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SDGs探究講座 「童 夢」 4時間目 ~ SDGs・探究への招待 #042 ~

4 【私たちが学びとれること】

《Ⅰ 世界のしくみについて》

 「囚人のジレンマ」から得られる事柄は次の通りです。
    即ち、客観的に見ると選択肢①、互いに守りあうことが一番良い判断だ、とだれもがわかっていても、現実には選択肢③、ほぼ確実に裏切りあう。
 だれもが「平和」を望みつつ、軍拡し続ける世界。ナショナリストたち(=A)はよく「隣国(=B)が軍拡して脅威の度合いが増したから、国家間の緊張が増した! 自国の平和を脅かしつつある! 自国を守るために我が国も武装を強化する!」と言います。あるいは、平和主義者たち(=A)はよく「他国(=B)と信用しあっていないから戦争の危機が高まる。お互いに信じあえば平和が来る!」と言います。

 でも、ゲーム理論を当てはめると、実はそうではないことがわかります。B国の脅威が増そうが軍隊を放棄しようが、互いを信用しようがするまいが、つまり、相手がどうであろうと、「私」は相手を裏切るんです。ちなみに、ナショナリストと平和主義者の主張は真逆でありながら、本質的には全く同じです。「互いに信じあえば……」と条件付けする平和主義者たちの主張には、「でも僕たちはBのことを信じているのに、Bが僕たちを信じてくれないんだもん」という本主張が必ず言外に含まれます。そのあとに続くセリフは、「だから僕らが武装するのもしかたがない」か、「だから平和じゃないのはBのせい」です。言いわけがましい分だけナショナリストよりたちが悪い。臆病なナショナリストの言っていることが真っ赤なウソであるのと同様に、お花畑の平和主義者たちが言っていることも偽善です。

 世界はなぜ平和になりきれないのか、なぜ「せぇ~の!」で武装解除できないのか……。

 なぜ私たちは選択肢①を選べないんでしょうか? なぜこのような愚行に走るんでしょうか?
 それは、全体を俯瞰しないで、自分たちの利益のみを追求しているからです。1つのスタンスに拠っている限り、互いに裏切りあうという結末を迎えます。愚かでしょ? ああ、そうそう、裏切りあう(対立しあう)AとBは、元は同じ「共犯者」でしたね。互いに争っている「あいつら(国家でも団体でも)」は、しょせん「共犯者」なんですよ。同じ穴の貉です。

《Ⅱ 民度の低い教室や会社のゴミ箱のしくみについて》

 このことは、国際情勢といわず、私たち自身の身近ないろんなことにも言えるのではないかな?

 例えば会社の印刷室のシュレッダーやゴミ箱。
 これ、客観的に見ると、満杯になる前にみんなでこまめに捨てておけば、あふれかえったゴミを処理しなければならない「当たり」の人が出てくることもありません。はみ出し分が散らからないので作業の平均時間もおそらく1分程度で済みます。散らからなければ一人で簡単に捨てられるので、2、3人を掃除のために拘束する必要もなくなります。掃除機も買う必要がありません。掃除機を使う分の電気代もかかりません。ほんの微細なレベルでもコストが抑えられると共に仕事の効率が上がります。囚人のジレンマの①の選択肢に相当します。

 でも、現実は「当たり」の人が出るまでゴミを溜めつづけます。あふれそうになっても「まだ入る。ほら」と言って押し込む。押し込みができなくなったらゴミ箱の中の山を平らにならしていく。で、結局何ともならないところまで溜めに溜めて最後の「当たり」の人が掃除する。囚人のジレンマの③の選択肢と同じように、利己的な発想ですね。

 こうなるともう1分で作業は終わらなくなります。最低でも5分~10分弱、一人の人が必ず拘束されます。場合によっては2~3人交換作業に割かれます。そのうち掃除機は故障し、新しいものに買い換えです。3~5年でまた新しいものを買わなければなりません。電気代もかかります。そして「当たり」の人や、関係者、手伝った人は往々にしてほんの少しだけ不愉快な気持ちになります。囚人のジレンマの選択肢③の行動は、つまり、経済的にもロスが出るし、精神衛生上も良くないストレスフルな社会を生み出すことになるわけです。

 ほとんどの人の本音は「自分は一つのゴミだけ捨てたいのに、何十人分もの他人のゴミをなぜ私が捨てなければならないのか」と思います。善良な私たち多くの人は、「得したい」なんてそんなことは滅相もない、願ったりしていませんし、日常生活の中で自分が得する行動をしようなんて考えていません。でも、ほぼ全員の善良な私たちは「割に合わないこと」や「損なこと」はしたくないと思って行動しています。いわゆるプロスペクト理論の損失回避性です。現代文の評論文を読むときだけでなく、行動心理学なんか興味がある人にも役立つ言葉なので、覚えておいてほしいです。

 「プロスペクト理論」「損失回避性」——でもそれって、結局は「自己の利益のため」の行動ではなかったとしても、「自己の利益につながる」行動に違いはないんですよね。

「自分一人が損をする感じがする」
「割に合わない感じがする」

 ——損しないための行動、この当たり前の行動もまた、自己の利益を考えての行動なわけです。
 私たちはどこまでいっても自己の利益で動くし、それが原因で高コストやむだなストレスや、住みにくさ、トラブルやしくじり行為が発生している場合が少なからずあります。 自分だけは違うなんて思わないで、このことを自覚しましょう。

 「私」がいやな思いを抱えているのは、主に「私」自身のせいなのです。

 4時間目はここまで。そこのあなた、弁当食べちゃダメでしょ!


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