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15歳のREAL~私はあなたの死にたい気持ちを否定できない~


 

「若者の自殺が1年で1番多いといわれている日はいつかご存知ですか?」

(それは・・・)

トーストしたての熱々の四角いパンを、ミルクたっぷりの甘いコーヒーが入ったマグカップの上に置いて、雅姫はカップを左手に持ったまま空いている右の手で冷蔵庫の扉を開けた。
テレビから聞こえてきた声を一瞬確認すると、マーガリンの箱を手に、パンが落ちないように気をつけながらマーガリンの先で扉をちょんと押し、冷蔵庫を閉めた。

(どっちだ?)

雅姫はパンが冷めないうちに急いでマーガリンを削ってパンにのせた。溶けたマーガリンがたっぷり浸み込んだトーストが美味しい。
半分ほど食べてコーヒーに口をつけたとき、テレビからニュースキャスターの言葉が聞こえてきた。

「じつは、今日、9月1日なんです」

(こっちか)

キャスターは、最もらしい言葉を並べながら若者に同調するかのような言葉に続けて、SOSのサインを見逃さないように大人たちに呼び掛けている。

(今? ・・・遅いでしょ) 

大きめのマグカップに入った甘いコーヒーを半分、一気に飲んだ雅姫は、パンを食べ終え洗面所に向かった。



 

雅姫が9月1日と、もう一日、迷った日。

あの日、雅姫は、まだ昼間の暑さが残る中を自転車に乗って彷徨っていた。

小学4年生だった雅姫は、フラフラと近所を走り、その視線の先にはいつもピアノへ行くときに通る交差点があった。

そこは、橋へとつながる片側一車線の道路に交わる生活道路で、左側が川、右側は住宅になっている。
左から来る車は橋の上を通るためよく見える。
しかし、右側は住宅のブロック塀が高くて、向こうからやってくる車は全くといっていいほど見えない。
それはもちろん、車からも、特に子供は高さもないため、雅姫のいる側は全く見えない。
父の車でその道を何度も通ったことがあるので、それは雅姫もよく知っていた。

 

ふと、ハンドルを握る手に力が入った。左からは車が来ないのが見える。

ペダルを漕ぐ雅姫の足に力が入る。
右、左。

交差点まであと7メートル。

足の裏で目いっぱいペダルを押す。
右、左、右。

全神経が耳に集中する。
聞こえる。
タイヤの凹凸が地面にあたる音が、近づいてくる。

(跳ね飛ばされたら川に落ちるだろうか)

雅姫はまっすぐ、川と寄り添う道の思い切り先を見据えた。

あと2メートル。

左、右。
交互に、ペダルに体重をかけ続ける。

耳が捉えるのは、近づいてくるであろう車のタイヤと道路の接触音、雅姫の自転車のタイヤと道路の接触音、わずかなチェーンのきしむ音、そして加速するたびに感じる風の音。

エンジン音が鮮明になる。雅姫の周りを風が吹きぬける。

(見ない)

が、視界のすぐ端に赤い色を捉える。

ビュッ!

すぐ後ろをすごい勢いで通り過ぎていった。
衝撃波が背中を吹き抜けていく。
後ろは振り向かない。いや、振り向けない。
振り向いたら転びそうなほどのスピードだ。

心臓がバクバクしている。
息を止めていたのかもしれない、何度も肩で大きく息をする。

 

もうペダルは漕いでいないが、雅姫の自転車は惰性で進み続けていた。

汗ばんだ体に8月最後の夕方の風が気持ち良かった。



5年前の昨日の記憶をBGMに、雅姫は肩より少し長い髪を念入りにとかして身支度を整えると、マグカップに3分の1ほど残っていたコーヒーを飲み干し、「いってきまぁす」と言って、家を出た。



2018年、雅姫、中学3年生の9月1日 

クラスメイトたちと久しぶりの再会の時間を過ごし、校長先生のありがたい話を聞くような、それでいて聞かないような時間を過ごしたあと、担任教師から9月の学年便りを受け取った。

明日、明後日の実力テストと、そのあとの日程をざっと確認し、少しの憂鬱を覚えたところで、ひとつ下の階にある特活室に向かった。

すでに、特活室前の廊下にたむろっている裕美の隣に、雅姫も参加した。

雅姫が所属しているブラスバンド部の部長の綾ちゃんから新しい楽曲の譜面を受け取る。

「えーと、きーちゃん、きーちゃん、・・・はい」

「はーい」
フルート①と書かれた譜面を数枚受け取った。

1枚目は去年のジブリ映画の主題歌だ。
数枚めくって、2曲目は・・・
知らない並びのアルファベットが並んでいる。

「これ、何の曲?」
雅姫の隣に同じくフルート担当の島田美月がいたことに気がついて、尋ねた。

「んー、分からん。コピー行こう」
そう促されて、コピー機のある職員室へと向かった。

「誰の曲?」

小さく書かれた人の名前らしきところを読み上げる。
「え、えと、ボ、ボブ・ディラン? かな」

「へえー・・・」名前を聞いても、ぜんぜんピンときていない。

「きーちゃん、知ってる?」
部活のみんなは、木下の“き”をとって雅姫を“きーちゃん”と呼ぶ。

「お初です」

「私も!」

「えー、ちょっと、歌ってみてー」
そう言った美月は、雅姫が歌が下手なのを知っている。

ぱっと見て、
「いや、最初めっちゃ休みあるし・・・
うちら、どこから出てくるん?」

1枚目の半分を過ぎたところからようやく8部音符と8部休符が並んでいる。

「ファ、ファ、ファッファファー」
雅姫は真面目に歌う。

「全然分からん。メロディーは?」

紙をめくってみる。
「あるある。えーと、ソーソーララー、ソーソーララー、シーシーミミー・・・って感じ!」
美月が、吹き出すのをこらえている。
雅姫も、楽譜を持つ手がプルプルしている。

「分からんーーー、何これーーー」
自分で歌った雅姫もだが、歌わせた美月の手も笑っている。

後ろに並ぶ裕美に促され、落ち着きを取り戻すべくコピー機の用紙を確認する。

わざとよそ行きの裏声にすると、余計可笑しい。
「ひーーー」
「やばいーー」
機械から出てきた真新しい楽譜がクシャクシャにならないよう気をつけた。

「ググるしかないね」

「あるっしょ。帰って速攻、検索君だね」

「だね」

そして、SEKAI NO OWARIというアーティストの“プレゼント”という曲の合計3曲分の楽譜を3部ずつコピーして職員室を出た。
外で待っていた2年生のあきちゃんに1部を渡し、美月とは校門で別れた。

毎年、この時期に学校行事のひとつとして行われる学芸会には、大勢の保護者がやってくる。
学年やクラスで合唱や演劇を披露し、ダンス部やブラスバンド部の日頃の練習の成果を発表する場となっている。

ブラスバンド部は夏のコンクールとこの学芸会が2大行事のようになっており、高校受験を控えた雅姫たち3年生はこの行事を締めくくりに引退する。



雅姫は家のパソコンを開き、先ほどコピーした楽譜を傍らに“ディ”の変換に戸惑いながら、“ボブ・ディラン”と打ち込んでいた。

(ボブ・ディラン、そうだ、ノーベル賞のミュージシャンだ。だいぶ前にテレビで話題になっていたっけ)

さすがに、一応は、学校の先生が選ぶだけのことはある。ただノリが良く、普段は使わないドラムまで持ち出し、男子部員が少ないブラスバンド部に何とか肺活量の多い男子の興味を引こうとしただけの選曲ではないようだ。

1962年デビュー、米国のシンガー・ソングライター。
数々の歴史的名曲を発表し、ロックの殿堂入りやグラミー賞など数多くの受賞歴を誇り、半世紀にわたりトップシーンで活躍。その活動スタイルは、若者の心情を代弁した社会運動的で過激なイメージがあったが、2016年には「米国音楽の伝統の中で新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手として初めてノーベル文学賞を授与されている、とウィキペディアにある。

YouTubeで見る限りブラスバンド用にアレンジされている楽譜は出回っていない。
きっと、部活顧問の先生がアレンジしたのだろう。
唯一、バンドやギターによる演奏以外で見つかったのは、ピアノのソロだけだ。
そんな状況の中、雅姫は限りなく出てくるバンドとギターの演奏の中から、ピアノソロの1曲と、バンド演奏に合わせて小鳥がさえずり、戯れているようなハーモニカアレンジを加えた1曲、日本語訳の歌詞でのバンド演奏の計3曲を選び、ボブと題をつけライブラリに保存した。

 

(ライク・ア・ローリングストーン・・・)

本当なら、じっくりこの曲を3パターンで聴きたいところだが、今、雅姫が耳にした音楽が、ロックというイメージや、彼のノーベル賞受賞というニュースを聞いたときに感じた、“世の中の体制に従わず、言いたいことを言い、好きなように生きて、それはさも粗暴であろう。”という雅姫のもっていた印象とはまるで真逆の音であることが引っ掛かった。

それは、とても前向きで明るくて優しい。
そして、とにもかくにも、とても繊細に聴こえる。

(どういうこと?)

漠然としているこの衝撃を誰かに説明してもらうべく、経歴や楽曲評価を見ていく。

ある、ある。
やはり、書かれている記事だけを目にしていると、粗暴な音楽、人に思える。

(彼のほかの曲はどうなんだろうか?)

先ほどの検索記事の中にあった、ボブの代表曲10選の題名を雅姫にしか読めない、いや、5分後には書いた本人にすら読めない字でメモる。

YouTubeに戻る。
ボブ本人の演奏で聴きたい。

いっぱいある中からメモにある曲を片っ端から聴く。

やっぱり、どの曲も優しく感じる。

(POPとは違うの?)

雅姫は英語の歌詞は理解できない。とりあえず、それは追い追い暇な時に検索するとして、今までの雅姫の中でPOPとしてカテゴライズされていた曲とは何が違うのか疑問に思った。

(日本のロックと言えば、布袋さん? X? ブルーハーツ・・・?)

たしかに、雅姫の中にもロックという音楽ジャンルはあった。

しかし、日本のテレビから流れてくる音楽では、ロックもPOPも同じ線上に感じる。

検索は音楽ジャンル一覧にまで移動した。
それはそれは、たくさんのジャンルをすべて、起源から発祥地やどんな人々に支持されて、どんな場面に好まれたかにまで詳細にまとめられている。
いったい、誰が、何のために、そしてどこからお金をもらって、こんなに親切に知りたいことをピンポイントで教えてくれるんだろう。

どうやら、ロックの定義よりPOPの定義の方が甘いようだ。

“大衆向けの歌謡曲”をPOPの定義とするならば、雅姫にとってはロックもヒップホップもR&Bも、すべてPOPである。


ロックの定義は難しく、雅姫にはすぐには理解できなかった。

しかし、検索をすすめるうちに、雅姫が今まで持っていたロックのイメージがざっくりしすぎだったことが分かった。

どうやら音楽の、音の種類というよりは、“ロックの精神というものを持った人がする音楽活動”をロックと呼ぶらしい。

そうなると、ロックの精神を持っているとされるボブ・ディランの音楽が繊細でポジティブに聞こえても、なんらおかしくはなくなった。

ということで、なんとなくではあるが、“ロックとは、音楽のジャンルではなく、生き方である”として雅姫は理解した。

 

コピーした楽譜を手に、ライブラリの曲に耳を傾ける。

雅姫の演奏するフルートは、おそらくハーモニカバージョンのように、メロディーにさえずり戯れるのであろうと想像できた。しかし、それ以外にこの曲にどんなアレンジをしたらブラスバンド用になるのか、またどんな楽曲に仕上がっているのか、まったく想像がつかない。 


今日、9月1日、
楽譜配布が恒例となっているブラスバンド部に入って以来、雅姫にとってはワクワクする日になっていた。



 

小学4年生になってすぐの頃、いつもは保護者の銀行口座から引き落とされている給食費が現金で徴収されることになった。

“給食費等集金袋”と印刷されたうす茶色い封筒に、5月、6月、7月とそれぞれに金額があり、現金を受け取ったら押印するための表があった。

 

初めてその封筒を手にした雅姫は愕然としていた。

赤字で書かれているその金額の意味はすぐに分かった。 

雅姫の父親は、雅姫が小学校に入学する頃に自営業を始めたのだが、なかなか軌道に乗るのも難しかったため、雅姫と2歳年上の兄は、給食費や学校にかかる費用などが免除される国の就学援助を受けていた。 

クラスメイトのみんなが4桁の同じ金額が記入されている中、1人だけ3桁の金額が赤字で書かれている。

 次の日、雅姫は額面どおりの現金を入れた封筒を担任の先生に手渡すために列をつくっていた。
無邪気におしゃべりを続けるクラスメイトとは違い、ひとり、封筒の印刷がある方を胸にぎゅっと押しつけ、みんなの様子を注意深くうかがっていた。

雅姫の頭の中には、毎日朝から晩まで働いている父母の姿があった。

何らかの理由で一旦徴収はされるが、その後、返金されるお金を受け取るために学校に来る母の姿も浮かんだ。

そして、
「当然の権利なんだから、恥じることはない」
昨日の母の言葉を、雅姫は心の中で何度も繰り返していた。

 雅姫の順番が来た。
先生が封筒をひっくり返し、ジャラジャラと音を立てた。
雅姫は、その音で誰かがこちらを見るんじゃないかと、ハラハラした。
「はい、ちょうどですね」
そう言われ、だらんと腕を下ろし、雅姫は自分の席に戻った。
やっと解放された。

今から一日が始まるというのに、雅姫はすでにヘトヘトだった。


  

ゴールデンウィークが明けてすぐ、朝、雅姫の上履きがなくなっていた。
周りを少し探してみたが、見つからない。
仕方なく、教室に置いてある体育館シューズを履いた。

その日は一日、それで過ごしたが、下校しようと下駄箱に行くと、最下段に砂がいっぱいに入った雅姫の上履きがあった。

(砂か・・・)

上履きが戻ってきたのは正直なところ助かった。なぜなら、戻ってこなかったら、母に報告して新しい上履きを買ってもらわなくてはいけない。

(洗う・・・? 持って帰る・・・?)

砂でいっぱいにした誰かが、どこかで雅姫の様子を見ている気がする。

(とりあえず、砂、捨てよう)

外に出ると、眩しい太陽の光で頭がくらくらした。
立ったままの高さから上履きをひっくり返すと、砂埃でスカートも運動靴も真っ白になってしまった。
あわてて手でスカートをパンパンと払うと、少しはマシになった。

上履きをひっくり返したまま何度か地面にたたきつける。

(洗わないとだめ?)

どこかで砂を入れた誰かが見ているとしたら、このまま履くと汚いと思われるだろうか。

(でも、今日は水曜日か、上履きを洗ってたら変だよね・・・)
母に見られたら説明しなくてはならなくなるだろう。

(言いたくない)

雅姫は、かすかに砂が残っている上履きの中に手を突っ込んで、数回ゴシゴシとした。
そして、自分の下駄箱に戻し、学校を後にした。

 

雅姫の進む先に、同じクラスの女の子が6、7人集まっているのが目に入った。

そこは、雅姫の住むマンションの隣にある新興住宅地の中ほどで、ほとんどそこの住人しか通らない道路だ。道のど真ん中でたむろしていようと構うことはない。

しかし、そんなところにクラスメイトが集まっているのは初めて見た。
しかもそれはいつもの仲良しグループの顔ぶれではなかった。

その中の1人が、「あ、木下さんー」と小さく手を振りながら声を掛けてきた。クラスで2、3番目くらいに発言力がある子だ。

あまり話したことがない彼女に声を掛けられて、嬉しく思った矢先、その周りを囲む女の子たちの放つ空気が、そうではないことに雅姫は気が付いた。

彼女たちに近づきかけていた足を、慌てて家の方向に戻した。

一瞬でもそこに加われると思った自分が恥ずかしくなった。

笑顔を作り、声を掛けてきた子と同じように、小さく手を振って「バイバイー」と足早に過ぎ去る。

(何? 今の・・・)
雅姫には、心当たりは一つしかない。

(もしかして、あの子たちが上履きの犯人?)

