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都を離れて山へ入ればそこら中飛んでいるよ 誰が言ったものだか、ささやくようにずっと耳の奥で繰り返される台詞。そのあやふやな声を頼りにして、ともかく私は蒸し暑い京の都を訪れた。 * ー戯れに蛍、知らぬ間の夜ー 相変わらず人の多い京都駅から電車を乗り継ぎ、後はタクシーを捉まえた。額に吹き出す汗をタオルで拭いつつ行き先を告げる。運転手は緩やかに車を出した。 「蒸すでしょう、京都は」 「そうですね、蒸し暑い」 「お客さん、どこから来はった?東京?」 「―まあ、新幹線で・
ワンルームマンションのリビングの一角に、水晶の白鳥が置かれて一週間が経つ。家の中の一番目立つ場所に置きなさいと熱心に説かれて、まさか本気にした訳でもなかったけれど、白鳥自体が気に入ったからとりあえずリビングに飾ることにした。今日も出勤前の僅かな時間、静かな輝き放つ白鳥を眺めてから家を出た。 職場からの帰り道、疲れた足を取り繕って早足で歩いていたら、道端で突然声をかけられた。 「お疲れ様」 いかにもたばこで枯れましたという嗄れ声で、近所の娘でも見かけたように気安い調
短編「かなまう物語・外」 「この先には外道がある。絶対通ってはいけないよ」 大人たちから散々注意されていた小さな女の子であったが、ひょんなことから道に迷い、気付けば絶対通るなと言われていた道の前に出てしまった。暗い。けれど、その先は明るい。行ってみたい。ちょっとだけ覗いて、直ぐに帰ってくれば大人たちにばれないし、大丈夫よ。 女の子は行ってしまった。 鬼たちが「外道」と呼ぶ道の先にあるのは人の世だった。毎年立春近くになると人間の都合で強まる結界が、忘れるのが得
ぼうぼうだった草に元気がなくなった。風が強まり、細い路地にも舞い込んでは落ち場を転がしてゆく。秋が来たのだ。 手紙は相変わらず届けられていた。箪笥の上へ積んでいた手紙はいっぱいになって雪崩を起こしたため、男は箱を一つ用意した。押し入れにしまってあった段ボールの一つだ。最初に屑籠に投げ入れた手紙もいつの間にか拾われてそちらへ入った。手紙の封筒の色や柄はいつも様々で、段ボールの中は男の家の内で一番カラフルだった。 今日は何が書いてある? 手紙を取り込んで早速便箋を広
郵便ポストの後ろに忘れられた細い路地がある。路地に沿うのは民家の側面とか裏側で玄関を構えている家はないものだから、日中もひっそりとしている。だが近所の住人にとっては生活道路に変わりなく、知る人ぞ知る路地でもある。その路地の片隅に、男の家はあった。 男の家は路地のぷつりと切れるぎりぎりの位置にあって、平屋で、古くて、瓦が日に焼けて薄ボケて、玄関前の草はぼうぼうと生えたら生えたままであるし、冬になれば勝手に枯れている。男が何をして生きているのか、誰も知らない。 こ
ソウのお母さんはふくよかなお腹とお餅のように柔らかい頬が自慢で、子どもは全部で十一人いる。ソウは十一番目の子どもだ。 ソウは保育園に出発する時間が迫っているため朝ごはんを急いで片付けなくてはならないのに、末っ子の甘えん坊がどんな時でも発揮される。 「お母さんボタンがとまらないから僕保育園行くのやだ」 お母さんは家族みんなの朝ごはんから身支度まで全部ひとりで請け負っていて、ソウ一人にばかり構っていられない。フライパンの目玉焼きをじゅうじゅう言わせながら、後ろ振り返って
「バニラのスティックでコーヒーを混ぜると幸せの風が吹いて来るの」 海色のカップの中身をかき混ぜながらあなたがそう言って笑う。香ばしい湯気が立つと、僕には確かに幸せの風が吹いて来た。とろけるような甘い香りがした。 「ちょっと甘すぎるよ」 僕がパーカーの袖口で口を隠すと、あなたは頬を緩めて笑った。魔法のビーンズは海色のソーサの隅に載せられる。あなたはコーヒーに口付けた。そして、カップの縁から上目遣いに僕を見たね。 あの時僕の心臓は派手に波間へ弾けたんだ。テトラポットへぶ
