼少期に、お母さん(おばあちゃん)が失踪して、父親のみの片親となっている。

そして、なにより兄弟が多かった。
お金がなく、働きながら、定時制高校に通っていた。

母親はいじめを経験している。
いじめられている友達を助けて、標的が母親に変わってしまった。性的なトラウマもあるらしい。

父親があまり子育てに協力的ではなかった。
その中で、転勤となり、見知らぬ地で子育てをしなければいけなくなった。

そんな中で手を差し伸べてくれたのが、的場さんであった。そして宗教だった。

結局、川越に引っ越して、周りにうまく助けを求められず、頼れた場所が、宗教だった。


僕が母親に聞いたことがある。
「母さんは、死にたいと思ったことはないの?」
母親は、悩みながらこう答えた。
「忘れちゃった。」

これが答えだと思う。母親もたくさん頑張った。
3人の子供をちゃんと育てた。

僕が友人に
「死にたいと思ったことある?」
と聞いたときは、即答で
「ないよ?どうして?」
と返される。

だから即答しなかった母親はきっと思うことがあったんだと思う。しかし、僕はそれに触れられなかった。

きっと母親も簡単に触れさせてくれないだろう。
思い出そうとしてくれないだろう。

もし、そこに触れてしまったら、きっともう崩れてしまうんだろう。


僕は、母親を恨んでいた。憎んでいた。
でも、治療を始めたことで許せた。

誰が悪いとか、悪くないとか。そんなことはどうでもいい。

大事なのは、みんなが明日も生きていたいと思えるかどうか。
それが今一番、僕らにとって必要なことだ。


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