だとしたら、雅姫がどんな顔をしているのかを見るために待っていたのだろうか。

しかし、近づけない雰囲気ではあったが、雅姫の様子を窺う感じはしていない・・・

(私の思い過ごしかもしれない)

できれば、そうであってほしいと願った。

 

 

何度目かの上履きがなくなった時、先生に体育館シューズを履いていることを注意された。仕方なく、朝来たら上履きがなかったのだと説明した。

 

その日の帰り、ホームルームでのこと。

「今朝、木下さんの上履きがなくなっていたそうですが、誰か知りませんか?」と先生が切り出した。

雅姫は耳を疑った。

「では、このままではみんなも言い出しづらいでしょうから、皆さん、机の上に腕を組んで顔を伏せてください」と、クラスメイト全員に机にうつ伏せになるように指示を出した。

「さあ、心当たりのある方は、手を上げてください」

あと数年で退職を迎えるその教師は、昼間、何組かの女子グループと、男子にも数名、雅姫の上履きの件の探りを入れたのだが埒が明かなかったため、このような手段に出たようだ。

(やめて・・・)

これでは、雅姫が先生にチクッたようではないか。
先生に言うつもりなんて全くなかった。
この中にいる犯人たちは、何を思っているのだろうか・・・
雅姫は、頭の中がぐわんぐわんした。

 

先生が、「もういいですよ。顔を上げてください」と言い、その行為がいけないことだとクラスメイト全員に語り掛けている間も雅姫は顔を上げなかった。

上履きのことを、クラス全員、気付いていないはずはなかった。
下駄箱に行けば、砂でいっぱいになっている雅姫の上履きが、時には下駄箱の下段に、時にはその下駄箱の上に、これ見よがしに置いてあったのだ。

その後、先生から雅姫への話や説明は何もなく、誰が犯人かは分からなかった。

 

そして、その日の夕方。先生から母へ電話があった。
雅姫が一番恐れていた、
幼い記憶が蘇る・・・

雅姫が幼い時、母は、泣いた雅姫をいつも押入れに閉じ込めた。
その頃、実家で同居していた姑の目をとても気にしていた母にしてみれば、雅姫が泣いて我儘を言うと、「母親が甘やかして育てているからだ」と嫌味を言われるのが嫌だったのだろう。

母は、泣いている雅姫の腕を掴み、背中を押し、お尻を押し、雅姫を押入れに押し込んで「我儘を言うんではありません、泣き止むまでそこで反省していなさい」と言って、上から布団をかけ、襖を閉める。

真っ暗になる。

襖の隙間に漏れるひとすじの明かりを頼りに、布団から顔を出す。
その明かりがうねうねと波を打つ。
泣き止むタイミングも、何かを言うタイミングもなかった。

雅姫は、一瞬、火が付いたように思い切り激しく声をあげて泣いた。
しかし、その声は聴こえているはずの母に何も届けてはくれない。
どれだけ泣いても誰も来ない。

そして、喉の痛みと、嗚咽と、重い頭が残った。

襖の向こうで、兄がその日の出来事を母に話す声がする。

泣き出したもともとの理由など、雅姫にはとうに分からない。
ときおり、しゃくりあげる呼吸の苦しさがやりきれない感情と重なり、再び泣いた。
しかし、それは弱々しく、とても押入れの外には届きそうにはない。

目の奥と、頭全部が、じんじんと脈打ち熱かった。

 

小一時間経ったであろうか。
泣き疲れて雅姫が眠っていると、押入れの中に光が差し込んできて目が覚めた。

「分かった? 反省した?」
そう言う母に無言で頷き、雅姫は押入れから解放された。

 

 

このマンションに引っ越して以来、押入れに閉じ込められることはほとんどなくなったが、先生からの電話の間中、雅姫はびくびくしていた。

しかし、電話を切ったあと、母は「先生がきちんと調査してお友達にお話してくださったみたいで、よかったわね」と言っただけだった。
そして、「雅姫、ちゃんと反省して直しなさいよ」とも付け加えた。 

 


「あー、雅姫ちゃん、また体育館シューズ履いてる。
ねぇ、先生に相談しようよ」
雅姫は、クラスの代表委員を務め、先生にも頼りにされている沙織ちゃんと仲が良かった。

廊下の大きな鏡に映った雅姫の足元を見て、沙織ちゃんが言う。

「えー、先生に? でも、また帰りには戻ってくるだろうしなー」

「それを、言おうよ」
前回、雅姫は砂が入って戻されることを先生には言っていない。

「んー・・・」

雅姫がハッキリしない態度でいると、鏡越しに沙織ちゃんと目が合った。

「沙織ちゃん、今日もお洋服かわいいね」雅姫が言う。

「そっかなぁ、あんまり好きじゃないけどなー」と言いつつ、片足でクルッと回って色鮮やかなパステルブルーのスカートをヒラヒラさせた。

そこへ、「あ、沙織ちゃん、みーっけ!」

帰宅途中に何度か遭遇した近所に住むクラスメイトたちがやってきた。

雅姫には目もくれない。

沙織ちゃんは、雅姫の存在を消す子たちとも仲がいい。

(わたしは・・・)

雅姫は、色褪せた従姉妹からのお下がりを着ている自分が鏡に映らないようそっと後退りし、沙織ちゃんとクラスメイトを笑顔で見つめた。

 

チャイムが鳴って教室に戻ると、日直が6月の給食費集金袋を配っていた。

雅姫は、慌てて自分の席に駆け寄った。

机の上に置かれた、雅姫の名前と赤い数字の印字された封筒をしまう。

 

ドクン、ドクン、ドクン・・・

 

恐る恐る周りの様子を窺う。誰も雅姫を見ている子はいない。

日直の姿を目で追うが、こちらも雅姫を気にする様子はない。

まもなく、朝のホームルームが始まり、続けて一時間目の授業になったが、雅姫には先生の話が全く耳に入ってこない。
頭の中が、明日のホームルームでの長い行列のことでいっぱいだ。

ふと、沙織ちゃんの後姿が目に入る。

(沙織ちゃん、なんでわたしとなんかと仲良くしてくれるのかな・・・)

沙織ちゃんは自分といて楽しいのだろうか? 

(沙織ちゃんと仲良くしたい子は、わたし以外にもいっぱいいるのに・・・)

(わたしなんて・・・)

そんなことを考えているうちに、授業終了のチャイムが鳴った。
周りがざわつく中、沙織ちゃんが雅姫に向けた笑顔はいつも通りである。

「雅姫ちゃんー」
沙織ちゃんが呼んでいる。

しかし、雅姫はくるっと背を向け、教室を出ていった。

(なんでかな)

階段を下りながら、雅姫には分からなかった。

 

だが、あそこには居ても立ってもいられなかった。

 

 

7月の集金袋が配られた次の朝、雅姫は「お母さん、頭が痛い」と切り出した。
上履きや集金袋のことには触れずに。

母は「熱かな? 測ってらっしゃい」と言ったが、当然、熱はなかった。

「すごく痛い」と主張すると、連絡帳に
“頭痛のため、病院に行ってから登校します  木下”
と書いた連絡帳を、兄に持たせた。

 

雅姫は、学校で起きていることを母に話さない。
母を喜ばせることは何一つないからだ。

もちろん、給食費等集金袋について雅姫がどんな思いをしているかなど、母は知る由もない。

ただ、(もしかしたら・・・)という淡い期待がないわけではなかった。

今日は給食費集金袋の提出日だ、
(もしかしたら、気付いてくれるんじゃないか・・・)


しかし、そんな期待は泡となって消えた。

3時間目の授業開始の時間に雅姫は教室にいた。

集金袋を提出する長い列に並ばなくても済んだが、雅姫は赤字で3桁の数字が並ぶ封筒を胸に、教室のまん前にある、机よりはいくぶん背の高い、教台まで歩いて行く羽目になった。

 

クラスメイトの視線が、雅姫に針のように突き刺さっていった。

 

 

雨のせいで上履きを履けない日のこと。

上履きの中の砂が湿っていて、泥とまではいかないが、直接履くにはさすがの雅姫でも躊躇した。
しかも、その日に限って、一番お気に入りの靴下を履いていたから尚更だった。

それが、いつの間にか先生の目にとまっていた。

 

算数の時間は上履きの時間になった。

「これはどういうことでしょうか?」
先生が高らかに土の付いた上履きを掲げた。
誰も何も言わない。

「これは木下さんの上履きです。
前にもクラスで話し合いましたよね?」
みんなの顔が何を物語っているのか、雅姫にはわからない。

「先生はこれまで皆さんを一番近くで見てきました。
先生には、なぜそのような態度をとるのか理解できません。
ひとりずつ先生に教えてください。
3分、考える時間を差し上げますので発表してもらいます」

(は? なんて・・・?)

嫌な予感しかしない。

(やだ!)
消えていなくなりたいが、身動きが取れない、どうすることもできない。

 

3分後、窓際の一番前に座っている生徒から、「暗い」「キモい」と発表されていく・・・

みんなが答える度に、その声が雅姫の心に突き刺さる。

頭を殴り、頬を殴って、お腹を蹴飛ばしていく・・・

「キツイ」、「キモい」、「目つきが悪い」、「目つきが怖い」、「目つきが悪い」・・・

気が付くと、雅姫は沙織ちゃんを睨みつけていた。

沙織ちゃんが上履きを隠した犯人でもなければ、沙織ちゃんのせいでこうなっているわけでもない。
むしろ、最後まで雅姫と仲良くしてくれていた。

沙織ちゃんの答える順番がきた。

「・・・こわい」

(そうだ、
 そうだよね、
 ・・・もう、何もない)

雅姫は、机に突っ伏した。

そのあとのクラスメイトの言うことなど、どうでもよかった。

ただ、その声は、雅姫の顔を地面にこすり付け、踏みにじり、心を引き裂いた。

 

また、先生から、雅姫の家へ電話があった。
「はい、はい・・・・・・・・・、
ありがとうございました、失礼いたします」母が受話器を置く。

「雅姫、先生がちゃんとみんなと話し合いをさせてくださったそうね。これからは気をつけるのよ」
振り返りながら声を掛ける母に、雅姫はリビングで漫画を読んでいるフリをしたまま頷いた。

雅姫は喉の奥がキィンとしているのをこらえていた。

息を漏らさず、
なるべく呼吸を一定に、
漫画に熱中しているかのように・・・

しかし、教室ではなんとか我慢した涙は、無理だった。

膝に広げた漫画本に、涙が落ちる音が、母に聞こえてしまわないようにわざと派手にページをめくった。



そして、
9月1日が明日になった日。

明日からの学校の準備を終え、夏休み前の出来事を思い出して雅姫は、恐る恐る母に「お母さん、学校に行きたくない」と打ち明けていた。
すると、「今まで夏休みがこんなにあったくせに何もしないでおいて、今さらそんなこと言ってなんだと思ってるの。いじめられる側にも原因があるのよ!」と母は言った。

 

確かに・・・
雅姫は何もしなかった。
母の言う通りである。

(あれと同じ日々がまた始まる)


フラフラと家を出た雅姫は、自転車に乗っていた。

気が付くと、心臓はバクバクし、肩は大きく息をしている。
耳には、タイヤの音と、すごい勢いで後ろを通り過ぎた風の感触が残っている。

汗ばんだ雅姫の体に、8月最後の夕方の風が吹きつけていた。




雅姫には、学校、家族と、もうひとつの世界があった。

 

雅姫の家は貧乏ではあったが、習い事はさせてくれた。
兄が3歳の時、ピアノ教室に通い始め、雅姫も一緒に連れて行かれた。
音楽の基礎であるリズムや音階・譜面の読み方などをグループで学ぶクラスがあり、本来なら、見学だけでもレッスンになってしまうため、教室には受講者とその付き添いしか入れない決まりらしいが、まだ2歳だった雅姫に留守番をさせておくことはできないと、母が先生に頼み込んだのだ。
3歳になったら必ずこの教室に通わせるという約束で、毎回レッスンに同伴することが認められた。

そうして、結果的に早期教育を受けることとなった雅姫は、3歳になる頃には教室側が懸念していた通り、ピアノの音が片仮名のドレミで聴こえるようになった。
先生が弾いた音を当てるゲームでも間違えることはなく、それがメロディーや和音に変わっていった時も、片仮名のドレミで完璧に再現できた。
俗に言う、絶対音感というやつである。

先生には、早期教育の賜物だともてはやされ、特進コースへの進級も勧められた。
しかし、特進コースに進むとさらに個人レッスンやら何やらとお金がかかるため、母は迷うことなく断った。

小学生になると、音楽教室へは隣に住む同級生の大翔と一緒に行くことが多かった。 

大翔との会話はだいたい音楽の話だ。
最近見たテレビの歌番組か、学校の音楽の授業で習った曲か、ピアノの練習曲である。
しかし、ここ最近は、ピアノの先生に教えてもらって、なんの気なく行ってみた近所の高校のチャペルコンサートの話一色になっていた。

 

高校のチャペルは、とんがり屋根の上に厳かに十字架が掲げられていた。
秋空に高く突き刺さる頂から大きなドアに続くステンドグラスが、美しい。程よく色づいた明るい光が射し込んでいる。

チャペルではあるがキリスト像などはなく、講堂のような造りになっていた。
深い茶色の木で作られた長椅子がチャペルの雰囲気をかろうじて保っているようだ。

学生の家族や近所に住む人々は、誰でも気軽に来てよかった。

聖歌隊とブラスバンド部の秋の発表会の場ではあったが、メインにはプロの音楽家による弦楽四重奏があった。
ピアノの先生に勧められて「ちょっと行ってみようか」くらいの軽い気持ちでここにやってきたのだが、これが、どうしたものか、そんな気持ちはすぐにどこかに吹っ飛んでいくことになった。

 

まずは、校長先生の挨拶から始まり、聖歌隊の合唱へと続いた。

そして、舞台のそでから、こんなにも隠してあったのかと思うほどの椅子やら楽器やらが次々と運び込まれて舞台が埋め尽くされ、ブラスバンド部の演奏になった。

15分間の休憩をはさみ、弦楽四重奏となり、奏でられる音たちが一粒一粒、雅姫に向かって飛び出してきた。

まずは自己紹介を兼ねた1曲。

喜びに満ち溢れた響きで構成された音に、雅姫は耳を疑った。

(こんなところでこの音に出会えるなんて!)

