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可視化の罠

「これからはデータドリブン経営です!」
「データオリエンテッドアプローチが必要です!DX!DX!DX!」
IT企業やコンサル会社からの広告に、書店のビジネス書コーナーに平積みされたタイトルに、もれなく包含される常套句である。
そして彼らはまずこう提案する。

「経営の可視化から始めましょう。」
「業務プロセスや従業員のスキルを見える化しましょう。」

なるほど確かに重要だ。そりゃ今すぐにでも進めたい。
では、可視化とは何なのか?一体何が見えるのか?

まずは定量情報。
いわゆる数字データだ。無機質がゆえ、もちろん恣意性は低減される。
利益率、ROI、割引現在価値、作業工数、レビューの星の数、、、
過去の傑物から現在のアイデアマンに至る賢人たちが創り上げた、まさに未来を導くための指標である。これを使わない手はない。宝の山である。
但しそこには帰納法的有用性はあれども演繹的普遍性はない。
まさに血液検査の適正値のごとくである。米国人の平均値を無条件に日本人に押し付け、節制の名の下に日々のささやかな幸福を奪われては、こちとら人生たまったものではないというものだ。
さらに情報の切り取り方には必ず意図が入り込む。数字を嘘はつかないとはよく言ったものだが、噓つきは数字を使うというのもまた真実であろう。

そして定性情報。
数字に比べてわかりやすく、そこには「意味」を含んでいる気がしてくる。
従業員の持つスキルや資格、シンプルな名詞と動詞で体系化された業務プロセス、従業員の声の多数を占める重要なキーワード。なるほど、有用でわかりやすい情報である。より説明的な情報と言い換えてもいいかもしれない。
但し、知の巨人西部邁は「説明」についてこう述べている。

“それはエクスプラネーションという英語の原義によく示されているように「平らに(プレーン)引き延ばす(エクス)」ことである。”

『思想の英雄たち』

「説明」とは、本来立体的に絡み合った複雑な文脈から対象だけを取り出し、平面に置き直すことで論理を単純化しているという意味で、まさに意味から遊離した情報と言えるだろう。

とにかく定量であろうが、定性であろうが、情報は情報それのみであり決してそこに意味を持たない。
可視化とは、物事から文脈や背景を捨象することでしか成り立たない概念だといえる。そこに「意味」はない上に、そこにあった意味を削ぎ落としているリスクがあるのだ。

では、これらの可視化された情報に意味を与えるには何が必要か。
何が削ぎ落とされた意味をものをすくい上げるのか。

それが「解釈」である。では解釈とは何なのか?

それをこれから語りきるほどにキーボードをたたく余力は残されていない。
なぜなら「ヴィンチェンツォ」(Netflix)の続きが早く見たいからである。
蛇足ではあるが個人的に、面白い作品というのは「説明」を最小限に「解釈」の余地を最大限に残していると思う。ああ、また止まらなくなりそうなので解釈についてはまた次回。皆様も私も良い夢を。

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