私たち「市民」は、この社会とどう向き合うか? (前篇) ~ SDGs・探究への招待 #063 ~
コロナ禍も、世間の空気としてはひと頃に比べると落ち着いたように見えます。けれど本当は何も解決されていないし、良い方向に向かっているわけではありません。
コロナ禍について、政府、地方自治体、業界、地域、家庭、個人と、それぞれの立場から為される「経済」と「安全」のトレードオフの議論はやみそうにありませんし、やめてはなりません。議論百出。それは当然のことなんであって、このコロナ禍の中で、それぞれの立場ごとにさまざまな考えがあって、それらはどれも真摯に耳を傾けるべき意見であり、また、正しく、切迫しており、その是非を問うなどのことはできません。
8月のことですから少し前の話になります。もう40年以上会っていない幼馴染みの方が、SNS上で、
「この写真は町一番の繁華街の今の様子です」と、人の姿がすっかり絶えた町の写真を数枚アップしていました。
そして続く文章は、
「開けても閉めても地獄。
それならば…」
と書いてあり、
「お客様から笑いながら『命がけで会いに来たよ』と言われ、思わず涙が出てしまいました」
と続いていました。
この方は、地方の繁華街でバーを女手ひとつで切り盛りしています。これまでのその方の投稿でも、フランスのソムリエやジャーナリストたちが訪れて、ワインと焼酎を通して交流会を催している様子が載っていたりしました。
この方のお店の経営・活動は、単なる飲食の提供にとどまらず、新しい飲食の文化を創造しつつあるんだと思って、きっと将来的には地方創生の一翼を担うことにつながるお店だと確信しながら記事を読んでいました。
それだけに今回の記事で生々しく語られる逼迫している様子や、生まれ育った故郷の、小学校への通い慣れた通りの閑散とした光景に大変なショックを受けました。
けれど同時に、「経済(生活)」と「安全」が二項対立的に拮抗する中で、もう一項、「笑いながら『命がけで会いに来た』」市民の方がいたというこの話は、ポストコロナ社会実現へのヒントがあるように思いました。
コロナ禍での議論のしづらさは、実にこれが命をいかに担保するかという問題に直結していることが原因だと思います。どんな議論も「命」「安全」を持ち出すと途端にみんなそれ以上意見を言えなくなり、それまでの議論は全て無効になります。命を守る以上のことはないからです。それは全く正しい、言ってみれば「絶対正義」なのですが、議論を重ねることが今ほど必要なときもないにもかかわらず、議論できない原因が、議論すべき当の「命」となっていることもまた確かでなのです。
「経済なんかよりも命が優先だ」と言います。「経済もまた生活に直結していて命の問題なんだ」と反論します。お互いに「命の問題」を根拠に主張します。永遠に平行線のままです。
そんな中、先ほどの投稿で、お客さんが「命がけで」お店に飲食しに来たのです。おそらくはこの方は後ろめたい思いもあったと思います。また、不謹慎の謗(そし)りを逃れないのかもしれません。それこそ自粛警察という実態のない烏合の衆から言わせればほぼ犯罪者扱いになるのでしょう。
私がこのお客さんの行動に見るのは、「自己責任」とか「モラル」とか「是か非か」といったことではありません。
このお客さんは「命がけで」守ったんだと思います。
何を?
お店の経営に寄与はしていますが、売り上げの全体の減少からすれば焼け石に水でしょうからお店を守ったとは言うにはあまりにもささやかすぎるでしょう。
では何を?
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