女郎花が朝露を被り、こちらへちょんと首擡げている。指先で触れると、吸い寄せられるように冷たい雫が指の腹に纏わりついた。暑さの盛りを越えて、朝晩に少しずつ涼が戻って来た。夕暮れの蜩が聞こえると、これと云って特筆すべき思い出も無いのだけれど、神妙が胸へ寄せて、まるで去り行く季節を名残り惜しむかの様だった。 両親が購入したこの家には庭が在る。快活な女子高生が大股でいち、にと歩いて五歩かける三歩の広さで、引越した当時植えた桜の木は随分立派に育ち、敷地の外からでも花を愛でる事が出
ドアが閉まります、ご注意下さい。 発車間際にホームへ降り立った僕は、一番手近のドアから体を車内へ滑り込ませた。ベルが鳴り、間もなくドアが閉まる。ぎりぎり駆け込み乗車じゃない積りだけど、注がれそうでこちらを見ない視線が勝手に痛い。車両を一つ移動して空いている席を探す。 平日、昼間。乗客疎らな車内、空席は直ぐに見つかった。四人掛けのボックス席を一人で占める。走る程に深い緑に囲まれてゆく、かなりのローカル線。一本逃すと、次は一時間以上先だ。車輌も古く、ボックス席の窓も開け
「迷子かあ」 山に足を踏み入れて暫く、哲樹の耳に聞き慣れない声が届けられた。登り坂で矢鱈跳ね上がる鼓動と、今日と云う日を寿ぐ小鳥と、行く末見守る葉の内緒話と、それだけで十分であったのに、声が聞こえた。帽子の鍔引き下げて無言の内に通り過ぎようかとも考えたが、こちらが一歩先へ進む度に、声の主も一歩近付いて来るらしく、離れる積りが無いのなら、早く答えて後は構わずに於いて貰う方が気楽で良いと考えた。哲樹は一旦立ち止まり、声の主へ顔向けた。近所では見ない顔だった。少し気が楽になった。
てっぺい君は小さい。クラスの男子の中では一番小柄で、四年生全員の中だと前から二番目か三番目位。けれど足が速くて、運動神経も良い。それにいつも剽軽で、みんなを笑わせてくる。授業中でも黒板の前でおどけてみせて、先生に怒られても足を代わりばんこに左右へ持ち上げてまるで猿みたいに踊って笑っている。みんなが笑うと益々おどけたりする。女子からは「馬鹿だー」って言われたりもするけど、全然気にしていないみたい。私はいつも一番後ろの席から、少しだけ笑いながらそれを見ている。 私は大きい。
田川さんの悩みは、上手く笑えないこと。社会人も四年目になって、もうそんな、頭抱えなくっても勝手に零れていきそうな大人の嗜みが、田川さんは上手くできなくて、いつまでも上手くできないから、いつまで経っても悩みの種だった。それでも田川さんには、理想とする笑顔があった。それは陽だまりの中に咲くお花のように笑う事だ。にこにことして、柔らかく、けれど、あくまでも姿勢良く、美しく。理想はとっても高くて、想像だけは日々積み重ねているけれど、実行できた試しは無い。きっとチャンスは幾らでも巡っ
最寄り駅に到着しても、彼女は電車を降りなかった。 マスクとマフラーで顔はほとんど隠され、頭にはニット帽を被り、たった今側頭部辺りを掴んで下へぐいと引っ張った処である。まるで前髪押さえつける様にして被った青い毛糸の帽子の下からやっと見えるのが二つの目で、その目は先刻から憮然と前を見据えたまま、座席で膝を揃えて、ただ電車の揺れるのへ従って、右へ左へ僅かに揺られる程度であった。服装はと云えば、ブレザー制服の上から学校指定のピーコートを着込んで、その右腕に通学鞄を通して膝の上へ抱
彼と友達になりたい。 それがトウジの願いであった。三カ月前、偶然出会ったガラン番地の男の子。家族の為、村人の為に、小さなうちから一生懸命に働いている男の子。偶々出くわしただけなのに、弱った僕を助けてくれた、口は悪いけど、本当は多分優しい男の子。 彼にまだきちんと御礼を伝えられていない。マフラーの御礼も出来ていない。服を買いに行く約束も果たしていない。だから僕は伝えたいと思った。届けたいと思った。正直に云って、僕の贈り物を喜んでくれる保証は無い。あんまり自信もない。けれど