見出し画像

「KIGEN」第八十一回



 翌十三日目、基源はベテラン大関と当たって勝った。天秀峰は関脇と当たり、昨日の失態をかき消す様な豪快な上手投げで勝ち、負けを引き摺らなかった。そして十四日目、基源は結びの一番で横綱戦が組まれた。大注目の一番に、この日最高の五十二本の懸賞がかけられ、土俵周りを懸賞旗が何周もして場内アナウンスが続くと、館内がどよめき拍手が沸き起こった。またしても横綱が貫録を見せつけるのか、それとも新たな風を巻き起こしつつある基源か。淡々と仕切りを終えて、時間いっぱいで力強く仕切線に手を着いた基源は、目の前で腰を落とす越えるべき壁に両目をぐっと寄せ、相手が手を着いて立ち上がるのへ合わせるべく待った。

 この時点で勝負は着いたのかも知れなかった。後から理事長が語ったところによると、いつも余裕綽々しゃくしゃくの顔した横綱の顔が、心なしか紅潮している様に見えたという。


 がつんとぶつかった。どしりと構える横綱を、基源は動かしに行った。長年稽古で鍛え上げて来た重心の座った下半身がぶれない軸となり、大柄な横綱を動かして慌てさせた。機を見て基源は横綱を土俵の外へ突き落した。大きな歓声と拍手を浴びながら、右手だけでは掴み切れない懸賞の束を両手でしかと受け取った。西の花道を下がりながら肩で息をする基源の背中に、千秋楽での活躍を期待する大声援が四方から飛んできた。結び前の一番でベテラン大関に勝ち、基源の取組を見届けた天秀峰も、真っ直ぐに前を見詰め東の花道を下がっていた。こちらにも期待の声援が止まない。千秋楽の取組は既に発表済みで、誰もが知るところである。世間の注目は、言わずもがな結び前の一番、基源対天秀峰の直接対決であった。星の差は一つ。基源が勝てば全勝優勝。天秀峰が勝てば優勝決定戦が行われることになる。どちらが勝つのか、決定戦まで縺れ込むのか。そうなった場合どちらに有利か―ありとあらゆるメディアで、ネット界隈で、夜更けまで熱い議論が交わされていた。



 ―世界から、音という音が全て吸い取られたかのように、その瞬間一切の音が消えた。唾を飲み込むのさえ憚られるような静けさの中、両大関は仕切り線近くに腰を落とし、手を着いた。千秋楽、結び前の一番である―



 現時点の成績は基源が十四勝、天秀峰が十三勝一敗で、星の差は一つだ。このまま突き放して基源が全勝優勝を飾るのか、それとも天秀峰が直接対決で基源を引き摺り下ろして決定戦に持ち込むのか。今日はきっと世紀の一戦になる。この好取組を見届けようと、朝から国技館はいつになく賑わいを見せていた。幕内の力士が登場するまでは人の疎らな観客席だが、中入り後から少しずつ増えて、三役が出る前には東西南北どちらを向いても期待に目を輝かせた人々が顔を並べてぎゅうぎゅう座っていた。



 そうして迎えた夕方、東西の花道を天秀峰、基源がそれぞれ入場して来た。花道の直ぐ傍の桝席がざわめき、声援が飛ぶ。土俵下へ腰を下ろし、先の取組を見守っている。どちらもいつもと変わらぬ様子で、緊張も感じられなかった。そして遂に二人の四股名が呼び上げられると、館内のボルテージは一気に上がり、大きな拍手と大歓声が土俵へ押し寄せた。アナウンサーは自分達まで緊張で声が震えそうな、異様な空気に包まれていると現場を評した。客席の声は絶えず飛び交い、仕切りの度に拍手が起こる。行司軍配が返されて、いよいよ立ち合いとなった時、声援は一際大きくうねりを伴って国技館のど真ん中へ届けられた。


 立ち合い。一度目。ぴたり世界から、音という音が全て吸い取られたかのように、その瞬間一切の音が消えた。唾を飲み込むのさえ憚られるような静けさの中、基源は初めから両手を着いて待った。天秀峰は右手を付いて左をとんと落としてから立ち上がる。二人は見合って、天秀峰の左手が降りると思った瞬間基源が立ち上がった。だが天秀峰はまだ左手を降ろし切っておらず、基源がつっかけた格好となり、立ち合い不成立になる。思わず息を止めたらしい客たちがはあーと息を漏らす。基源が周囲に頭を下げて謝罪の意を示す。

 大関同士の、それも大事な一番で、集中を切らさない為にも立ち合い不成立はもう許されない。二度目の立ち合いである。

 呼吸は合った。二人は殆ど同時に立ち上がった。だが基源の足が何かに躓いた様に見えた。しかし待ったはかからず、立ち合いは成立した。やはり片足のバランスを崩していた基源は、重心を据える前に天秀峰に掴まり、あっさり相手の相撲に屈してしまった。

 悲鳴。そして歓声と、拍手。思わず立ち上がった観客が手を叩く。響き渡る声には期待に胸を高鳴らせたものの方が勝っていた。もう一番と決まったのだ。勝負の行方は優勝決定戦へと持ち越された。

 この一番に勝った方が先に横綱になる。誰もがそう理解していた。一度支度部屋へ引き上げた両者は汗の粒を光らせながら、床山とこやまに大銀杏の髷を直してもらい、士気を高めて再び土俵へ現れる。その間に結びの一番が取り組まれ、今場所は主役を譲った一人横綱が最後はきっちり白星で閉めて本割を終えた。


 張り詰めた空気の中、優勝決定戦が始まった。館内の緊張は再び極限にまで高まっている。今度は一度目で立ち合いが成立した。土俵のほぼ中央で二人はがっぷり四つに組んだ。力が拮抗して、どちらも動かない。痺れを切らして少しでも先に動けば、相手の技に屈しそうなのだ。隙を見せず、先ず耐えている。行司の声が張り上げられる。まんじりとも動かない二人に、激励の拍手が注がれる。それを機に基源が少し動こうとする気配を見せた。だが天秀峰もすかさず流れを止めようとする。力がぶつかり合ったまま両者の位置が動く、但しバランスを崩せば投げられる。まわしを掴み合って決して離さない両者に、又しても歓声と拍手が届く。

 頑張れ、頑張れ。負けるな。熱心に叫びながら、それがもう全体どっちを応援しているのか段々分からなくなる。この時、この瞬間、同じ場所へ居合わせて正真正銘プライドのぶつかり合いを目の当たりにしていることが、幸せだった。二人の純粋なる真剣勝負が国技館を飛び出して国を越え、いつしか世界中を釘付けにした。


第八十二回に続くー


ここから先は

0字
ようこそいち書房へ。長編小説はお手元へとって御自分のペースでお読み頂きたく思います。

「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

この記事が参加している募集

多様性を考える

AIとやってみた

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。