雅姫は一瞬でこの音の虜になった。その音は、今、この瞬間、この世に生み出されたことを喜び、自らの音楽を奏でることを楽しんでいるようである。

それから、演奏者と楽器の紹介があり、次に演奏する曲の紹介があった。
皆になじみの深い1曲と、同じ楽器でもいろいろな演奏法で弾いて音の違いが楽しめる1曲、そして、さらに1曲。

クラッシックも分かりやすく説明され、曲の聴き所も教えてもらえると、こうも楽しいものかと、あっという間に時間は過ぎていった。

幸せな音たちが紡ぐメロディーに、雅姫は自分の中にある細胞のひとつひとつにこの音たちが余すところなく巡って行けるように、姿勢を正し、耳を思い切り大きく開けた。
そして、目を閉じ、胸いっぱいに音楽を吸い込んだ。

 

鳴り止まない拍手のあとのアンコールは、雅姫が初めて音に魅せられたときと同じ曲である。

それまでの雅姫は、音にいろいろな種類があることに気付いていなかった。

音とは、じつは同じ楽器で同じように奏でられていても、同じ音ではない。それは、強弱やテンポ、リズムだけではなく、優しい音、楽しい音、悲しい音、自己主張の強い音、自信のない音、何も考えていない音・・・、それぞれに表情がある。

さらに言えば、音楽を構成するそもそもの音が、すでに奏でる音楽を作り上げている。
悲しい音が弾むようなメロディーを奏でたところで、心の底からウキウキとさせられることはないし、反対に、喜びいっぱいの音が苦悩するメロディーを奏でたところで、その苦悩に共感することはない。

そんな音が、今、目の前で生まれ、自らの音楽を奏でていた。

 

これは、雅姫が、今までで触れ得た中でこのうえなく贅沢な時間だった。

奏でられる音のひとつひとつが喜びに満ち、重なり、これほどまでに甘美なハーモニーで包み込まれたことはなかった。
初めて見る楽器に、初めてふれる音。
そこには世の中の美しい音たちが溢れていた。

大翔もきっと一緒だったのだろう。自転車での帰り道、2人で何度も「やばっ」と「すごーい」、「チョーすげぇー」を繰り返していた。
会話など成り立っていないが、それで十分だった。

 

それから、大翔とする話は、何の楽器の音が一番好きとか、どんなメロディーが好きとか、どんな音が好きかとか、そんな話ばかりになった。

楽器のひとつひとつの名前も、それぞれがどの音を奏でているのかもよくは分からないので、話す時はいつも楽器を演奏する時のポーズを真似た。
それぞれのポーズをすると、あの時の音楽が頭の中で再生され、音が蘇ってきた。

 

さらに、雅姫は大翔のする音楽の話を聞くのも好きだ。

聖歌隊の歌声はもちろん、伴奏のピアノ、そしてオーケストラ部やブラスバンド部の演奏、はたまた指揮者にまでその興味は及び、見えていなかったものを教えてくれる。

ピアノ伴奏者の視線が、鍵盤ではなく指揮者にあったことに雅姫が驚いていると、大翔はこう言った。

「音のひとつひとつに細かく、どのタイミングでどんな音をイメージすべきかまで指示を出しているんだ。指揮者は出てくる音まで支配しているんだ」と。

 

大翔が指揮者の真似をして、あの時の音たちに指示を出していく。

(ほんとうだ)

指揮者を見ているだけで、今どんな音楽が演奏されているかが分かるようだった。

小学4年生、9月1日、始業式の帰り道。

雅姫の通っている小学校では、時々、集団下校というものがある。住んでいる場所で区切られたグループで下校する。

マンションのすぐ下にある駐車場に集合して、毎朝、このグループで集団登校もしている。

同じマンションに住む6人と、すぐ近くの一戸建てに住んでいる子が一緒だ。
みんな学年がバラバラで、雅姫は隣に住む同級生の大翔以外とは、それほど親しくはない。

その日、大翔は年下の男の子とふざけてなにやらはしゃいでいるが、それ以外はみんな前を向いて歩いていた。

 

雅姫のすぐ前で2歳年下の女の子が歩いていた。彼女のランドセルにぶらさげられたマスコットが揺れている。

「ね、これ見せて」
そう言いつつ、返事を待たずに雅姫はランドセルからマスコットをはずした。

「あ、それ・・・」
女の子は何か言い掛けた。

「へー、かわいいねぇ」
それは、フエルトで作られた、ピンク色のウサギだった。後頭部には、女の子の名前が刺繍されている。

「もういい?」
女の子が心配そうな目で振り返っている。

「もうちょっと」
その手作りのマスコットは、名前の刺繍も丁寧に縫われていた。
手にとって初めて分かったのだが、ふわっふわで優しく柔らかく綿が入っている。

雅姫は、自分にも大切にしているものがあるだろうかと思い出そうとした。

(小さい時から大事にしている白い犬のぬいぐるみ・・・?)

(専用のゆりかごのある小さなハムスターのぬいぐるみ・・・?)

可愛いくてやわらかくて雅姫を慰めてはくれている。
しかし、どれもしっくりこない。

マスコットを心配しながらも背を向けて歩いている女の子を見ながら、雅姫は歩くのをやめた。

そして、
道端のコンクリートの継ぎ目に開いている小さな穴の上にピンク色のウサギをもっていく。

手を放した。

ウサギは穴の中に、見えなくなった。

背を向けて歩いていた女の子が「マスコットは?」と振り返って聞く。

「え? なにそれ? ・・・知らないよ」
雅姫は笑顔でそっと答え、振り返る女の子のランドセルを押し、どんどんと歩かせた。

 

 

その日の夕方、ピアノ教室から帰ると玄関の下駄箱の上に見慣れない包みがあった。
綺麗な包装紙に包まれ、リボンがかけられている。

「おかあさん、あれなに?」

「自分で分かるでしょ! 行くわよ」
母が、靴を履く。
慌てて雅姫もそれに続く。

母は、その包みを手に、マンションのエレベーターの6階を押す。
そこは、女の子の家がある階だ。ようやく雅姫にも何をしに行くのか分かった。

母が、先を歩くので、ついていく。
ひとつのドアの前で立ち止まり、ピンポンを押す。

女の子のお母さんが出てきた。
すかさず、母は包みを両手で持ったまま頭を下げ、雅姫にも頭を下げるように促す。
しかたなく、雅姫も頭を下げた。

本当はそんなことはしたくなかった。

頭では悪いことをしたと分かっていても、なぜ自分があんなことをしたのか分からなかったし、心の中に「ごめんなさい」はない。

女の子のお母さんが、女の子を呼んできた。

包みを両手で持ったまま、今度は少しひざを曲げて、女の子の目の高さにあわせて、母が頭を下げている。
雅姫も真似を強いられる。

母はひたすら頭を下げ続け、最後に包みを渡して女の子にもう一度声を掛けると、女の子とそのお母さんはドアの向こうに引っ込んでいった。

 

帰るエレベーターの中で、母は雅姫に「分かったでしょ」と一言だけ言った。

(なにが? あの子がみんなに大切にされてるってことが?)

あのマスコットは、女の子が幼稚園を卒園する時の担任の先生が、去年の誕生日にくれたそうだ。
卒園後も弟のお迎えに行く際など、たびたび再会していて、今も気にかけ優しくしてくれているとのことだった。

マスコットは雅姫が落とすところを見ていた誰かが大人に報告し、拾い上げられていた。


雅姫はマスコットと女の子に、(良かったね)と素直に思った。

 

この出来事を母が父に報告したかどうかは分からない。
その直後の、家族で囲んだ食卓は和やかだった。

 

 

数日後、雅姫はいつも通り朝の集団登校の列に並んで歩いていた。
学年の違う子の集まりで、もともとたいして口もきかなかったせいもあり、マスコット事件の後も取り立てて変わったことはなかった。

 

このまま歩いて行っても、その先の教室に雅姫の居場所はない。

居場所がないのは今に始まったことではないし、クラスでマスコット事件を知る者がいるわけでもない。

雅姫は、ふと、足を止めてみた。

後ろにいた子が、抜いていく。
綺麗に洗われたウサギも、抜いていった。

学校はすぐ近くだ。マンションを出たひとつ目の角からすでに見えている。ウサギのランドセルが振り向いたが、すぐに前を向いた。
みんながだんだん小さくなっていった。

 

雅姫は振り返って、もと来た道の先を見た。
雅姫の住むマンションが見える。
マンションの下は駐車場が広がっている。

(駐車場の一番端の角にいよう。大きい車が止まっているから、垣根と車で周りからは見えないはずだ)

父は、今日はすでに仕事に出掛けていったが、家には母がいる。
今、帰るわけにはいかない。
しかし、父の仕事場にそのうち出掛けるはずである。そうしたら、隠してある鍵を使って、家に入れる。

ひたすらに時が過ぎるのを待った。

一ヶ所に小さくしゃがんでいるのも疲れてきたので、垣根と車の隙間をうろうろした。
誰か人の気配がしたときは、息を潜め、こちらを振り向かせないように気配を消した。

どのくらい時間が過ぎただろうか。いっこうに母が出てくる気配はない。

(今日の給食、何かな?)
もうそろそろお昼ではないか・・・、そんな気にさえなってきた。

が、まだしばらく、硬いコンクリートにじっと座っていた。
お尻の骨が当たるところが痛くなった。

小さくかがむと、今度は足がじんじん痛くなった。

(だめだな・・・)

母は出てこない。

雅姫は立ち上がって、スカートのお尻をポンポンはたいて歩き出した。

 

学校に近づいてくると、子供たちの楽しげな声がしてきた。

(休憩時間かな。今何時間目だったのかな・・・)

いつもの門に行くが、閉まっている。
仕方ないので、少し向こうの門に行く。
こちらも通常閉まっているが、来客のためのインターホンが着いている。

インターホンを鳴らし、クラスと名前を告げると、ガチャっと鍵が解除される音がした。
雅姫は、扉を押して入った。

生徒たちが校庭で遊ぶ傍ら、ランドセルを背負っている雅姫は教室に向かった。
途中、目に飛び込んできたのは、8時28分を示す時計だった。

(うそ⁉)

ウサギのランドセルを見送って、まだ30分しか経っていなかった。

給食なんてまだまだ先だ。
全身が重い。
上履きの砂を払い、手すりに体重を預けてなんとか3階までの階段を上る。ランドセルを自分の机の上に置き、椅子に座る。

雅姫の口から大きな溜息が漏れた。




雅姫は、マーガリンをたっぷり浸み込ませたトーストをかじりながら、いつものテレビニュースの画面のテロップ文字を目で確認だけして、違うことを考えていた。

(なにがいいかな)

今日は中学校の実力テストがある。実力テストとは、“今までに習ったことのあるすべての範囲のテスト”であり、いわば一夜漬けの出来ない本当の実力が試されるテストである。
しかし、なぜか内申書には反映されないので、雅姫の気合いはあまり入ってはいない。

 

雅姫は、毎日、学校に着くまでの時間を、復習もしくは暗記する時間にあてている。
今日も実力テストで出題されそうなところの復習をしたかったが、範囲が広すぎてどこが効果的か思い浮かばない。

普段、やるべきことが見つからない時は“ことわざ・慣用句一覧”をよく選ぶ。
日常会話では使ったことがない言葉ばかりだが、新聞やニュース、雑誌などの記事、大人の会話では日常的に使われるらしい。
覚えておいて損はない。

 

問題集の付録としてついていた表装のない冊子を手に「いってきまぁす」と、白いスニーカーを履きながらドアに手をかけた。
かかとを踏みつけないよう気をつけて、爪先立ちで器用に足を突っ込みながら外に出た。
ちょうど隣から大翔も出てきたところだった。

挨拶はない。
いや、大翔がなにやら意味ありげな笑顔を浮かべながら手の平をこちらに向けている。

大翔の赤い髪からのぞく耳に、白いイヤホンがついている。ポケットから何かを取り出して、見せつけるかのように高々とこちらに掲げてきた。

真新しいスマホだ。
イヤホンの先が繋がっている。

雅姫は片方だけ二重の大きな目をさらに大きくして、スマホと大翔を両手で指をさしながら、口元をゆるませながら交互に見た。
得意気だった大翔の顔がさらにニヤけた。

「なに聴いてるの?」

「神聖かまってちゃん。まだそれしか入れてねぇ」

千葉県出身のインターネットポップロックバンドのことだ。ウィキペディアにそう書いてある。
このバンドのヴォーカルが作曲した曲を、今、大翔はピアノで弾く練習をしている。

5年生になる頃にピアノを辞めて以来、4年ぶりくらいにピアノの練習する音が大翔の家から漏れてきている。

「ピアノ、だいぶ完成してきたね」

大翔はピアノが上手だ。
しかし、今練習している曲のピアノ用の楽譜は売っておらず、聴いた音の真似をして自力で楽譜を作ろうとしていた。
初めはメロディーだけだったのが、昨日は伴奏もつくようになっていた。

「それがさ、楽譜、見つけたんだ」

「へぇー、よかったねぇ! 買いに行ったの? ネット?」

「それがさ、YouTube!」

「え? 前はなかったよねぇ? 売ってた?」
DSすら持ったことがない雅姫が、とんちんかんな想像をする。

どうやら、楽譜が演奏と同時にアップされているのを見つけ、それを再生と一時停止を繰り返しながら弾いているらしい。

先ほどから、スマホをチョンチョンとタップしていたのは、そのページを開いて雅姫に見せてくれようとしていたのだ。

楽譜とピアノの鍵盤が画面の上半分くらいに映っている。音ゲーみたいだが、弾く箇所の落ちてくるところが楽譜になっている。たまに見掛けるやつだ。

夏休みに入ってすぐその話になり、ピアノ用楽譜を雅姫も手伝って探したのだが、その時は見つからなかった。
それで、大翔は自分で耳コピして楽譜にしようとしていたが、テンポの速いその曲に苦戦し、再び楽譜を探したようだ。

それが、やっと見つかったのだ。

「理想!」

「だろ」

突然、「じゃ」と言って、少し先にに見つけた友達に、先ほど雅姫にしたのと同じ様に、学校に持ってきてはいけないものランキング1位を高々と掲げて行った。

(先生に怒られんのかな・・・?)

