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「月光に溺れる」第七話

      七

 夢から醒めた紀ノは、手に持つものだけをレジへ持って行った。隣のレジでは藤原が会計を済ませて立ち去る所であった。紀ノはその姿をちらちらと視界に挟んでいた。もう関わるまいと、世間を遮断してしまおうと思うのに、思いながらあんまり明け透けな藤原が、正直な悪い大人に見えて来るのだった。たった今苔にされて、あしらわれて、追い掛けたい要素など微塵も無かったはずなのに、手早く会計を済ませた紀ノは、畜生と心の内で叫びながら、尊大な背中を追い掛けていた。

 飛び出す勢いで外へ出ると、藤原はレクサスに乗って帰ろうとする処であった。紀ノはもう一度畜生と叫んだ。不本意ながらそちらへ一歩近付こうとした紀ノへ対して、運転席のドアを開けた藤原は然し、不図引っ返して紀ノの元へ数歩だけ戻って来た。身構える紀ノへ口を寄せ、声を落とす。
「お前夕べ、ママと朝まで一緒だったのか」
「―はい」
 さり気なく、そこはかと、己惚れる程に、得意であった。それら全てを悟られまいと、紀ノは懸命に憮然と立っていた。
 藤原は彼の返事を確認して、忽ち不穏な笑みを浮かべた。
「とんでもない野郎だな」
「どういう意味ですか」
 紀ノは果敢に藤原を掘り出そうとした。然し真っ向勝負で容易に掘り起こせるほど真っ直ぐな男でもない。藤原はやはり不敵に笑っているだけである。そして、
「背後には十分気を付けることだな」
 と云うなり手にしていたミネラルウォーターを紀ノへ押し付け、踵を返して今度こそレクサスに乗り込んだ。重厚なエンジン音を響かせてコンビニの駐車場から去り行くシルバーの高級車を見送りながら、紀ノは、今の全てを動画にして店の客たちに、あの紳士で礼儀正しいシェフのファンたちに見せてやれば良かったと思った。

 己の手に落とされたミネラルウォーターを掲げてまじまじと眺める。
「歪な世の中だな」
 そう言って紀ノは笑っていた。

 寝転がったまま受け取った名刺を、額の上へ翳す様に掲げて眺めていた。自室の日向に於ける、辺りに日常を蹴散らかした処から唯一出来上がった特等で、簡易テーブルに背をもたせ、胡坐をかいて、如何にも寛いでいる。
 買って来たコンビニ総菜とご飯と、飲み物を買わずに飛び出して来た紀ノを気遣ったのか、ただの気紛れか、どうやら謎に包まれているけれども藤原の押し付けてきたミネラルウォーターで、遅い朝食を済ませた処である。

 詰まるところどう足掻いても藤原や泉から見れば若造だと認めるしかないのであった。人の言動で単純に振り回されて、憤って見せたりわざと憤慨を見せつけて訴える真似してみせて、それで要するに注意を惹き付けているに過ぎないのだ。誰にも無視されたくない、素通りされたくないと、必死で手を広げアピールしているのだった。一度総てを捨てると決めながら、夕べから既に二度までも他者へ手を伸ばした紀ノは、落ち着いて自身の胸の内と向き合った処で、そう考えて一人笑みを零した。
 畢竟人類などは孤独の塊で、パズルみたいにすっきり納まる場所と人とを求め探して、そうやって一つずつ繋げていっては生涯を完成させて、或いはより完成に近付けたいと我武者羅に駆けずり回って命を終えて行くのだ。生れ落ちた瞬間から形式の変わらぬこの身と嵌り合うピースを、何処かに在ると縋るように信じて彷徨う運命なのだ。

 あの人は雨の中へ儚い夢の如くに現れて、日が昇ると霞のように奇麗に去っていった。二人で共有した時間は余りに静謐な時間で、紀ノはそろそろ本当に幻でも見せられた様な気がしていた。こうして手にいつまでも名刺を掴んでいた処で、地球は同じ速度で回転しているのだし、野良犬はいつまでも舌を引っ込めない。鉢の中の金魚は幸せかも知れないけれど、畑の蟻ほどの自由は無いかも知れない。分かっているのは全て正気と云う事だけである。誰が何処でどれ程の煩悩を抱こうと、喚こうと、世界は正気に回転しているという事だけである。

 この人の事は忘れようと思う。紀ノは最後にもう一度名前を呟いて、名刺をごみ箱へ捨てた。そうして不図室内を見回してみる。
 生きると決まったからには、差し当たって職を見つけねばと思う。散らかしたままの部屋も片付けたい。冷蔵庫へ七味以外の食料を補充したい。そう次から次へとばらばら思い出す。然し思いながらいつまでも日向へ座っていた。まるで湯船から立ち上がれない時と同じ心持ちであった。

