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ワイルドサイドを行け #1

 ロックとポップスの決定的な違いは、かっこよく言えば、毒があるか否か、アンチであるか否か、怒りがあるか否か、という点だと思うわけです。もっとよく言えば、少年たちの永遠の夢の世界を体現しているのがロックかと思います。
 ですから、例えば「大人のロック」なんていうフレーズもありますが、「大人」だとか「親」だとか、「世間」「社会」「会社」「先生」「学校」「警察」「政府」「国家」「法律」といった、大小を問わずあらゆる権力装置や秩序、システムに対するアンチテーゼがロックのテーゼなのですから、「大人の」という枕詞は矛盾しています。まあ要するに所詮ロックなんて厨二病をこじらせた音楽なんですね。

「少年たちの永遠の夢の世界? は? なにそれ? 厨二病の間違いだろ? こじらせてるだけだろ?」

といった「大人の」方々のご意見はまさに正鵠を射たものだと思います。

 おしゃれでさわやかで、時には裏声みたいな電子音で歌いさえするポップスに対して、ロックはむだにうるさく暑苦しく生々しいものが目立ちます。
 こじらせについてですけれども、例えばあるミュージシャンの方なんかは、大人や学校や先生にたてつく歌をひたすら歌っていました。いったいこの教祖様は自分が大人になったら何を歌うんだろう、まさか
「真実ってなんなんだよぅ、教えてくれよぉ、大人の自分~っ」
とか歌うのかなと思っていたら、大人になる前に死んでしまいました。
 ジミヘン然り、シド・ヴィシャス然り、ジム・モリソン然りで、早すぎる死というのは、カリスマをカミサマにしてしまいます。まさに昇天とはこのことでしょう。この方も、カミサマに祀り上げられました。信者様がかなりいらっしゃるため、あまり話題にすると大切に乗っているバイクを盗まれたり窓ガラスを割られたりするかもしれません。

 厨二病といえば、かつて若者たちの代弁者として一世を風靡したブルーハーツも、大人にたてつく歌を歌っていました。彼らの場合は大人になるころに解散しました。死ななかったのは立派です。死にきれなかったのも立派です。
 死にそびれて生き延びてしまったジャパニーズパンクス、甲本ヒロトは、ギターの真島と共に↑THE HIGH-LOWS↓を結成し、現在はクロマニヨンズですが、以前のようなトンガッった歌は歌わなくなりました。パンクではなくなったのです。永遠の少年ではあっても厨二病ではなくなったのです。昔と変わらないところといえば、ピストルズシド・ヴィシャス『マイウエイ』を歌ったときの完全コピーのような、ジャンキーのような、唇を歪めて飛んだり跳ねたり与太ったりするヒロトの歌いっぷりです。どのように変わっていっても全てを受け容れ、好きでいつづけるのがファンというものですよね。

 さて、今回はこのようにロックのアイデンティティを厨二病または「こじらせ」であると措定して述べさせていただいているわけですが、既存のシステムに対するアンチテーゼは、ロックだけでなく文学にも見られます。

 厨二病文学、いや、ロックな文学だなあと思う典型の作品としてはやはり村上龍『愛と幻想のファシズム』『コインロッカーベイビーズ』です。
 もちろんサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の方が有名なんですけどね、これを出すとあまたのこだわりのこじらせどもが黙っちゃいないでしょうから村上龍あたりが穏当かと思いまして挙げさせてもらいました。まあ穏当とは言っても『愛と幻想のファシズム』なんかは

「システムを破壊した者は自らがシステムにならざるを得ない」

という現実までえぐっている点がよほど過激でありせつないんですけどね。つまり、少年が大人になる成長譚として読み取ることもできるのだと。

次回につづきます。


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