雅姫は、手に持ったままだった“ことわざ・慣用句一覧”の昨日の続きのページを開きながら、(世の中って不公平だよな)と思った。

 

 

雅姫の勉強成績は、悪くない。いや、良い方に入ると言ってもいいかもしれない。
しかも、夏休みには学習塾の夏期講習に行ったので、1学期の復習もできている。

昨日、予定表などと一緒に配られたプリントの中に、進路希望調査書というものがあった。
今まで、漠然と高校受験を捉えていたが、そろそろ真剣に考える時期が来ていた。

雅姫は部活を引退したら、バリバリ勉強するつもりでいる。

 

雅姫が小学校に上がるか上がらないかの頃、友達はゲーム全盛期で、それを持っていない雅姫は一緒に遊んでもらえないことが多かった。

また、一緒に遊ぶと言っても結局ゲームになり、同じ空間にただ存在しているだけで、雅姫は面白くなかったのも事実である。

たまに友達の家に行って家庭用のゲームに参加することもあったが、ゲーム自体ほとんどやったことのない雅姫は基本的な操作もままならならず、みんなの足手纏いになってしまうことが多かった。

次第に、誘われることもなくなっていった。

しかたなく、雅姫は、毎月家に届く家庭学習教材の雑学的な読み物をよく読んだ。

最初は好きな項目を中心に読むのだが、同じところばかり読んでいると、次第にそれも飽きてくるので、興味のないところまで読むことになる。
すると、全く興味のないことでも面白かったりすることがあった。

その延長線上に、今の雅姫の勉強はある。
初めは出来なくても次第に出来るようになったり、分からなかった問題が分かるようになったりすることが楽しく、面白くなさそうな勉強でもやってみると新しい発見があり、もっと知りたくなったりすることもあった。

 

今日のテストは順調に終わった。おそらく、満足のいく点数は取れるだろう。

ただし、夏期講習ではノーチェックの箇所もあった。きっと、塾では入試への出題頻度が高くないために省略したのであろう。

本当なら自分で復習しておくのがベストだとは思うが、受験のエキスパートの塾の先生が省略して良しと判断した箇所だと思うとやる気にはならなかった。

学校の先生の授業よりも塾の授業の方が面白かったし、学校の定期テストが終わった範囲のところに至っては、入試に出題されやすい問題を解いたほうが勉強の効率がよいと雅姫は思っている。

もちろん、定期テストでは良い点が取れるように最大限の努力もしている。

雅姫にとって、テストで良い点数を取るということは、ゲームをコンプリートするようなものだった。

 

 

(なんなんだろう。これは・・・)

雅姫はパソコンの画面に顔を近づけ、映し出されていくおたまじゃくしと睨めっこしている。

ピアノやブラスバンドではお目にかかったことのない、8分音符と16分音符と8分休符と16分休符が、ある法則に則って交互に5線譜の上にうねうねと並んでいる。

雅姫の脳が、この法則を読解することに拒絶反応を示している。

 

大翔が、今朝、見せてくれた動画を見つけたのだ。

以前、大翔から楽譜が見つからない話を聞いた時に、雅姫も家のパソコンで探し済みではあったのだが、これには辿り着けていなかった。
検索したキーワードがイマイチだったのか、はたまた、以前からアップされてはいたがこれの再生回数が62回しかなかったからなのか・・・。

とは言え、見つかったからといって、雅姫は素直に喜べてはいない。

拒絶反応を起こしている脳に映画の主題歌のメロディーが流れ込んでくる。ピアノバージョンもかっこいい。再生回数が少ないのが不思議である。

(62回て・・・、 ほとんど大翔じゃん?)

そのくらいは見ているだろう。最近は毎日ピアノの音が聞こえているし、昨日は特に熱心だった。

(なるほど、これを一時停止してピアノで弾いて、また再生して一時停止して・・・、 この難解な羅列を・・・)

雅姫は睨めっこをやめ、背筋を伸ばし、目を閉じた。
そして、大きく椅子の背にもたれかかり天を仰いだ。

(あいつ、やばっ)

雅姫はもう一度再生した。
今度は画面は見ずに曲を聴くことに専念する。

右手と左手のそれぞれから発せられた音が、雅姫に向かってどんどん押し寄せてくる。

(ん?)

そうである、先ほどこの目でも見たではないか。

あの画面に映し出されていたのは、パソコン上の楽譜と鍵盤だった。
音の波が人工的だ。

楽譜に操られてはいるが、意思は持たされていない。

パソコンで作られた音楽だ。
楽譜が再現されていると言えば完璧な音楽なのかもしれないが、これは少し物足りない。

雅姫は音楽には音の意思を感じたいのである。

(大翔、早く弾けるようにならんかな)

雅姫は、自分がこの先、この難解な楽譜を読み解こうとすることは絶対にないと確信して、再び天を仰いだ。

 

一方、昨日見つけたピアノバージョンのボブは、抑え気味ではあるがちゃんと意思が感じられた。
撮影するからか、少し緊張しているようにも聴こえる。

(なるほど、ピアノってすごいな)

何個もの楽器で演奏される曲を、1人で演奏する。

そして、それが原曲に劣ることなく、更には、一風違った魅力まで出してくる。

大翔がピアノを愛するのも納得である。

 

ボブの3通りの“ライク・ア・ローリングストーン”をひと通り聴き終えた雅姫は、机の上に楽器を取り出した。

明日から新しい曲の練習が始まる。

(早くみんなと演奏したいな。他の楽器のパートはどんなアレンジになっているのんだろう)

しかし、フルートの単音だけの楽譜では何の面白みもなく、練習は早々に終了となった。

 

 

じめじめと湿った空気が肌にまとわりつく。朝のニュースで台風が来ていると言っていた。雅姫はパソコンのマウスを握る手と反対の手で、エアコンのリモコンを手に取った。

 

画面に映るそのインターネットポップロックバンドをチェックしたのは、今回が2度目である。

以前は、人気のあるアニメのエンディング曲を歌っていた。
アニメは子供に人気があったようだが、雅姫には巨人が人間を食べるシーンがグロテスクで、あまり好きにはなれなかった。
一応テレビの放送は毎回録画し、なんとなく話の流れを追って見てはいたが、結局、しっかり見るのはエンディング曲のところだけだった。

時空の歪む一瞬というか、テレビの電波が一瞬おかしくなったようなちぐはぐな感覚を覚えるその曲は、好きというよりは、むしろ初めて耳にする感覚で、釘付けになるといった方が相応しかっただろう。

しかし、アニメの放送が終わると、次第にその曲のことは忘れていっていた。

 

そして、また、出会った。

こんどは、ポップな青春の歌だ。

テレビから流れてきた時は人気女性アーティストが歌っており、初めはその女性の曲だと思っていた。
しかし、前回同様に、釘付けとなった。

今回は、キャッチーなメロディーが耳から離れなかった。

そして、さらにその曲は、長い間音楽から遠ざかっていた大翔に、再びピアノと向かい合う気にさせた。

雅姫は大翔を手伝って楽譜を探しているうちに、別の女の人が歌っているバージョンと、作曲者本人が歌っているバージョンにも耳を奪われ、どれもライブラリに保存したのだ。

 

それにしても、暑い。じめじめがさっきよりも酷くなっている。

リモコンと一緒に背後にあるエアコンに振り返ろうとした時、窓の外がとても暗いことに気がついた。

(え? 今、何時?)

15時12分。

とてもそんな時間には思えない暗さである。ぽつぽつと雨が降り始めている。

(洗濯物・・・)

マンションのベランダに干されている洗濯物は、まだ雨には濡れていない。しかし、風も出てきたようで揺れている。このままにしておいたら、すぐにでもビショビショになってしまうだろう。

(どうしようかな・・・)

 

昔、雅姫の身長が、ベランダの天井からぶら下げられた洗濯物にギリギリ手が届くようになった頃、今のように雨が降り始めたことがあった。

雅姫は背伸びをしてなんとかハンガーに手を伸ばし、部屋の中に取り込んで、母の帰りを待っていた。

夕方の子供向け番組が終わった頃、母は大きな買い物袋を提げて帰ってきた。

魚やお肉を冷蔵庫に片付ける。
そして、こちらに今日のおやつの選択肢を告げている。雅姫は適当に返事をして、母親が気付くのを待っていた。

母の声がした。
「全部シワシワになっちゃったじゃないの!」

先ほど雅姫が取り入れた洗濯物のことであろう。

「お手伝いっていうものはね、洗濯物なら畳んで引き出しに入れておくまでがお手伝いなのよ!」

その通りだと思った。

しかし、そこまでは考えは及んでいなかった。

雅姫は何度もよろけて壁にぶつかりそうにもなった。

植木鉢を置く台の上に乗って手を伸ばした時には、ベランダから落ちそうな気がして怖い思いもした・・・。

 

 

そんな思い出がある雅姫は、“洗濯物は二度と取り込まない”と心に誓っていた。今まで、何度と取り込もうかと迷ったこともあったが、結局取り込んではいない。

 

思った通り雨風は激しくなり、洗濯物は濡れた。
しかし、母は何も言わず、黙々と濡れた洗濯物を部屋に取り入れ、カーテンレールに引っ掛けた。

雅姫が何かをするより、何もしないでいるほうが平和だった。


夏休みにコンクールが終わって以来、9日ぶりに音楽室に来た。
雅姫には、もっと久しぶりに感じられる。

まず、楽器に息を吹き込んで温める。
いくら9月で暑いといっても、雅姫と楽器には温度差がある。
しばらく指慣らしを兼ねてひとつずつ丁寧に音を確認する。

短い音の長さで1オクターブ、

シシドドレレミファファソソラシで上がって、

シラソソファファミミレレドシシで下がる。
雅姫の音楽はカタカナだ。

長い音の長さでもう一回。

シーシードードーレーレーミーファーファーソーソーラーシー

シーラーソーソーファーファーミーミーレーレードーシーシー

ピアノではド・Cの音からドレミファソラシドと音階が始まるが、吹奏楽では、シ・Bの♭から始まる。
B♭から半音ずつシシドドレレミファファソソラシだ。

短い音の長さで今度は2オクターブ、B♭から上がってつぎのB♭、
それからさらにもう1オクターブ上のB♭まで、半音ずつ。
そして、下がる。
長い音の長さで2オクターブ。いったり、きたり。

丁寧に音の密度が変わらないように。
きれいな音の波の形が描けるように。

 

全員がチューニングが終えたくらいから、みんなそれぞれ新しい楽譜の練習に入る。
あちこちからメロディーが聴こえてくる。
それに混じって、雅姫も小鳥のさえずるような、メロディーに戯れるであろう音の流れを繰り返す。

聴こうと思わなくても勝手に耳に入ってくるトランペットとサックスの音は、さすがに華やかだ。
トロンボーンも負けじと追っかけてくるが、どことなく滑稽さがあり、追い越すことはない。

メロディーに混じって、コントラバスの低く暖かい音がゆったりと教室の床に広がる。
雅姫が、この教室の中にある音の中で一番好きな音だ。

パーカッションのリズムも加わり、時間の流れを支配する。

これだけの音とメロディーとリズムが混在していると、それは空気となり、誰かひとりのメロディーがしゃしゃり出てきたりはしない。
自分の音がしっかりと聴こえる。

 

そこへ中年の男性教師が教室にゆるっと入ってきた。

黒板を背にしてみんなの正面に位置し、おもむろに片手を上げ、その手の先にある指揮棒が教室中に広がっていた音たちを集めた。

そして、ゆっくり振り下ろす。

音たちはみんな一斉に同じ方を向き、進んでいく。

シーーー、シーーー、ドーーー、ドーーー、レーーー、レーーー、ミーーー、ファーーー、ファーーー、ソーーー、 ソーーー、ラーーー、シーーー

シーーー、ラーーー、ソーーー、ソーーー、ファーーー、ファーーー、ミーーー、ミーーー、レーーー、 レーーー、ドーーー、シーーー、シーーー

しばしの音出しと短い話のあと、楽しみにしていた新しい曲の号令がかかった。

はやる気持ちを落ち着かせ、指揮棒の示す時間の流れに合わせてフルートを響かせていく・・・

 

 

勉強机の前に座った雅姫は、背もたれに体を預け太ももの上で両手を絡ませていた。

昨日、この部屋で燻っていた音たちが、今日はキラキラと輝き、流れに身を任せ、弾むように踊っていた。

練習初日なので、そこかしこで躓いたりひっくり返ったりしていたが、それでも音たちはそれすらも楽しんで生き生きとしていた。

 

隣の家から、大翔のピアノの音が聞こえるが、今はそれに心を惹かれることはない。

今、雅姫は、新しい音楽でいっぱいになっている。

 

想像がつかなかったボブ・ディランの全貌がようやくはっきりしたのだ。

学芸会という演奏の目的に沿った先生の意図もちゃんと伝わってきた。

やはり先生が自分で編曲し、全校生徒、保護者などに向けてのメッセージやパフォーマンスがあちらこちらに詰め込まれていた。

イントロは、原曲の雰囲気に忠実に始まっていった。
暖かくゆったりとした流れでメロディーを迎え入れ、そして、それを彩るように支え、導き、次の世界へと連れて行く。
そこから、原曲でいうサビの部分を10回繰り返す。

短い節ではあるが、10回もである。

まずは、今までの流れに沿った柔らかなフルートのソロで、サビの前半を1フレーズ奏でる。

それに応えるかのように最大限に優しく、後半の1フレーズをフルート以外の楽器たちが奏でる。

つぎに、深みのあるクラリネットのソロで、前半の1フレーズ、後半の1フレーズをクラリネット以外の楽器たちが奏でる。

艶のあるサックスのソロで1フレーズ、それに応えるサックス以外の楽器たち。

穏やかなホルンのソロで1フレーズ、それに応えるホルン以外の楽器たち。

暖かなユーフォニュアムのソロで1フレーズ・・・

どっしりと安心感のあるチューバとコントラバスで1フレーズ・・・

親しみのあるトロンボーンで1フレーズ・・・

そして、一段と華やかにトランペットが1フレーズ、と、それに湧き立つかのように応えるトランペット以外の楽器たち。

残すは、パーカッションのドラムソロに加えて、ティンパニと大太鼓のアレンジ。

それに全力で応えるパーカッション以外の楽器たち。

メロディーとメロディーの掛け合い、いや少し違うだろう。

コール&レスポンス。

先生は、ロック会場のアーティストの呼び掛けにオーディエンスが応えるそれを意識したのではないだろうか。

自分たちの、ブラスバンド部員のための音楽。
そして、それを観客に魅せる演出。

演奏するパートパート、生徒一人一人が最高に際立つように・・・

 

そして、締めの全員合わせての大合奏・・・

 

雅姫の期待以上だった。 


 

雅姫は、ライブ配信の録画を見ようとパソコンを立ち上げた。

ライブ配信とは、テレビの生放送のようなもので、配信者がパソコンやスマホで配信アプリを使って行う。リスナーはコメントで画面上でリアルタイムに参加できる。

しかし、このパソコンにはそのアプリが入っていないため、雅姫はその実際のライブ配信は見えず、その録画がYouTubeにアップされたものを見ている。

 

大翔の楽譜を探している時に、その作曲者が配信する“ライブ”映像がたくさん出てきて、その曲はもちろん、他にも気に入った曲が何曲もできていた。

次々とアップされていく録画を見逃すのが嫌で、チャンネル登録機能というものを初めて使ったのだが、それがどんどん溜まっていっている。

今の時期は“ライブ”ツアー中で時間に余裕があるらしく配信がとても多い。移動中や“ライブ”前の楽屋、“ライブ”中、“ライブ”後のホテルなど、電波がつながる限り配信が続いている。

 

今は、“ライブ”の演奏途中である。

しかし、電波の状態があまり良くなく、音が悪い。
早送りにして、何の曲が演奏されているのかと、曲と曲の間のヴォーカルやメンバー、観客とのやり取りを見る。

たまに、再生速度を元に戻してじっくり見る。

鋭い言葉で観客を煽るヴォーカル、それに歓声で答える観客・・・

まるで会話をしているようだ。

そして、それがひとつの音楽をつくり上げている。

 

(コール&レスポンス・・・)

それは、雅姫たちのブラスバンド部の演奏と重なった。

 

 

 

その日の夕食のことだ。

「はーい、じゃあ、いただきますするよー、いただきます」
父親が号令を掛ける。

「いただきます」
だいぶ前からそこに座っていた兄が手を合わせる。

「いいただきます」
雅姫も手を合わせる。

すでに父と兄は、お刺身の醤油にわさびを溶かしている。
「はい、どうぞ」
母が言う。

そして、「雅姫、さっき、学校からメールが来ていたわよ」

「え、なんて?」

「進路調査の用紙を出しなさいって」

「あぁ、来週の月曜日までにね。あるよ」

「雅姫は松田高校の被服科がいいと思うのよね。
お母さんが通ってた時は、2クラスで女の子ばっかりだったけど、被服科なら雅姫の成績でも十分行けるわよ。被服科でも松校は松校だしね。ここからなら自転車で行けるし、そんなに遠くないわよ」
何度も聞いたことがある。

