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短編「マダムの体温」

 ワンルームマンションのリビングの一角に、水晶の白鳥が置かれて一週間が経つ。家の中の一番目立つ場所に置きなさいと熱心に説かれて、まさか本気にした訳でもなかったけれど、白鳥自体が気に入ったからとりあえずリビングに飾ることにした。今日も出勤前の僅かな時間、静かな輝き放つ白鳥を眺めてから家を出た。

 職場からの帰り道、疲れた足を取り繕って早足で歩いていたら、道端で突然声をかけられた。

「お疲れ様」

 いかにもたばこで枯れましたというしゃがれ声で、近所の娘でも見かけたように気安い調子でお疲れ様と言われて、私は思わず顔振り向けてしまった。今にして思えば、そんな場所に知り合いが居るはずないし、いつもの自分なら警戒心から不用意に反応なんかしなかった。けれど当時の私ははっきり言って抜け殻。相当疲労が溜まっていた所為せいで、理性を働かせる余裕がなかったのだ。

 目が合って、しまったと思った。相手はいかにも怪しげな紫のストールみたいなものを身に纏った女性だった。どうみても占い師ですとわかりやすい格好。首と指にやたら装飾が多いけれど化粧は質素で口紅だけが異様に赤い。その赤が強くて一瞬で私の目に焼き付いた。私はすぐに立ち去ろうと思った。瞼を伏せて、なかったことにして一分でも早く電車に乗ってしまいたかった。ところが占い師は、

「急ぐ?」

 とやっぱり近所のおばさんのように尋ねてくる。あなた、死相が出てるわよ。とか、そっちの道に行くのは危険だよ。とか言わずに、けいちゃんまた急ぐの?せめてこのコロッケ食べていったら?みたいな気安さを醸し出してくる。けいちゃんというのは私の幼少期の呼び名だ。近所のおじちゃんおばちゃんたちからそう呼ばれていた。名前ではない。いつもせっかちに走り回って前髪が鶏冠とさかみたいに上を向いていたからそう呼ばれていたのだ。ちなみに結構気に入っていた。

 そんな昭和のノスタルジーみたいな声のかけられ方をすると、ご近所付き合いが濃密な場所で育った私は正直弱い。真っ赤な口紅が強すぎるけど化粧が濃くないから余計に油断しそうになる。私は頬を引き攣らせて急ぎますとなぜか丁寧に答えて後退あとずさりした。このままでは占い師の思う壺だ。壺なんか買わされて堪るもんですかっ!

 私はようやく目を覚ましたようにパンプスで地面にしっかりと立ち、駅目指して歩きだそうと体の向きを変えた。

「気を付けてね、時には自分の思うまま生きるのよ」

 人情が―・・・なんなのよ。

 バカ上司の、バカヤロー!


「疲れてるように見えます?」
「相当キテると思ったよ。後ろ姿がねえ、気の毒でねえ」

 それで思わず声をかけたという占い師のマダムアオキは、労わるような笑みで私を見つめた。聞けば毎日同じ場所へ立って相談者を待っているという。私は今日まで全く存在に気付かなかった。そう正直に打ち明けると、こういうのは本当に必要な時まで気が付かなくていいものだからという。なんだか妙に納得した私は、すっかりマダムアオキに興味を持って話をしたい気持ちになっていた。

 少し吐き出して行ったらと手招かれて入ったのは、マダムアオキの小さな仕事部屋で、ソファが二つ、電気ポットが一つあって、あとは目立った物も装飾もなかった。お茶かコーヒーの好みを聞かれ、私はお茶を頼んだ。

 ソファにくつろいでじっくり話を聞くのかと思ったけれど、マダムアオキは暖簾の奥からパイプ椅子を連れてきて座った。

「こっちに座らないんですか」
「それはお客さん用。私がくつろいでどうするの」

 赤い口紅がぱっと開く。首元のネックレスがキランと光った。

 マダムアオキの淹れてくれたお茶はまろやかでとても美味しかった。
「お饅頭もあればもっといいだろうけど、食べ物と一緒に飲み込むと良くないからね。要らないものはきちんと出していかないとね」
 私は頷いて、はじめのうち遠慮していたはずが、その内止まらなくなって、社会の日常における不満や愚痴をすっかり吐き出してしまった。私の気が済むまで話を聞いたマダムアオキは、全部聞き終わって、納得顔で頷いた。

「あなたは偉いわ。若いのにそんなことまで考えて。だから上司も部下もみんなあなたを頼るのね」
「いえ、全然、そんなことないんです」
「自分で自分を認めてあげることも大切よ。うんと褒めていいのだし、時には思うまま発言してもいいの」
「そうか・・そうですよね」
「でも、人間だもの、そうは言ってもいきなり人って変われないわよね」
「そうですね・・・」
「でも安心して、あなたにぴったりのものがあるの」

 マダムアオキは立ち上がって暖簾の奥へ引っ込むと、今度は手に正方形の箱を抱えて出てきた。私の目の前で蓋を開けて、中身を丁寧に取り出す。
「なんですかこれ」
「水晶よ」
「・・水晶」
「よくあるでしょう、運気を上げる宝石だとか水晶だとか、金運をあげる虎とかカエルの置き物とか、龍の掛け軸とか、怪しい商品なんて数えきれないほど世に溢れてる。でも全部まがい物。あれを買って本当に幸運を掴んだ人っているのかしら。人間って二足歩行の生き物でしょう。四つ足に頼っても駄目よ」

 私は首を傾げた。虎はともかく龍の足って何本なのよ。それより、足の数が運気にどうかかわってくるのか、それはちょっと聞いたことがない。何より私は丑年だ。

 マダムアオキはそうでしょうというように深く頷いて、自分がたった今箱から取り出した水晶を改めて眺め見る。

「これは本物の水晶なの」
「加工してあるんですか」
「白鳥よ」
「へえ」
「家の中の一番目立つ場所にこれを置いて毎日眺めていれば、そのうち運気が上がっていろんなことが上手くいくようになるわ」

 そう言ってマダムアオキは私の両手をぎゅっと握った。それから白鳥をうやうやしく持ち上げると、私の手の平へそっと乗せた。マダムアオキが飾り気のない目で私を見つめて、にこっと笑った。

「あなたの所へ行きたいって」

 私は自分の台所事情から言って決して少なくない額をマダムアオキに支払った。その中には相談料も含まれていたが、お茶代はサービスされた。


 私の家のリビングの一角に、水晶の白鳥が置かれて一週間が経つ。家の中の一番目立つ場所に置きなさいと熱心に説かれて、まさか本気にした訳でもなかったけれど、白鳥自体が気に入ったからとりあえずリビングに飾ることにした。

 私はこの白鳥が本物の水晶でない事を知っている。これはガラス細工だ。私は自分の手で触れたものの本質がわかる能力を持っている。

 人に手を握られたのは何年ぶりの事だっただろうか。この特異体質のために、家族も友達も、いつの間にか周りの人間がみんな私を敬遠するようになっていた。私もそれで随分気が楽だったけれど・・・

 けれど、ぎゅって。

 マダムアオキの手はとっても熱くて、とっても温かかった。

 今日も出勤前の僅かな時間、静かな輝き放つ白鳥を眺めてから、私は家を出た。

                                  
                            おしまい

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