 翌日の朝は、昨日から取り残された雲が鈍く空を漂い、段々と一箇所へ集まりつつある様でいつまでも重たい。布団を抜け出した紀ノは、顔を洗って髭を剃り、身支度を整えると、愈々冬の気配を色濃くし始めた街の冷気を全身に受けながら、最寄りのコンビニへと向かって歩いた。朝食を買う目的もあったが、別にもっと腹の足しにせねばならぬ思惑があった。コンビニのレンジで温めて貰ったベーコンエッグパンと缶コーヒーで手早く朝食を済ませた紀ノは、寒気の横から吹き付ける中、外の駐車場で僅かの期待を胸に忍ばせて、その人が現れるのを凝と待っていた。
 足元から冷えが上ってきて、一度コンビニの中へ逃げ込もうかと思い始めた時、シルバーのレクサスが一台駐車場へ乗り入れた。藤原であった。紀ノは己の足に勢いを付けて車を降り立った藤原の元へ駆け寄り、睨まれる前に挨拶で牽制した。寒さの為か警戒の為か、顔が妙に笑おうとする。頬が半分引き攣ったように持ち上がる。
「おはようございます」

 案の定藤原は紀ノの姿を見るなり眉を顰め、さも迷惑そうに彼を睨みつけた。車のドアを乱暴に閉めて不快を殊更強調すると、一瞥を喰らわせてそのまま無言でコンビニへ入っていこうとする。紀ノは慌てて追い掛けた。小走りで追い着いて、入り口と藤原の間に立つ。藤原はぐんと立ち止まるなり顔を上げて、真正面から紀ノを見た。不機嫌の模範の様な形相であった。
「何の真似だ」
「すみません、一寸だけ時間を頂けませんか」
 藤原は強引に肩で紀ノを押し退けて行こうとする。紀ノは正面から押してくる藤原の肩を両手で懸命に留めようと働きかける。同時に何て力かと思う。
「お願いします。あなたの店でバイトを一人雇ってもらいたいんです」
「訳の分からん事を言うな」
「何でもいいんです、枠余ってませんか」
「俺に言うな。あれは俺のじゃないっつったろ」
「でも俺はあなたの料理に感動したから、あなたの下で働きたい」
 藤原はふんと鼻で笑った。押し相撲に飽いたか一旦立ち止まる。
「お前に何が分かるんだ。あんなぐしょぐしょのどうしようもない格好で入って来やがって、ママに随分と世話掛けさせたらしいじゃねえか」

 紀ノは思わず瞳を見開いた。己の衣服の粗末よりも、あの人の手を煩わせたあの時の様子が、その場に居合わせなかったシェフの藤原の耳にまで届いてしまっていることへの羞恥が、全身に駆け巡った。耳朶が熱を帯びる。思わず棒立ちになった。
「そんな詰まらない事が噂になるんですか、あなたの職場は」
「は、んな訳ねえだろ。俺は雇われでもあの店の責任者だからな、常連様の情報は共有されるように出来てんだよ。管理が行き届いてると言って欲しいね」

 この人は一体どういう人間なのかと、紀ノは脳味噌が二転三転しそうな位に、忙しく働かされていた。信じられない位に口が、それはもう物凄く悪いのに、阿修羅でももう少し良さそうなものであるのに、それはそれとして、乱暴な会話の最中だろうと店の客に対しては丁寧が付くし、けんもほろろに紀ノの事を追い払っているようであるのに、何故かきちんとした説明が加えられている。
「ああ、成程。失礼しました。情けない格好で入店したことも、申し訳ありませんでした。あれでも一張羅だったんだけど、雨に打たれ過ぎてしまって、それも迂闊でした。配慮が足りなかったです。ごめんなさい。でも俺はあんなに旨い飯、初めて食べました。人生で、初めてだったんです。正直に言って、こんなに褒める積り無かったんだけど、やっぱり美味しいものは美味しかったと、ちゃんとそう言いたいし、藤原さんに昨日偶然出会えて、ああなんか言いたい、伝えたいと思ってしまって」
 言いながら、自分が今朝わざわざ待ち伏せまでしてここで藤原と対面したかった、本当の理由と云う物が、チョコレートの銀紙を少しずつ剥いでいくように、明確になるのを感じた。働き口をきいてもらうのよりも、伝えたかったのは、紀ノが真実言いたかったことは、料理の感想の方であったのだと、彼自身もここへ来て漸く自覚した。
「コースの順番と云ったらいいのか、俺は知識が無いけど、食べやすくて、量も丁度良くて、きっと食べる側の人の事、物凄く考えてあるんだろうなと思ったし、あの前菜の盛り付けは、見事でした。味も一息に料理へ惹きつける具合も印象的でした。スープの温度は決して熱過ぎないで、魚介はもっと食べたいと思わせる絶妙な量で、サクサクのあの衣、何て言うのか知らないけど、外はあんなにサクサクなのに中はふわふわで、感動した。それに―」
「もういい」
「え」


第八話へ続く―





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