「えー、被服科? 普通科が、いいいな・・・」
雅姫は、大学に行きたいのだ。

「そう? 被服科で進学してる子もいたわよ」

(何十年前の話なの・・・)

「まあ、そうね、専門学校か短大くらいならいいかもね。雅姫は女の子なんだから」

(なんで女ならそうなの。被服科に行ったらそれしかできなくなるじゃん。私の将来の選択肢を狭めるようなところを勧めるって・・・)

「えーーー・・・」
雅姫は、理系の4年制大学に行きたいのだ。

とりあえずは、返事はせず、もぐもぐと口を動かし続けた。
父も母もその学校出身だからということと、今の成績ではその学校の普通科は無理だということ以外、なぜ母がその学校の被服科を勧めるのか分からない。

 

「ごちそうさまでした」
食卓には、食べきれなかった料理が残っている。
中にはほとんど手をつけていないお皿まである。
母は、いつもテーブルいっぱいにおかずを並べる。
それは祖母の方針だったらしく、今もつづいている。

以前、給食費集金袋を家に持ち帰ってきた日もそうだった。
子供ながらに残った料理を見て、(そのお金、わたしの給食費にまわしてよ)と心の底から思ったことを、昨日のことのように思い出した。

 

母が、雅姫によくする話がある。

母が雅姫を妊娠した時、祖母には「なんでこんな時に子供なんて作ったんだ」とひどく怒られたそうだ。

その頃、祖母は体を壊しており、入退院を繰り返していた。

母がまだ歩けない兄をおんぶして病院に通って、洗濯物や用事ごとなどの世話をするのだが、いつも母のおなかに向かって「いらない子」と呼んでいたらしい。

母は、「出来ちゃったものは仕方がないじゃないよねぇ。反対されたけど、産みましたよ」と決まって言っていた。

それが、“そんな思いまでしても、雅姫を産みたかったのよ”という雅姫へ愛情を伝えたいのか、それとも、“私は、こんなに大変な思いをしてきたのよ”というアピールなのかは分からない。

雅姫はいつも返答に困り、「そうだったんだ」とだけ言った。

 

雅姫には祖母との記憶がひとつある。まだ、一緒に暮らしていたときの話だ。

祖父母の家―すなわち当時の雅姫の家―から車で1時間くらいのところにあるレジャーパークへ、祖父母と孫で一緒に行こうというのだ。

母は、雅姫の長い髪を綺麗に三つ編みにし、お下がりではあるがお出掛け用にしている可愛い花柄のワンピースを着せてくれた。
兄もお出掛け用の服に帽子をかぶっている。

準備が整い、玄関で待つ祖父母ところへ行くと、雅姫の後ろにいた母が、雅姫の両肩に手を置いて「この子もよろしくお願いします」と言い、祖父が「おお、雅姫もいくか?」と言ったのだ。

その時は幼かったので意味はよく分からなかった。

しかし、母が可愛くしてくれて、ただただ嬉しかった気分が一瞬にして終わったことだけは、鮮明に覚えている。

兄妹2人を誘われていたら「この子も」なんて言うだろうか。

祖父は「雅姫も」と言うだろうか。

目の前に立つ祖母に笑顔はなく、返答はなかった。


甘いコーヒーを飲み干して、いつも家を出る時間に登場してくるニュースキャスターの声を聞きながら、スマホの画面に見入っている母に声を掛けた。

「これ、はんこ」と、進路調査書を食卓の上に置いた。

「ん」
一瞬、母は視線をやって、またスマホに視線を戻した。
雅姫は学校に行く時間が過ぎていても母から注意されたことはない。
学校も、教育指導の先生の待ち構える門の手前に、垣根のぽっかり穴が開いたところがあり、たとえ遅刻していてもそこから入れば先生と顔を合わすこともない。
何時まで家にいたら「早く学校に行きなさい」と言うのか試してみたいと雅姫はずっと思っている。

進路調査の紙は適当に書いておいた。
第1志望に松田高校、第2志望は近所の南陵高校にした。

玄関で靴を履いて、ゆっくりドアを開けて「いってきます」と小さな声で言って、家を出た。

 

そう言えば、昨夜、隣の家から大翔の大きな声が聞こえていた。

学校から、進路調査に関する一斉メールが中3の母親全員に届いたからだろう。

 

雅姫より一瞬早く、家を出ていた大翔から何か聴こえる。
このシャカシャカした感じは大翔自慢のスマホにつながったイヤホンからだろう。

しかし、学校に持ってきてはいけないはずの携帯電話を、こうも分かりやすく持ってきている大翔に対して、先生はなぜ見て見ぬフリをしているのだろうか。

携帯電話以前に、頭やら制服やら、注意すべき所がいっぱいなせいだろうか。
学校を休みがちな大翔は、学校に来るだけで良しとされているのだろうか。

それならそれで、世の中って、不公平だなとつくづく思う。

雅姫は、大翔の横に並んで、手を後ろ手に組み、顔を覗き込むように見上げた。

「(な、に、き、い、て、る、の?)」と声は出さずに、両手を耳のところにもっていき、スポンッとイヤホンをとるジェスチャーをした。

すると、大翔は、片っぽのイヤホンだけ耳から離して、「おお、聴く?」片っぽのイヤホンをこちらに差し出してくる。

音漏れは漏れではなく音楽になった。
とたんに、大翔に教えられずとも何の曲かは分かる。

大翔のピアノの曲と同じバンドの曲であるが、曲調が恐ろしく違う。
このバンドの曲の中では有名らしいが、歌声というより叫び声だ。

雅姫は初めてこの曲を聞いたときはかなり引いた。
確か、かなり早い段階で、聴くのをやめた。
大翔の曲のポジティブな歌詞と比べ、こちらはギターやキーボードが綺麗に流れてはいくが、それを打ち砕く叫び声が、「死ね~」、「死ね~」と繰り返しているのだ。

「今日の俺はこういう気分なんだよ」

「あー、進路? きのう、声聞こえたよー」
手のひらでイヤホンを押し返す。

「まぢ、最悪」

「なんて書いたの?」

「い・き・ま・せ・ん!!」

なるほど、それでお母さんと揉めたのか。
母に思ってることが言えない雅姫からしてみれば、少し羨ましい気がする。

「この、キーボードがさ、綺麗なんだよ」
大翔が雅姫にする話は、音楽のことが多い。

「シャウトとキーボードのギャップがさ、いいんだよ」
きっと、学校に着くまでずっとこの話だ。
「死ね死ね」と言っている歌詞は関係がないらしい。

大翔は、夏休み明けから毎日学校に来ている。と言っても、まだ4日目ではあるが、大翔にしては珍しいのだ。

「でさ、なんでこの歌詞なのにこんな綺麗なんだと思う?」
ポケットから取り出したスマホから、イヤホンを抜きながら大翔が聞く。

(きたきた。
いや待て、その音楽を綺麗と言い切れる大翔が変わっていると思うが?)

「え・・・? んー・・・」

「キーボードが綺麗だから?」
なんとなく、それっぽい答えを予想した。

「正解! ずっとキーボード聴いててみ」
スマホから直接音が出ている。

音は悪くはないが、やはり少し軽い。

家のパソコンもヘッドホンで聞いたほうが断然深い音がしていた。
きっと、スマホもイヤホンで聴いた方が綺麗なんだろう。

狂いのないリズムで奏でられるキーボードが流れていく。

「ああ、の子さんの声が楽器の音に聞こえてくるね!」

なるほど、曲の初めからずっとキーボードの音を追いかけていくと、歌詞は歌詞ではなくなってきた。
ヴォーカルの声は意志のあるひとつの音色となり、単調なキーボードを盛り上げている。

音がカタカナのドレミファソラシドで聴こえる雅姫にとっては、この聞き方をするとドレミが2つになってしまい、一方は聴き取れない。

(そうだ、むしろそれが良い)

キーボードがカタカナで聴こえる代わりに、言葉で歌われている方のメロディーが、言葉でもなく、カタカナのドレミでもなく、“メロディー”として耳に届いてくる。

(ほんとうだ。綺麗な曲だ)

 

雅姫と大翔は、小学生の時に習っていたピアノ教室に歩いていく間、ずっとこんな会話をしていた。
大体、さっきのように大翔が雅姫に問題を出し、その曲のどこが好きかなどを雅姫に答えさせるのだ。

しかし、大翔がピアノを辞めさせられて以来、音楽の話どころか、日常会話すらあまりしなくなっていた。

大翔の親からしたら勉強の塾の通わせるためだったらしいが、それが逆効果だった。

大翔の家からはケンカする声がよく聞こえるようにもなり、だんだんとイライラは募り、反抗をくりかえし、大翔は全く勉強をしないどころか素行も悪くなった。

 

 

そんな大翔と久しぶりに口を聞いたのは、今年の夏休み直前だった。

 

雅姫は公園のベンチに1人で座って、ミュージックプレイヤーで音楽を聴きながらさっき買ったばかりの漫画を読んでいた。
いや、漫画を読むフリをしていた。3回読んだところで、さすがに飽きている。

雅姫は公園のベンチに座りなかなか暗くならない空を見上げた。

(早く暗くなって、夜になればいいのに・・・)

公園のベンチにまぁまぁのお行儀の良さを保って座るのは、けっこう大変である。
いっそのこと男ならごろんと横にでもなれただろうが、15歳の女子中学生ではそうはいかない。

背もたれに体を預けてはいるが、それは硬く、背中と当たる部分が痛い。
そろそろお尻も痛くなってきていた。

 

その日、雅姫は家に帰るつもりはなかった。準備もしてきた。

お気に入りの曲たちを新たに追加してきたミュージックプレイヤーと、もう既に用無しとなったが、今日発売の漫画本。
あと、雅姫の机の上に、ルーズリーフに書いた手紙を1枚、裏返しにして置いてきた。

前日の出来事が頭から離れず、家を出る前に書きあげた。
自分の勝手で家を出て行くことへのお詫びと、家族への感謝の気持ちが綴ってあった。

 

前日、学校から家に手紙が届いていた。
そこには、1学期の遅刻の回数が書かれていた。

学期が終わる直前に、このように保護者に知らせていると噂では聞いたことはあったのだが、雅姫が目にしたのは初めてだった。

いったい、これは何通目なのだろうか。

雅姫はこの中3の1学期に、特に遅刻をたくさんしたという認識はない。

父親に怒られるのはもちろんしょうがないことなのだが、今回が初めての手紙じゃないことが自分で分かる雅姫にとっては、今まで何も言わなかった母にびっくりしていた。

しかし、手紙が来ようが来まいが、母は雅姫の遅刻が多いのは知っているはず。

毎朝、登校時間が過ぎても、家にいる。
そんな時間に家を出発して、間に合うわけがない。

 

意図的な遅刻に弁解する気持ちはなく、雅姫はおとなしく反省しているかのように振舞った。

そして、父のお説教が終わりを見せた時、急に「大体お前は何を教えているんだ!」と矛先が母に向いた。
その瞬間、雅姫はハッとした。

(は? 私、教えてもらってないし!)

遅刻は雅姫の意思でやったことだ。
母は全く関係ない。
しかし・・・

(ちょっと待って、おとうさん。 私、お母さんになんにも・・・)

母は、突然のことにおどおどしながら父に弁明していたが、雅姫の耳には入ってこない。

雅姫の頭は、壊れたCDプレーヤーが同じところを繰り返すように、父の言葉と雅姫の言葉が頭の中で何度も行ったり来たりしている。

(なにこれ)

パソコンがフリーズしてどこのキーを押しても無反応なように、雅姫の脳も心も動かせない。何かに引っ掛かってそこから先に進めなくなった。

 

 

ベンチで漫画を読みつつも頭の片隅にずっと流れている。
頭の中がフリーズして、何に納得がいかず、何に不満で、自分がどうしたいのか分からない。

ただ、いつもの通りに、笑顔で何事もなかったかのように、家族の食卓に参加したくない。 

(お尻、痛いな・・・)

ようやく暗くなり始めた西の空を見て、この場所にこのまま居続けられるかどうか考えていた。


すると、雅姫の目に、とんでもないガニ股で自転車に乗ってくる大翔の姿が入ってきた。
ふらふらと、暇そうに。

すると、大翔もまた暇そうにベンチに座る雅姫を見つけたようだ。
近寄ってくる。

「おう」
声をかけられるのは、ずいぶん久しぶりだ。

「どこいくの?」
“なにしてるの?”と聞かれるのが嫌で、雅姫から話し掛けた。

「どっこも。帰るの」

「そか。今日は帰るの早いんだね」
いつもが遅いのかは知らないが、適当なことを言ってしまう。

「だってさ~、テレビ見たいじゃん。今日、あれやるよ。恋雨」

そうだった。雅姫がだいぶ前から楽しみにしている映画が放送されるのだ。映画を映画館に見に行く習慣がない雅姫の家では、テレビで放送されるまで見ることができない。

「おまえ、見ないの?」

「見る見る、見るし」
雅姫は、そう言ってベンチから立ち上がった。

 

思いがけずして帰るタイミングと理由を得た雅姫は、何事もなかったかのように食卓についていた。

父も、母も、兄もいつもと同じである。

(あ、手紙、捨てないと・・・)

大翔に助けられた気がした。

言葉を交わしたのは、じつに4年半ぶりだった。

そして、それ以来、また音楽の話をするようになった。




学芸会の練習は順調に進んでいた。

発表曲3曲とも、正確な音程とリズムが整った。
これから、この3曲それぞれを磨いていく。

演奏者と楽器で響かせる音は、どんな音がいいだろうか。

この音が一番引き立つにはどう息を吹き込めばよいだろうか。

その音で奏でる音楽はお客さんにどう伝わるだろうか。

そして、生まれてきた音は音楽を奏でることを喜んでいるだろうか。
楽しめているだろうか。

そんなことを、あれこれ試しながら指揮棒の指示に最高のパフォーマンスで応えられるよう、日々、磨きをかける。

 

反対に、大翔のピアノは暗礁に乗り上げていた。

昨朝、ドアを開けたら大翔にいた。
腕まくりをしたYシャツの裾をだらしなく外に出している。

「あーーー、だめだー。ぜってーあんなの人間には弾けねえって」
学校まで一緒に歩く。

(そうだろう、そうだろう)
その楽譜には、雅姫はすでに思考回路を停止させられている。

「やっぱDTMは現実には無理なんかなー」

「DTM?」雅姫は初めて聞く言葉だ。

「そ、パソコンの音楽」
なるほど、確かにあれはコンピューターの音だった。

「リズムが鋭すぎるんだよ。ギターならいけんのか? の子さんならいけんのか?」
かなり行き詰っているようだ。
作曲者にまでキレている。

どうやら、雅姫に聴こえていたピアノは、何個も重なる音符のいくつかを取り出して、リズムから練習していく第1段階だったらしい。

ブラスバンドの楽譜でもたまにあるが、1拍の半分から始まるPOPを楽譜にすると、とたんに難しく感じるのだ。
今まで目にしていた、いわば簡単なクラシックの楽譜ではほとんどお目にかかったことのない、音符たちのトリッキーな並びに苦戦しているに違いない。

