『本当の"鬼"ごっこ』〜いじめられっ子がチャラ男を経て教師になるまで〜
〜無音の絶叫〜
本当の鬼は無邪気。ただただ、無邪鬼。
無垢で、無機質で、無慈悲な邪鬼。
ことの発端は、私がたまたま別の児童の机に触れてしまった事が、きっかけだった…
本来、鬼ごっことは、鬼になった人がそうでない人を追いかけ、鬼をなすりつけ合うという社会の縮図のような遊びだ。
が、
いじめの中で行われる鬼ごっこは、笑顔で走り回る人間こそが鬼で、その台風の真ん中にいる当人は恐ろしく静寂で、脆弱な台風の目になる。
"僕"から見る彼らは、まさしく鬼だった。
『うわー!⚫︎⚫︎⚫︎に机触られたー!汚ねぇ!』
とその子は私が触れてしまった机の部分を手で擦るように拭き取り、それを近くにいた友達に擦る。それが鬼ごっこ開始の合図だ。
『うわ!やめろよ!タッチ!』
キャッキャとはしゃぎまわり、騒ぎ倒すクラスメイト達。『タッチ』だの『バリア』だの『タッチ返し禁止』だの。彼らにとっては本当に遊んでいるのだ。楽しく。
その真ん中にいる、人間の尊厳や人格、人権はお構いなしに。
全てが痛い。
耳が、目が、頭が…そして心が。
なにより、1番痛かったのは、傍観者達の"視線"である。
第三者に目撃される事がこんなに辛い事だとは知らなかった。
騒いでいるクラスメイトの声よりも、
ヒソヒソ話をしている傍観者達の声が、次第に耳や心に刺さる。その冷たく、鋭い視線が心を崩していく。
「黙って見ていた人達も同罪だよ。」
なんて教師や偉そうな大人は口々に言うが本当の意味での罪は奴らにはわからないだろう。
そこに存在するだけで、苦しめるという悪魔を。
当人達(傍観者達)には罪の意識はまるでない。手は出してない、いじめには加担してない。
「ただ、見ていただけだ。」
その目撃するという事が、いじめられっ子の心を蝕む事を世の中の人はあまり知らないだろう。
10分休みが、これほどまでに長いとは。。。
同じ人間のはずなのに、なぜ僕はこんな汚物のように忌み嫌われなければならないのか。なぜこんなに気持ちにならなければならないのか。
両親の笑顔が自然と浮かび上がってくる。それが辛くて辛くて耐えられなかった。
こんな弱い僕でごめんなさい。こんな汚い僕でごめんなさい。こんな息子でごめんなさい。
僕はこの時、『自殺』の2文字が頭をよぎった。
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