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ひよこクラブVol.20 ひよこ先生たちは、名演技者たれ(後篇)

 浅田彰の本で『構造と力』という、大傑作があります。もちろん小説ではありません。構造主義、記号論の論文です。
 その中で「二つの教室」という話があります。

 A、Bという二つの教室で生徒たちは自習している。A教室は先生が教卓の前に座って目を光らしている。一方B教室は先生が生徒たちの背後に陣取っている。
 一見、A教室は先生が厳しく管理していて、生徒たちも緊張している。B教室は先生の姿が見えないから生徒たちはノンストレスでのびのびと過ごせる。
 でも、そのうちA教室では生徒たちは先生の隙を見つけて、隠れて遊び始めるようになる。そしてB教室では生徒たちが緊張し始める。なぜならどこに先生がいるのかわからないから。いつ背後から先生の叱声が飛んでくるかわかならない。だから生徒たちは気を抜けない。そしてそのうち、他の生徒がサボっていないかどうか監視し始める。最終的に先生の視線を自己自身に取り込んでしまって、生徒同士で監視し始める。

 環境が人の行動に影響を与え、管理者(監視者)の視線をわざと不在にすることで、管理される側が自らの行動を制限してしまう、というお話しです。ちょうどミシェルフーコー『監獄の誕生』で、理想的な(最も低コストの)監獄のデザイン、パノプティコンを例に、社会システムのあり方を論じたものを、教室に置き換えたものです。

 まあ、権力が巧妙な形で市民を支配していく一形態とも言えますが、学校の先生たちは(私も含めて)、Bのような状態になったクラスを
「いやあ、生徒たちが主体的に自学自習に取り組んでいますわい」
と、喜ぶわけで、その限りにおいて学校の先生というのは、おめでたいか、または所詮権力の末端としての装置に過ぎないとも言え、とても示唆に富んだ指摘です。

 さて、ここでひよこ先生方にお伝えしたいことは、

生徒にとっては、先生と視線が交差するだけでコミュニケーションになるし、わかりやすい方が、渉(わた)りあう術を身につける機会になる

ということです。
 表情も読み取れず、機嫌がいいか悪いかもわからない「難解な先生」ではいけません。

 実際、中学校や高校を卒業して、しばらく経って先生と再会したときなどに、「実はあのころ、巨人が負けたらわざと不機嫌なふりをしていたんだ」といったような「演技」の事実を聞いたことはありませんか? もしかすると、最近の先生方は「演技」なんかしない、できない人が多いかもしれません。そうした意味では、かつての先生方は「名演技」ができる人たちばかりでした。

 喜怒哀楽をオーバー気味に見せることで、生徒からわかりやすくしておくことはとても大切です。「何を考えているかわからない先生」は、たとえ先生にしてみたら意図があって叱ったときでも、生徒は「突然キレた」としか思いません。意図が伝わらなかったらそれはどういう内容であっても、教育にはなりません。 

 ひよこ先生方は、緩急を心得た、緊張と遊びとを自在に生徒に学ばせるように、ぜひ「名演技」ができる先生になってください。

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