しかも、昔からリズム感の良い大翔は、イメージするリズムと自分の発するリズムの差に納得がいかないことが多い。

「もうちょっとしたら、いけるようになるんじゃない?」
これは雅姫の本心だ。

「あーーー、そうかなー。俺、いけるようになるんかなぁ」

「そうだよ。大翔リズム感めっちゃいいからさ。
自分のものにするって言うかさ、体に浸み込むって言うかさ」

「めっちゃ早いんだよ!
チャチャチャチャ、チャチャチャチャッて、
そんな早く手ぇ動かんくない?」

「なるって」
雅姫は、大翔ならできると本気で思っている。

「ンチャンチャンチャッンチャー、ッチャッチャチャッチャ・・・・・」
大翔は歌いながら、空でピアノを弾く真似をした。

雅姫が解読をあきらめた羅列が今、分かった。

やはり大翔は凄いと思う。

 

 

実力テストの結果は、予想通りだった。

先生が丁寧に解き直しをし、退屈ではあったが復習が出来た。

次は移動教室で、音楽室へ行く。

 

雅姫は音楽の時間は苦手だ。

楽器の演奏や音楽鑑賞は好きだが、歌を歌うのが苦手なのだ。

学校の音楽は何かと歌を歌わせる。
ドレミとカタカナで歌うのならまだ何とか出来そうだが、言葉で歌うとなると、どの高さの声を出せばよいのか、また、どの高さの声が出てくるのか出してみないと分からない。

雅姫は「ラララー」と歌うなら、“ラ”の音程で歌いたいし、「ラー」と言いながら“ド”の音の想像ができない。

 

授業終了のチャイムが鳴ると、一斉に周りがざわざわし始める。

雅姫も、音楽の教科書と筆記用具を手に、いつもの顔ぶれが集まっている方に近づいていく。

小学校からの帰り道の、道端でたむろしているクラスメイトたちの雅姫に向けた顔がチラついた。

わずかに肩に力が入るが、「行こー」と、胸に抱えている音楽の教科書を、その格好のままパタつかせる。

「あ、次、音楽? 移動?」

「さすが雅姫」みんな各自の机に教科書と筆記用具を取りに行く。

さりげなく、様子を窺いながらなるべく自然について行く。

 

みんなの話題は、先ほど返却されたテストの話から、夏休みに遊んだ話、塾の夏期講習の話と変わっていく。
雅姫も、夏期講習の話に加わった。

 

途中、トイレに寄っていく。

順番に教科書と筆記用具をお互いに預けあい、扉を閉めると、とたんに周りが静かになった。

まるで、雅姫だけ別の世界に入り込んでしまったようだ。

このままこちらの世界から戻らないとしても、誰も気づかないと思う。落ち着かない。

雅姫の持ち物だけがその辺に置かれて、置いてきぼりにされる映像が頭をよぎっていく。

慌てて用を済まして扉を開けた。 

中学生になってからは、雅姫の不安が的中したことはなかった。


夕方、雅姫が学校から帰る途中、自転車の籠にコンビニの袋を入れた大翔がいた。

「おう」Tシャツに短パンだ。
今、制服じゃないということは、今日は学校に行っていない。

「おひさー」
先週、ピアノがうまく弾けなくて叫んでいた以来だ。

「待って・・・」
イヤホンの音が大きすぎだ。
それでは話せない。

「なに聞いてるの?」
音楽ではない。
なんか喋ってる。

「の子さんの配信、ライブ前だってさ。
今、名古屋に来てるんだって。俺、今から行っちゃおうかなぁ」

「あ、知ってる。それ」
雅姫は録画で見ている。
かなりの時差はあるが。

「すげくない? 配信してるから、全部場所分かるぜ」

「は? 凸に行くん?」
ライブではなく、外に出掛けて配信しているところに会いに行くつもりのようだ。

「ライブも行きたいけどさ、お金がないもん」

「分かる! 高いよねぇ。高校生になっても行ける気がしないわ。
てか、全然学校来てなくない?」

「へっへっへ、
今さ、配信見るので忙しくてさ、起きらんないんだよねー」

「寝坊かい」

「今日もさ、ライブのあと、絶対配信あるよ」
リアルタイムで見られない雅姫には、羨ましい限りである。

「そうだ!それより、あれ、どうしてるの?」

「急に? なにがだよ」
大翔の顔が、ぽかんとする。

「ピアノ」
あの日以来、映画の主題歌の代わりに、同じインターネットポップロックバンドの曲ではあるが、いろいろな曲のキーボードのメロディーが聴こえていた。

「おぉ! いいだろ。モノさんのキーボードだよ」

「楽譜あるの?」

「いや、耳コピ。あれはまだ片手だけだからな」

「は? キーボードって片手だけじゃないの?」

「ばか、ちがうんだよ。モノさんに失礼だな」
大翔は、本当にピアノが好きだ。

「そうですか。すみませんでした」
大翔からピアノを取ったら何が残るんだろう。

「でも、今、何個かいいやつ見つけてあるから、コピー用紙、ほら」
自転車の籠に、ペットボトルと分厚い紙包みがあった。
学校に来ない理由はここにもあるようだ。
YouTubeの画面をスクショしてコピーする。こないだ雅姫が思いついて教えた方法だ。

「だからさー、いそがしんだよ」
ピアノと配信と睡眠が、大翔のほとんどを占めていた。

「卒業できんくなるよ」

「え? 卒業できないなんてあるの?」

「分かんないけど。高校、ほんとに行かないの?」

「行っても意味ないっしょ」

「そっかなぁ」
雅姫は、高校へ行って大学も行きたい。
自分が生きていくためには、それが一番確実な道であろうし、勉強も面白いし、バリバリ働いてお金を稼ぎたい。

「ま、雅姫は勉強得意だからいいだろうけどさ、俺、絶対、嫌」

「まー、の子さんも高校中退だし、なんとかなるんかもね」

「だろ? おれはするよ。の子さんも、自分で責任取ればいいって言うもんな」

「そだね」
本当に、その通りだ。
大翔なら何とかする気がする。

「自分でちゃんとすればいいんだよ。ちゃんとするよー。俺は自分でちゃんとやるって言ってんのにさー、母ちゃんがさー・・・」
まだ揉めているようだ。それはそれで、当然だろう。

「大翔は、ちゃんと自分の将来考えてて偉いなぁ」
雅姫は本心からそう思っている。

「まぁな。当然だろ」

そうである、雅姫もそれなりに考えている。

 

 

雅姫たちのボブはいよいよ仕上げの段階に入っている。
奏でられるのを今か今かと待っている楽器たちのいる特活室に向かう。

あと3週間、まだ時間に余裕があるように思えるが、その間に中間テストがあるため、明日から10日間、部活は休みになってしまう。

 

それぞれがそれぞれのメロディーを思い思いに練習する中、雅姫はお気に入りのコントラバスの音を見つけた。

 

その低音で落ち着きのある音色は、雅姫たちの音楽をどっしりと支えてくれる。

それを奏でる裕美もみんなから“お母さん”と呼ばれる愛されキャラだが、今の雅姫にはしっくりこなくなってしまっている。

温かく包み込んでくれる世間の持つそのイメージと、雅姫のそれとは全く違うようになってしまったからだ。

父の一言がきっかけとなり、雅姫はこのことに気がついた。

今まで流れてきた雅姫の全部の時間に存在し、ずっと影を落とし続けてきた。

5年前、上履きの件で担任の先生から母に連絡があったときも、雅姫のSOSが一蹴されたときも、祖母の話をする母の言葉も、押入れから眺めた景色も・・・。

(お母さんなんて好きじゃない・・・)

 

そんな事を考えていると、あたたかいコントラバスの音色が足元から雅姫を包んできた。

(もっとこの音を聴きたい)

それに合わせて、雅姫はメロディーを重ねる。

それぞれがそれぞれの音楽を奏でるなか、小さく重なるメロディーが音楽の合間に見え隠れする。

誰に指図されるともなく、2人、3人と重ねてくる。

気が付けば、バラバラだった音楽がひとつに重なり、流れるメロディーが輝いている。

(楽しい)

 

その曲の最後の音を見送ったあと、みんな自然とお互いの顔を見た。
照れくさそうな、嬉しそうな笑顔がある。
どこかくすぐったいような恥ずかしいような気持ちもする。

みんながワイワイし始めた頃、先生が入ってきた。

「おい、そんな嬉しそうにすんなよ。もたついてたじゃないか」とは言いつつ、上機嫌なのは隠せない。

「いいか。よく聞け。本番は、あそこんところ立ってやることにするぞ」

譜面台にあった指揮棒を手にとり、軽やかに譜面台をコンコンとする。

すでにリズムが整えられ始めている。
きっと先生の頭の中では“あそこんところ”の演奏中なんだろう。

「えーーーー、やっぱりー」みんな“あそこんところ”が分かっている。
噂していた通りだ。

みんなが椅子や譜面台の向きを整える。

先生が顔の前に両手を掲げた。

白い指揮棒の先が合図を送る。

静かな湧き水がせせらぎになり、小川になり、川になっていくように「ライク・ア・ローリングストーン」が流れ始める。
部員一人一人の音楽がひとつになり、穏やかな大きなメロディーになっていく。

途中、ソロパートにくると白い指揮棒は立ち上がるよう順番に指示を出していった。
そして・・・

「ね、この音はどう?」
「綺麗だよ」「いいね」・・・

「じゃあ、このリズムはどう?」
「おう、ノッてるね」「もちろん、サイコーだよ」・・・

コール&レスポンス。

 

雅姫たちの「ライク・ア・ローリングストーン」はそういう曲なのだ。


 


雅姫は、テストも勉強も嫌いじゃない。もっと言うと、授業も嫌いじゃない。

授業中は、自分は自分の場所で、友達は友達の場所で、それぞれが移動することがなくて好きである。ホッと落ち着ける時間でもある。

教科書に書いてあることは、教科書を読めば分かる。

雅姫は、先生のするそれにまつわる雑談を秘かに待っている。
その勉強がどこかに繋がって、どうなっていくか聞きたい。
しかし、それは、すごくたまにしかやって来ない。突然やって来るその瞬間を聞き逃さないために、先生の話は一応ずっと聞いている。

とは言え、大体いつも、こっそり他の教科の勉強をしたり、宿題をしたり、寝たりしてしまう。

 

テストは、どの教科もそこそこ良い点が取りたい。
なので、テスト前の詰め込み勉強はかなりする。

しかし、雅姫は決して頭がいいとは言えない。

テストの直前にパッとやって憶える人がいるが、そういうことは出来ない。

それに、せっかく努力して憶えたことも、テストが終わるとほとんど忘れてしまう。

 

勉強は、数学と化学が好きだ。考え方から答えまで正解があるところが特に好きだ。

また最近は、国語も嫌いではなくなってきた。

小学校で習う国語は「どう思いますか?」とか「主人公はなんと思いましたか?」などのこれといった正解はなく、なんとなくこんなことが書いてあれば正解というスタンスの問題が多かったが、これが苦手だった。
書いたところで、正解か不正解かを決め付けられるのが嫌だった。

しかし、中学の国語は、本文中から抜き出したり、本文中にある言葉をつなぎ合わせて答えを作ればよいので、宝探しみたいで面白くなった。

文法も無意識に使っている言葉がすべて規則に従っていたことには驚いたし、それを使いこなしていたことが素晴らしいと思った。

 

 *

 

雅姫は明日からのテストに向けてこのまま家で勉強するか、近所の図書館に行って勉強するか迷っていた。

家にいるとついつい音楽を聴いたり、ライブ配信録画を見てしまう。

しかし、今日は、特に集中して勉強しないといけないのだ。

とは言え、とりあえずお気に入りの映像をつける。

ギターをかき鳴らしながらヴォーカルが歌い出す。

彼独特の歌い方で、歌っているのに叫び、ステージの上から観客に語り掛ける。

青とピンクと無色の光に包まれ、彼の金髪とのコントラストが美しい。

傍らで流れ続けるキーボードは、彼がどんな声で曲に魂を吹き込んでいようと透き通った音を保ち続け、歌い声、叫び声、語り掛ける声、これらすべてと共鳴し雅姫を惹きつける。

キーボードと同様に流れ続けるベースが足元からうねりあがり、魂と声と音と観客と空気を、そしてライブハウスを包み込み、観客の熱気でさえも音楽の一部にしてしまう。

 

やはり、今日は図書館に行くことにしよう。

雅姫には、勉強の他にも、もうひとつ目的がある。

 

コンクリートの建物に入ると、空気がひんやりと土のように冷えていた。

腕まくりしていたシャツの袖を直して、空いている席を探す。
かなりの席が埋まっている。

3人がけの長テーブルが並ぶ中、教科書やらノートやらをたくさん広げて、隣の席まで占領している人の向こう側が空いている。

雅姫は学生っぽいその人に、「ココいいですか?」と一声掛けてから座った。

 

まずは、歴史だ。今回のテスト範囲の歴史の流れは、すでに掴んでいる。

しかし、まだ憶えてはいない。

雅姫は何度も繰り返さないと憶えられないが、歴史はなんとか勉強すれば良い点数は取れる。
点数が欲しい雅姫がこの教科に食いつかないわけがない。

何度も書いて憶えたり、一問一答形式にしてみたり、教科書の文章を歯抜きにしてみたりと憶えていった。

 

ある程度憶えたところで、雅姫は、今日のもうひとつの目的に取り掛かることにした。

 

雅姫は下の階にある書庫に向かった。

窓がなく、ぎっしりと並べられた本たちが天井まで続いている。ところどころに梯子があり、それを使って上の方の本に手を伸ばす。以前から、気になっていた本があった。

雅姫がこの本を手にするのは初めてである。

 

この本の存在を知ったのは、今年の夏休みに入って暫くしてからだった。

その日も、自習室に来て今日のように気分転換で図書館内をうろうろしていた。

返却されて元ある場所に戻すまでの、一時的に置かれる棚にその本はあった。

真っ白いカバーが少し黄色身を帯びているので、だいぶ昔の本に見える。
ドラキュラが眠っていそうな棺おけがふたつ並ぶ間に、「完全自殺マニュアル」と書かれている。

白と黒の二色のその表紙は、題名とは裏腹におしゃれで雅姫の目を引いた。

しかし、その日はその本を手に取ることはなかった。

ただ、(すごい本があるんだな)と雅姫の記憶には表紙の画像とともにしっかりと焼きついた。

 

それから、図書館に何回も来ているが、その本を目にすることはなかった。

病気や治療、カウンセリングなど、どの分野にカテゴライズされているのか見当も付かず、ただ何十冊もの本の題名を目にするだけでいつも終わっていた。

あまりにも見つからないので、図書館の係りの人に尋ねてみたくなったが、題名が題名だけに出来なかった。

そうして、しばらくそのままになっていたが、家でパソコンをいじっている時に、ふと、この本を検索することを思いついた。

どこの出版社から出され、誰が書いたのかが分かれば図書館で見つけられるかもしれない。

 

虫メガネをクリックする。

あった。
こんなタイトルだろうとお構いなく、あっさりと出てくる。

 

「完全自殺マニュアル」 著者 鶴見済

初版発行 1993年

 

とある。雅姫にとってはだいぶ昔の本だ。

ネットの情報によると、ただただ自殺の方法が客観的に書かれ、その時の若者に大ブームとなったらしい。

雅姫は、それを知って少しほっとした。
雅姫だけがこの本に惹かれたわけではないようだ。

本に書かれている内容も分かったので、著者と出版社をノートの隅にメモしてパソコンのページを閉じた。

そして、検索履歴を削除すべく、検索履歴の削除方法を検索して、一時間以内の履歴を削除する方法をメモした。
ネットは雅姫の知りたいことをピンポイントで教えてくれる。すべて削除すると、削除したことがばれてしまうと考えるのは、雅姫もみんなも一緒のようだ。

