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「KIGEN」第八十二回




 長い相撲になった。組み合って尚容易に投げられない。お互いに巻き返しを警戒している。だがじりじり、まわしを深く掴んでいる。とうとう片方が投げを打つ。際どい。持ち堪えて、またどしり腰を落とし、反対に攻めに回ろうとする。掴んで離さぬまわしに好機を伺っている。互いに攻めあぐねて、とうとうまわしが切れた。一度離れる。激しい攻防に髷が乱れ、ほつれ髪がのぞく。

 瞼に積もる汗を振り切り、相手をよく見てもう一度ぶつかっていく。掴まえたはいいが、その間に相手の方が押し込んでいく。気付くと基源は土俵際だった。このまま押し出されるか、天秀峰が絶えず攻め立てる。基源の足が両方とも俵にかかる。万事休す――館内に大きな悲鳴が響き渡る。

 その時、基源の体が消えた。天秀峰の目の前から基源の姿が消えたのだ。基源は俵に掛かる足をばねにして、思い切り屈伸をしていた。足のばねで勢いを付けて、相手の懐へ再び迫った。基源が思い切りしゃがんだことで一瞬間相手を見失った天秀峰は、再び矢の速さで目の前に迫って来た基源の勢いに追い着く事が出来ず、形勢逆転、今度は押し出されそうになった。しかし磨き上げて来た強靭な肉体で踏みとどまって、その腕で三度まわしを掴み、投げを打って土俵際の逆転を狙いにいった。息吐く間も無い激しい攻防に、大観衆の声が国技館を席巻している。

 投げられそうになった基源だが、下半身が安定して、腰がしっかり落ちているから振られない。いつの間にか基源がまわしを掴んでいる。いい位置だった。重心を傾けた相手へそのまま確実に圧をかけ、じりじり、じりじり迫って、遂に、天秀峰を土俵の外へ寄り切った。


 最後まで抱えて離さなかった相手のまわしに掛けた手を、ゆっくりと離した。いかなる場合にも礼儀を欠かず、駄目押しで相手が土俵下へ落ちるのを防ぐ相撲だった。基源が教わった、心技体。基源は相撲の精神を全うした。
軍配が上がった途端、国技館に割れんばかりの歓声と拍手が怒涛の如く溢れ出した。座布団が乱舞して止まない。大人しく座っていられる者など居なかった。桝席も二階席もみんな立つ。立って惜しみない拍手を送り続ける。普段平然と土俵上を見届ける溜席でさえ、堪え切れずに立ち上がった者が居た。


 国技館が揺れていた。人々の胸に溢れる感動で震えていた。

 基源は大粒の汗で視界を遮られながら、大観衆の総立ちする姿を、鳴り止まない万雷の拍手を、総身に浴びて立ち尽くした。促され、互いに仕切り線の前へ戻り、一礼した。天秀峰も全て出し尽くして放心している。肩で息をする二人。先に花道を下がったのは天秀峰だった。その背中にも大きな拍手が送られる。続けて基源も花道を下がる。祝福の大きな拍手と共に、気の早い「横綱!」の声が飛んだ。

 花道を下がり切った基源は、そのまま尋常に歩みを運んでゆくと思われたが、いきなりばったりと前へ倒れ込んだ。観客の視線が完全に無くなった所だった。付け人が慌てて駆け寄る。更に足音が近付いて来る。

「いちごう!」

 奏だった。基源の雄姿を見届けて、彼の元へ向かっていたのだ。

「大丈夫!?」

 奏の腕に抱えられた基源は、直ぐに目を開けた。
「失礼」
 と言いつつ自力で立ち上がった。奏に向けてにっと笑って見せると、付け人と共に廊下の先へ、後援会の人間や中継カメラの待つ方へ歩いて行った。第三者の目がない場所だったことは幸いだった。だが奏が質問する時間を、基源は与えなかった。


 土俵の周辺では着々と表彰式の準備が進められ、正面放送席を中心にテレビ中継が続いている。たった今、世情を鑑みてテレビ中継の放送延長が知らされたところだ。

「それでは表彰式の準備が整うまでの間、今場所を少し振り返って参りたいと思います。北極さん、いかがでしたでしょうか」
「――」
「―あ、これは失礼しました。お声がけするタイミングを、わたくし間違えてしまったようです。ええでは、画面に出ております今日の取組結果と共に振り返っていきます」
「いや、大丈夫だよ。失礼したね」
「いえ、もう、よろしいんですか」
「うん、ちょっと感極まっちゃってね。歳を取ると涙もろくなるんだってほんとだね。まさか千秋楽の一番で私が泣くとは思わなかった」
「はい、大変貴重なものを見せて頂いたような気が致しますが、それ程素晴らしい一番だったのだと思います・・・北極さん、いい相撲、アナウンサーの私が申し上げるのは出過ぎた真似かも知れませんが、いい相撲、本当に、大相撲の歴史に残る一番でしたね」
「名勝負だったと認めざるを得ないよね。あれだけ気迫の籠った熱戦を見せられちゃね。お客さんもとても喜んでくれましたし、内容も良かった。これはもう、確実じゃないですか」
「お、と言いますと」
「嫌だな、分かってるくせに」
「念の為申し上げますが、今場所は先程優勝を決めた基源関と、最後まで星の差一つで優勝を争った天秀峰関が、二人同時に綱とりに挑戦した場所でした」
「良かったよね・・ほんとに。俺すっかり二人のファンになっちゃったもん」
「きっと全国に、いえ世界中に、また多くのファンを生み出したのではないでしょうか」
「あとは理事会と横審がどんな判定を下すのか、だね」
「そういうことになるでしょうか。発表が待ち遠しいところです。さてそれでは間もなく、表彰式がはじまります」



 いつもマイクの前で笑みを絶やさず、時に雑談にも応じる基源だが、今日ばかりはすっかり緊張したと見え、大きな賜杯を抱く時も、優勝インタビューの間も、生真面目な顔で仁王立ちしていた。最後にアナウンサーが、表彰式に残っているお客さんが今日はとても多い事に触れると、観客席から基源へ、温かい拍手が送られた。この日初めて、基源が相好を崩して笑った。

 緊張の内に終えた表彰式だったが、立派な大銀杏姿で堂々と振舞う基源の様子は、新聞やメディア各紙が取り上げ、号外を出した地方紙もあった。人工知能を伴ったロボットであり人間として生きる唯一無二の存在が成した快挙は、一大ニュースとして世界中を駆け巡った。


                     (十章・揺れる国技館・終)


第八十三回に続くー


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ようこそいち書房へ。長編小説はお手元へとって御自分のペースでお読み頂きたく思います。

「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

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