これで、一時間以内の検索履歴は削除できた。

暫くして、図書館にも検索用のパソコンがあったことを思い出した。今まで何度も利用してきたのに、不思議なことに、今回は全く思い付かなかった。

 

そして、ようやく、今、ここにたどり着いたのだ。

 

本は、情報どおり、淡々と自殺の方法が記されていた。

雅姫は、この本の「はじめに」のところを何度も読んだ。

著者のこの本に対する意気込みというか、この本の位置づけらしいことが書いてある。
自殺が良いとも悪いとも結論づけていない。ただ、生きていくのがつらい世の中での自殺に対して、客観的に向き合っている。

雅姫は今、死に憧れてはいないし、死にたいほどつらい状況だとも思っていない。

しかし、“自殺はいけない”と言われるとどこかモヤモヤとしてしまう。

正直なところ、“他人には自殺してほしくないが、自分には自殺という手段は残しておきたい”と思った。

また、他人に自殺されたくないのは、死なれると悲しいだけではなかった。

その人を自殺する状況にまで追い込んでしまったという罪悪感を、雅姫は背負いたくないし、背負えないと思えたのだった。

 

雅姫は、元の場所に本を戻した。

 

が、一旦下りたはしごを再び上り、さきほどの本の最後のページを開く。

昔使われていた貸出しカードが、そのまま残っている。
記録は、裏面にまで記されている。

もう、みんなの記憶からは忘れ去られてしまったのだろうか。
こんなところに置いてあっては、この本を目指してここに来なければ手に取れない。

(8月3日に返却した人、いま、どうしてるんかな・・・)

 

 *


その日の夜も、いつものようにインターネットポップロックバンドの曲を聴いていた。

独特の音階で、不安を掻き立てる音と、美しいメロディーが絡み合う。

ヴォーカルの叫びは、押入れの中から別世界の様子を窺う、雅姫の日常の様だ。

ストレートな歌声は、喉まで出掛かった雅姫の思いを、高らかに宣言してくれているかのように聴こえる。

ときおり、神様にまるで「助けて」と祈り、求めるような歌声が優しく切なくかすれていく。
雅姫の日常が、音となって、音楽として耳に届いてくる。

心に、脳に染み渡り心地良かった。

 

ところが、珍しく違う音が雅姫に浮かんできて、パソコンの音が徐々に遠くになっていく。

神様に届きそうなアメイジンググレイスのメロディーに、いつかのチャペルコンサートの音が重なる。

そう言えば、昔、その日にあったことや思ったことを、雅姫はこの曲に込めて神様に話し掛けていた。

そうすることで、その気持ちは神様が吸い取り、目が覚めたときにはまた新しい一日を送れる気になっていた。

 

しかし、今日は少し違う。

 

神様に聞きたくなった。

 

あの本のせいだろうか。

漠然としていた“死”が、雅姫の手にあった。

他人事のようだが、雅姫にも存在している。
そして、本は客観的にそれがどんなものなのかを雅姫に想像させ、示してくれていた。

死につながる病気もしていなければ、事故に遭ったこともない。
そんな人間にとっても“死”は存在する。
生きている限り、どんな人間にも、どんな日常にも。

そして、そっと寄り添い、いつも手の中にあり、待っている。

 

(神様、“死”ってそういうものだよね?)

 

そう問い掛けた。

 



ようやくテストが終わり、雅姫は早く演奏したくてウズウズしていた。

楽器と譜面台を持って、いつも活動している特活室から舞台へ移動する。
今から舞台の上で演奏するのだ。

椅子の位置、楽器の位置、音の響き具合などの調整をする。

雅姫のフルートは指揮者のすぐ左手前、最前列である。

そして、同じ並びにクラリネット。次の列にはサックスとホルンが並び、その後ろの列がトランペットとトロンボーン、ユーフォニウム、チューバ、コントラバスとなり、指揮者を中心に扇状に並んでいく。

舞台は横幅はあるが、奥行きが教室より少し狭い。

普段は一番最後部に位置するパーカッションたちが扇状にせり出してきている。
いつもはそんなところにいない木琴が雅姫のすぐ後ろ脇にいる。

まず、いつもの音出しから。

シーシードードーレーレーミーファーファーソーソーラーシー、

シーラーソーソーファーファーミーミーレーレードーシーシー

久しぶりのせいだろう、みんな音が出切っていない。

速いテンポでもう一回

シ、シ、ド、ド、レ、ミ、ミ、ファ、ファ、ソ、ソ、ラ、シ

シ、ラ、ソ、ソ、ファ、ファ、ミ、ミ、レ、レ、ド、シ、シ

上がって、下がる。

さらに速いテンポでもう一回・・・

 

そしてジブリから。万人受けする上品な曲。

だいぶ勘も戻り、音が生き生きとしてきた。

次は特別なボブ・ディラン。

ボブ・ディランの曲ではあるが、最早そうではない。
雅姫たちの“ライク・ア・ローリングストーン”である。

立ち上がるスペースはあるだろうか。

さすが、サックスやトランペットは良く映える。

さらに、こういう曲でグッと良さが引き立つのはトロンボーンである。
前後にスライドを動かすことで、管の長さ自体を変化させて音の高さを変えるコミカルな演出や、わざと割れた音を出して盛り上げ、その芸達者振りは一段と際立つ。

しかし、こうも狭い場所での派手なアクションはリスクを伴う。
案の定、前列の奏者や椅子にぶつかりそうになる。

今日の練習の一番の重要ポイントはそこかもしれない。

そして、最後の一曲。
合唱曲として有名なこの曲の、歌詞に込められたメッセージに思いを巡らせつつ、大切に音を送り出した。

 

ひと通り終え、先生の細かい指示を踏まえて数回繰り返した。

 

練習後は、先ほど運んだばかりの楽器たちをまた運ぶ。大移動だ。

楽器の小さい雅姫たちはパーカッションの手伝いをする。
雅姫は美月にフルートを託し、鉄琴を運ぶのを手伝う。

先生が、当日の舞台照明担当の先生と生徒を集めてなにやら紙に書いて説明していた。

雅姫はワクワクした。
真っ暗な体育館で、金色や銀色に輝く楽器たちの音楽を楽しむ姿が、頭の中に広がった。

 

     *


トーストしたてのパンにマーガリンをのせる。

今日は、1時限目からテストの結果がひとつずつ返ってくる。

まずまずの成果だとは思うが、雅姫はうっかり大きな間違いをしているかもしれないと心配である。

しかも、この時期から受験勉強に頑張りだす生徒も多いため、今まで通りの点数なら学年順位は確実に落ちてしまうので気が抜けない。

雅姫の住んでいる地域の公立高校での受験は、通知表の点数の占める割合が大きいので、定期テストでしっかり上位に食い込んで点数アップを図りたいのだ。

溶けたマーガリンがたっぷり浸み込んだトーストを頬張る。

(どっか高校あるかな・・・)

まず、成績はそこそこのところがいい。普通以上のところ。
母の勧めるところは選択肢には上がっていない。
同じ中学校から行く人がいないところ、電車でしか通えないところ、住んでいるところよりも都会なところ。
そして、母にがっかりされない学校・・・。

母が通っていた高校は今の雅姫には難しい。
雅姫の、中の上、上の下という成績を考えると、無難な中堅高校に行って、上位をとって大学の推薦を狙うという手もあるらしいが、雅姫は出来るだけ成績上位の学校へ、今、行きたい。

雅姫の通う中学校からほど近くに、滑り止めにちょうど良さそうな中堅の高校がふたつあるが、そこは選択肢の候補には入れられない。

なぜなら、そこへは同級生の三分の一ほどが進学する。
今は誰も何も言わないが、雅姫の小学生時代を知っている者も多い。

そしてなにより、電車で通学したい。
中途半端な距離だと自転車で通うことになるので、自転車では通えない遠いところへ行きたい。

甘いコーヒーを半分、一気に飲んだ雅姫は、パンを食べ終え洗面所に向かった。

電車で通いたいのは、お気に入りのインターネットポップロックバンドのプロモーションビデオの、電車に乗っている風景に憧れているからである。

もとより、雅姫は駅で行きかう人々の流れを見るのが好きでもある。
ブラスバンド部に入部してすぐから今年の夏前まで、ピアノ教室を辞めフルートの教室に電車で通っていたが、その時も、それぞれがバラバラなところでそれぞれのことをしていたにも関わらず、駅という一ヶ所を経由してまたそれぞれのところに散っていく、という光景を駅のベンチからよく眺めていた。

そんなことを考えながら身支度を整えると、いつもの天気予報を見ながら残っていたコーヒーを飲み干し、スマホをスクロールする母の後頭部に「いってきまぁす」と声を掛けて、家を出た。

 

「おう」
大翔もちょうど家から出てきたところだった。

テストと志望校のことで頭がいっぱいだった雅姫に現実が戻ってきた。

「おはよう」

「なー、昨日の夜さー、母ちゃんが変なこと言い出してさー」
いきなり。
大翔が、珍しい。

「へー、なんて?」

「・・・音大に行ったら?って」

「あ、まじ?・・・そうきた?」
大翔がピアノを再び弾くようになって、お母さんは考え直したのか。

「だろ? 全く考えもしなかっただろ?」

かったるそうな大翔とは反対に、雅姫のテンションはみるみる上がっていく。

「確かに! いい! お母さん、いいじゃん!」

「まぁな」

「え、行くの? ピアノ? もっかい習うの?」

「だよな。分かんない。まだ、なんも」
赤い頭をぐりぐり搔きむしっている。

「いいじゃん! 大翔、やんなよ。私、大翔の音楽好きだもん。やってよ」

「だからさ、まずは高校に行かなきゃいけないから、先生に相談して来いってさ・・・」

「あ・・・。そこ?」
思わず大翔の顔を見る。

「はい・・・」
大翔は音大を目指すのを躊躇しているのではなかった。

「まぁ・・・、そだね」

今までさんざん高校には行かないと突っ張っていただけに、大翔の気持ちは分からんでもない。

「あーーー・・・」
頭を抱え、髪の毛をにぎにぎしながら引っ張る。赤い髪が太陽の光に透けている。

大翔は本来、正統派のクラシックが好きだ。
今でこそバンド音楽にハマってはいるが、結局はピアノが好きだし、音楽のこととなると知識を深めることにも貪欲だ。

「・・・」ボフッ。
雅姫は、大翔の脇腹に無言で喝を入れた。

そして、両方のほっぺを膨らませてファイティングポーズをとる。
(頑張って!)
拳を見せつける。力強く。

「おおうっっっ」
ガラ空きだった脇腹への不意打ちに悶えつつも、大翔も負けじとファイティングポーズをとった。

ボサボサ頭でノックアウト寸前のボクサーみたいな姿に吹き出しそうになるのを抑えて、雅姫は「じゃね」と学校に着く手前の垣根のぽっかり空いた穴に消えていった。

「おう!」
すでに心を決めていた大翔は、根元が黒くなった頭をかきむしりながら、報告すべく生活指導の先生の待つ正門に向かっていった。

 

 

学級委員の号令のもと朝の挨拶が済むと、テスト返却にあたり希望高校について担任教師が話し始めた。

そうだ。雅姫は、大学に行ってちゃんとした仕事に就きたい。

何の仕事に就きたいのかはまだ全然分からない。想像がついていない。

だが、それによって大学で何を学ぶのかも変わってくるだろうし、反対に、何を学びたいかで仕事も変わってくるだろう。

そのためにも、母が勧める家政科では物足りない。

今は、自分の将来のために出来るだけ多くの選択肢が得られる道に進みたい。

 

担任が教室から出て行くと、ほどなくして一時間目の数学の先生が入ってきて、挨拶もそこそこに先生はテストの返却を始めた。
緊張の時間である。
1人ずつ、喜んだり、がっかりしたり、平静を装ったりと様々な反応でテストを受け取っていく。

雅姫は平静を装いつつ期待と少しの不安のなか自分のテストを受け取った。点数に目をやる。

87点。まあまあである。

雅姫がまあまあだと思うということは、良い方の予想通りの点数だということだ。

だいたい、学校の定期テストの数学で予想以上に良い点数など取ることなどない。テストが終わった時点でだいたいの想像がつき、そこから何点下がっていくかしかない。
そう考えると、良い方の点数だったことに雅姫は満足である。

あとは、平均点だ。雅姫は、平均点から20点高い点数を常々最低目標とし、30点上あると嬉しく思う。

雅姫の通う学校の定期テストの平均点はおおよそ60点前後を想定してつくられているので、おおよそ80点が最低目標、90点以上だと喜ばしい点数となる。

先生からの総評のあとは、解き直しである。が、雅姫はもともと間違えたであろう問題はテスト当日のうちに解き直しをして、既に、どこをどう間違えたかも解決済みだった。

担任が教室を出て行ってすぐに、雅姫は教室の隅に置かれている志望校選定用高等学校案内という、学校紹介と通知表の合格基準となる目安値や偏差値が記載されている分厚い本を、自分の席に持ってきていた。

最初のうちは膝の上でパラパラしていたが、どうせ先生にバレているだろうと思い、机の上に広げてガチ読みにした。

思い当たるところはひと通り目を通し、場所がよく分からないが偏差値的に良さそうなところを数校、メモした。

よくよく見てみるといろんな学校があった。
大翔が行きそうな学校にも目を通した。
高校に行くだけが進路の選択肢ではないことも分かった。

先生の問題の解き直しが終わった。平均点は、61点。雅姫は平均点より26点上で、予想通りのまあまあさで特に嬉しくはないが、納得のいく、良い意味での無難な結果だった。

 

テストの良かった者、悪かった者、それぞれの感想を口々に、休憩時間が始まった。

雅姫も友達のところに寄って行く。
話題は、テスト期間に控えていたSNS系から次の遊びの話へと変わっていく。

昨夜は雅姫も久しぶりにライブ配信の録画をゆっくり見た。

以前はリビングにおいてあったパソコンだが、ことわざや英単語を調べたりしたいからと理由をつけて、今では雅姫の部屋に置きっぱなしになっている。

ときどき、友達のお勧めの動画なども見るようになり、以前よりは会話の内容が分かるようになった。

 

チャイムが鳴り、席に戻ると、次は国語のテストが返ってきた。こちらも悪くはないが、テストが返却されるなり飛び上がって喜んでいるクラスメイトが目に入った。どうやら100点を取ったらしい。

雅姫は、今まで100点は取ったことがない。
それに近い点数の99点なら歴史のテストで取ったことがある。
解答用紙を見るや否や、漢字の書き間違いによる減点でがっかりしたが、自分が100点なんて取れる訳ない、自分はそんな人間ではない、100点を取れる人と自分には何か大きな違いがある、99点で充分ではないか、とすぐに思い直した。
雅姫はこの先100点を取ることは一生ないだろうと思った。

それでも、どこか間が抜けていて記憶力も良くなければ理解力も応用力も人並みである雅姫が、今まで平均以上の点数を取ってきたのは、自分の努力の積み重ねの賜物であると自負していた。




暗い体育館の中、ステージの上だけが明るく照らされている。

いよいよ、明日の本番に向けて、最終練習である。

雅姫たちの意識は指揮棒に集中していた。

時折、こちらに向く照明に目がくらみそうになる。

いつものように指揮棒が軽快に踊りだす。

雅姫はすぐにコントラバスの音に包まれた。
クラリネットと一緒にメロディーを歌い、サックスのメロディーに合いの手を入れ、トランペットのメロディーに戯れ囀った。

ひと際明るいステージから、キラキラと輝く楽器たちが生み出す音たちが、暗い会場へ舞うように流れていく。

そして、音と一体となったスポットライトの光が一点に集中する。

ひとつ。
またひとつ。
生み出された音は、全身の細胞を震わせ、その存在を知らしめる。
雅姫たちの“ライク・ア・ローリングストーン”。

共に音楽を奏でる仲間への賞賛と感謝。

目のくらみそうな明るさの中、流れるテンポに会場も揺れている。

演奏者も楽器もここぞとばかりに飛び切りの音で溢れ、楽器たちは音だけでなく触れる全てのものを音楽にした。

ずっと待ち望んでいた光景が現実となり、その夢のような時間に、雅姫は、ただただどっぷり浸かった。

 

 

その日の夜、いつもより早い時間ではあったが雅姫は寝ることにした。

こないだメモした陽和高校という学校の場所を調べようとしたのだが、パソコンの前にいながらも、頭の中は昼間のキラキラと輝く場所にまだ浸かっていた。

ついつい椅子でクルクルしてしまって、全く集中できない。

地図を見て、高校の最寄り駅からの通学経路を細かく調べないといけないし、制服も見てみたかった。

それから、もし、そこがダメだった時の・・・。

検索画面から高校のホームページまで入ったものの、明日のことがチラついて全然頭に入ってこない。

雅姫は、まだ浸かっていたかった。

高校のことは、明日以降に落ち着いて調べることにし、パソコン画面を閉じた。

頭の中で、真っ暗な体育館に照らし出された音楽が心地よく流れていた。

何度繰り返されても飽きることはなかった。




いつもとは違う朝の情報番組がついている。

甘いコーヒーをゴクゴク飲み、洗面所に向かった。

いよいよ学芸会本番である。

テレビの番組がいつもと違うのは、父兄が参観できるように、土曜日に開催されるのに加え、いつもより時間が早いからである。

母は観に来るようだが、父は来ない。いつものことである。
父が子供の学校行事はもとより、仕事以外のことをしている姿を雅姫は見たことがない。

雅姫たち生徒は、いつもと同じ時間に登校し、準備がある者は準備をし、何もない者は自習のプリントをする。
午前中が生徒の観覧時間で、午後からが保護者や一般の観覧時間となる。

雅姫はストレートの前髪の毛先をゆるく横に流れるようにコテづけし、セミロングの髪も気持ち内巻きにして身支度を整えた。

残してあったコーヒーを飲み干し、いつものように母に「いってきまぁす」と声を掛けて、家を出た。

 

時間が少し早いと言うだけでこんなにも登校風景が違うのだろうか。

皆バラバラに歩いてはいるのだが、友達を見つけては合流し、おしゃべりが始まる。
その慣れた様子に、これが日常の風景だと分かる。

雅姫は、その輪に加わることを望んでいないことを周囲にアピールするかのように、いつもの“ことわざ・慣用句一覧”の冊子を広げた。


 

教室は、まだ人が少なかった。雅姫は自分の席に荷物を置いて、特活室に向かう。

すぐに楽器を取り出し、音出しを始める。

すでに音がひしめき合い、雑音となっている。

昨日の弾んだ音とは打って変わって、硬い。

朝イチというのもあるだろうが、まずは雅姫の体が硬い。
表情も硬い。
やはり、お客さんがいると思うと緊張する。

10月半ばとは言え、朝の空気が冷たくなりつつあり、楽器は周りの冷えた空気を吸い込んだように一段と冷たく、それが雅姫をさらに硬くさせてくる。

雅姫は大きく吸い込んだ息をお腹に溜めて温める。
そして、ゆっくり、温めた空気が漏れないように楽器に吹き込む。
空気を半分ほど外に逃がしながら演奏するフルートでは、これでは音は全く出ない。
指先に温まった空気が流れていくのが感じられる。

ゆっくり、もう一度。

ハンカチで楽器の口元をぬぐって、今度は音を聞くべくして息を吹き込む。体中に空気が行き渡ったことで雅姫自身も少しほぐされているのが分かる。

楽器が完全には温まりきってはいないのは指先からも感じられるが、先ほどよりいくぶん柔らかい音になった。

(とりあえずはこんなところで)
指先もほぐしておく。

 

今日は一日、出演者は団体で行動する。

午前の部が終了後、一旦、終礼のために教室へ戻る。
その後、部活の仲間とお弁当を食べ、午後の部に備える。

出番が終わった者から帰宅となる。

 

雅姫たちのブラスバンド部の出番は、校長先生の挨拶のすぐあとだ。

そろそろ体育館へ移動する時間になる。

部長の綾ちゃんが移動の指示を出す。

当日の移動が難しいパーカッションなどの楽器は、昨日の練習で使ったまま、既にステージ上にスタンバイしている。

自分よりも大きなコントラバスを抱える裕美ちゃんから弓を預かり、隣に歩く。

教室では担任が自習用のプリントを配っていた。
ところどころ空席の目立つ教室を横目に通り過ぎた。

体育館に近づくとパーカッションとテスト放送の音が聞こえてきた。

誰も座っていない客席の椅子の上にフルートと弓を置き、念のためのトイレにも行っておく。

 

ステージ上の椅子は教室の木の座面の椅子とは違い、薄いクッションが張られたパイプ椅子だ。
座り心地に違和感があったので、一番落ち着くポジションを探して座りなおす。

先生が両手を顔の前に構え、「練習は一回だけだぞ」と言うと、指揮棒が軽やかに踊り始めた。

多少バタバタして始まったような気もするが、すぐに音は重なり体育館中にスキップするように流れ出す。
万人向けではあるが、世界が広がっていくような雄大なメロディーの1曲目に続き、雅姫たちの“ライク・ア・ローリングストーン”、そして、ここにいるすべての大切な人に贈るもう1曲。

昨日より少し硬い音に、みんなの緊張が伝わってくる。

先生が、顔で「かたい、かたい。」と言っている。
指揮棒も、柔らかく、丸く、音たちを導こうと熱心である。

たいして音が変わらないまま、3曲をひと通り流して練習は終了。

そして、一旦ステージを降り、舞台脇の待機場所で生徒たちが集まってくるのを待った。

 

本番が始まった。

緞帳を背に校長先生が話をする中、雅姫はこの体育館での入学式のことを思い出していた。

合唱部が校歌を歌うにあたって、ブラスバンド部が演奏していた。

雅姫は、大翔と話をしなくなって、近所の高校のチャペルコンサートで聴いたいろいろな楽器の音のことなどをすっかり忘れていた。

とは言え、音楽から離れていたわけではない。

誰と時間を共有するでもなく続いていた毎日の中で、ピアノは常に共にいた。

その日にあったことや思ったことをピアノに話し掛け、弾いた。
その間は誰かを気にすることもなく、雅姫は自由だった。

そんな日常の中で、久しぶりに聞いたブラスバンド部の演奏は、チャペルコンサートの演奏には技術的に全く及びもしなかったが、雅姫の暗くて寂しい毎日をパッと明るく照らしてくれた。

久しぶりに心が踊って、自然と笑顔になっている気がした。

その瞬間、雅姫はブラスバンド部に入部することを決めたのだ。

 

校長先生の話も終わり、舞台にあがる。

緞帳の中はとても明るい。

椅子の位置と座り加減を微調整し、お腹に思い切り息を吸い込む。
お腹の下のほうにグッと力を溜めて、音は出ないように、温めた空気をゆっくりと楽器に送り込む。大切に。

放送部のアナウンスと共に緞帳が上がっていく。

スポットライトが眩しい。

いつもの指揮棒が、パーカッションに位置調整の合図を送る。

会場はまだざわついている。でもだいじょうぶ。

先生が顔の前に両手を構える。

白い指揮棒の先が、いつもと同じ、軽やかに踊り出す。

一斉に、導き出された音たちが体育館中に舞い広がり、大自然のような懐の深いテンポで雄大な曲の世界に観客を誘う。

柔らかに、丸く、指揮棒に導かれる。

コントラバスが、低く、深く、仲間と雅姫と先生と指揮棒を包み込む。

光を纏った音たちが、舞台から流れ落ち、這うように床を伝わり、観客みんなへ、窓へ、壁へ、そして会場を埋め尽くす。
その場に漂う空気まるごと包み込んでいた。

 

 

キラキラと輝く時間はあっという間に終わり、それこそ、雅姫のブラスバンド部生活も一瞬だったように思える。

中学生になって、ブラスバンド部に入って、学校へ行くのが楽しくなった。学校へ行く目的が出来た。

学芸会は無事に終わり、先生のスペシャルアレンジも照明効果と相まって最強にかっこよかったはずだ。

3曲目の合唱曲は口ずさむ声が聞こえてくるようで、体育館中がひとつになっていたようだった。

実際は、客席からどう見えたのかは分からないし、会場の声は雅姫には届いていない。

しかし、演奏後の体育館の空気が、大翔と一緒に行ったチャペルコンサートと同じだったのを、雅姫はしっかりと感じた。

緊張もしたが、前日のリハーサルとはまた一味違って、ゾクゾクとした楽しさだった。

雅姫はこんな音楽との向き合い方って、なんて素敵なんだろうと思っていた。

 

楽器や椅子の片付けをしながら、充実した満足感と、ブラスバンドと出会えたことへの感謝と、隣に仲間がいることに安堵していた。

明日からのことはひとまず考えず、まだしばらくはこのままこの余韻に浸っていようと雅姫は思っていた。

体育館の片付けが終わったら、次は、楽器室の片付けがある。

特活室や楽器室は明日からも後輩たちが使い続けるが、今までの感謝の気持ちを込めて、引退する3年生で大掃除するのが毎年恒例になっている。

 

大掃除の前に、先生から今日の総括の言葉と、引退していく3年生へのはなむけの言葉があった。

雅姫は自分がここにいることがとても誇らしかった。

入学式の時に雅姫を照らしてくれた明かりが、ひと際明るく温かくなって雅姫の胸の中で輝いている。

たとえこの場所で共に音楽をすることがもう無いとしても、この輝きを大切に持ち続けてもいいんだと思うと、喉の奥がキィンとなった。

(嬉しい時でも喉って痛いんだな)
我慢するのも悪くなかった。

(ウサギのマスコット・・・)
なんとなく、胸に浮かんできた。

自分を優しい気持ちで見つめることなど、今までの雅姫にはなかった。

しかし、同時に、雅姫の脳裏に、祖父母との記憶も浮かんできた。

「この子もお願いします」「雅姫も行くか?」

母に可愛くしてもらって、嬉しかった気持ちはぷつんと途切れてしぼんでいった。

(わたしなんかがいていいのだろうか?)

先生の言うみんなのその中に、雅姫は含まれているだろうか・・・

 

みんなのキラキラの中に、雅姫はいるのだろうか・・・

 

 

話は終わり、それぞれがお世話になっていた箇所の掃除を始める。雅姫は揺らぐ気持ちのまま、ぞうきんを濡らして楽器室へ向かった。

すると、

「きーちゃん、ここ拭いてー」

笑顔の美月が後輩の荷物を持ち上げながら、いつもより潤んでいるように見える目で待っている。

(あ・・・、だいじょうぶ)
ウサギのマスコットが雅姫の胸の中で揺れた。

穏やかに、ほっこり温かい。

「ハイよ」

雅姫は、美月の顔を見ながら、ゴシゴシと拭いた。

自分がいつもフルートを置いていた棚も、丁寧に拭いた。

「よーし、ココも」

次から次へと、後輩のフルートをどかすように美月に催促しながら、ゴシゴシ、ゴシゴシと念入りに。
扉まで全部、喉がキィンとするのを噛み締めつつ、丁寧に拭いた。




天井までびっしりとつまった本棚の間を、雅姫はところどころ、本の背を指でなぞりながら進んだ。

いろんな本があるんだな、と思いながら梯子を使ってお目当ての本に指を掛ける。

前回ここに来た時は少し戸惑いがあったのか、周りの本など全く目に入っていなかった。
ぴったりと隣に並んでいる本は、雑学の本だろうか。

そうだ、これも小説の本でもないし雑学になるのかもしれない・・・と、モノトーンのおしゃれな表紙のその本を手に取った。

 

テストも終わり、部活も引退し、学芸会の代休でせっかく学校が休みとなっても何もすることがない雅姫は、図書館に来ていた。
今日はゆっくりと本が読める。

日頃、本など自分からすすんで読まない雅姫だが、今はワクワクしている。

まるで、テレビで、楽しみにしていた映画のオープニングを見るようだ。

まだ一度しか読んでいない、いやあの時は何度も読み返したあの「はじめに」の部分だが、ゆっくりと嚙み砕かれ、雅姫の一部になろうとしつつある。

その傍ら、そうなる前にこの本の持つ本当の意味を間違えて理解してはいけない、とも思っていた。

誤解してはいないだろうか、自分に都合の良いように頭の中で勝手に書き換えていないだろうか、確かめたい。

 

前回ある程度読み込んだと思える文章でも、時間を空けて読んでみると、この前は気付かなかったところに出会う。

(うん、よし・・・)まるで、大好きなメロディーが流れるように、言葉はスムーズに入ってくる。

勝手に書き換えてはいない。

それより、思っていたよりももう少し深かった。
雅姫はふわふわした気分のまま読んで言葉をなぞるだけにならないように、頭の中に著者の言葉をしっかりと送り込んだ。

 

今日は、この前ぱらぱらとめくっただけだったメインにも取り掛かる。

目次を見ると、手段別になっている。薬、首吊り、飛び込み、溺死、ガス・・・、どれから読んでもよさそうである。

とりあえず、目次通り、順番に読んでいく。

手段と結果。
それぞれの死亡例と失敗例。
客観的に淡々と書かれている。

雅姫の頭に淡々と事実として蓄積されていく。
数値のデータや図解もあって分かりやすく、科学的根拠も理解できた。

もし、本気で自殺を考えているならこの中からどれかを選んで、真似をすればよい。

 

梯子にもたれながら読んでいると、誰かが近づいてくる気配がした。

雅姫は慌てて本の表紙を見られないように、本を床と水平にして、気配の方向にお尻を向けた。

台車の音だ。図書館員が返却された本を元の場所に戻しに来ている。

ふと現実に戻った。

(私、怪しいな)ここで本の題名でも見られたものなら、確実に勘違いされる。

慌てて梯子を上り、お気に入りの本を元の場所に戻す。と、ちょうど台車を押した図書館員が雅姫のいる通路の脇を通った。

雅姫は、ゆっくりと今戻した本の隣の隣にあった古そうな長編小説を手に取り、梯子を降りた。

「お探しの本は見つかりましたか?」丁寧に声を掛けてくれる。

「はい、ありました」
雅姫は手にした本の背表紙をそのおばさんに向けた。

「あら、その本、昔の本だけど面白いわよ」
にっこりと教えてくれる。

「そうですか、楽しみです」
適当に返事をしてその場を離れた。

じんわり、汗が滲んでいた。

せっかくなので、その本を借りて帰ることにした。

 

本当は、もう少しあの本が読みたかった。

 



いつもの天気予報を聞きつつコーヒーを飲み干すと、雅姫は「いってきまぁす」と声を掛けて家を出た。

「おう、お前遅いな」
壁にもたれて携帯をいじっている大翔がこちらを向いていた。

なんとなく突き刺さる。

「お⁉ おう、おはよう。 どしたん?」

「べつに! こないだのアレ、かっこよかったなぁ」

空気に緊張が走る。矛先が雅姫に向いている。

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