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短編「迷子水流譚」


「迷子かあ」
 山に足を踏み入れて暫く、哲樹てつきの耳に聞き慣れない声が届けられた。登り坂で矢鱈やたら跳ね上がる鼓動と、今日と云う日を寿ぐ小鳥と、行く末見守る葉の内緒話と、それだけで十分であったのに、声が聞こえた。帽子の鍔引き下げて無言の内に通り過ぎようかとも考えたが、こちらが一歩先へ進む度に、声の主も一歩近付いて来るらしく、離れる積りが無いのなら、早く答えて後は構わずに於いて貰う方が気楽で良いと考えた。哲樹は一旦立ち止まり、声の主へ顔向けた。近所では見ない顔だった。少し気が楽になった。


「違います」
 声の主はひょろり背の高い男であった。軽装で、ハーフパンツから伸びる足の脛はもじゃもじゃしている。足元は平べったいサンダルである。哲樹は小学校のトイレでしかそれを見た事がない。上は素肌に派手な柄シャツ一枚。ボタンを一つも留めないで、風の気儘に任せている。決して自慢したい程の体ではなさそうだが、本人はそこに頓着とんじゃくしない性質たちらしい。
物数奇ものずきな奴だのう。探険しに来たか」
「違います」
「探し物でもあるか」
「ある」
「何を探している」
 哲樹は目線を下げて自嘲の笑みを零した。説明しても良いが、到底伝わらないだろうと思う。そうして目線を下げた事で、先刻さっき思わぬ泥濘ぬかるみに足を滑らせて靴を片方失くしたと思い出す。左足は靴下のみである。脱げた靴を直ぐにでも拾いたかったが、運悪く川へ転がり、あれよと川下へ消え去ってしまった。盛大に溜め息吐いたけれど、同時にどうでも良いと思った。只また母さんに怒られると思うと億劫だった。今持ち出す言い訳には丁度良い。
「左足の靴」

 男は首を伸ばして哲樹の足元を観察し、眉を持ち上げた。
「これはいかん。怪我するぞ」
 案外親身になって一息に哲樹の元へ降りて来ると、自分のサンダルを両足とも脱いで差し出す。哲樹は思わず首を起こした。
「いいよ、あなたのだから」
「何、いつもは何も履かんのだから。嘘と思うなら触ってみても良いぞ」
 と云って一本立ちになると、足の裏を自慢げにひっくり返して見せる。哲樹は困惑しながら首を振った。男はまるで、足に触れるかサンダルを受け取るかの二択しかない様な勢いで押してくる。すっかり呑まれた哲樹は、仕方なくサンダルを受け取っていた。楽に歩けるとも思えない。だが試しに左足を入れてみると、妙に馴染む。湿った靴下が邪魔で、すぽんと脱いでもう一度足を入れる。馴染む。まるで足へ吸い付くようである。右足も同じにして、裸足へサンダルを履く。矢っ張りやっぱり馴染んだ。足踏みすると、軽快であった。


「歩きやすそう」
 そう独り言ちると、男はも嬉しそうに笑った。哲樹は肩のリュックをとんと揺すって位置を調節し、また川沿いを歩き始めた。男は首を傾げて、
「おや、帰らんのか。靴は下流の方だろう」と聞いた。
「靴はもういい。それに、帰ろうとしてるよ」
 家とは別の、自分が帰るべき場所。哲樹はそれを探していた。
「山の秋はあっという間に終わるぞ。もう水がうんと冷たいだろう」
「夏だって水は冷たいよ」
「屁理屈だ」
 男は口をへの字に閉じて腕を組んだ。哲樹の歩みに合わせて、裸足であるのも忘れさせる程、軽快な足取りで付いて来る。尋常に流れる水の音。石に当たり小さな飛沫を上げ、或いは緩やかな溜まりで魚と戯れ、抗う事無く、天然自然と沿うている。哲樹の五感が段々と男の存在へ意識を傾けて、気付けば男の足取りに耳を澄ませている。

「ねえ」
「何だ」
「この川を辿ればいいのかな」
「いいのかな、とは何だ」
 哲樹は悩んだ。誰に打ち明ける積りも無かったものを、素性の知れぬ相手へ告白すべきではないと思う。だが常識を持ち上げる裏で、口が心の云い分勝手に押し出してしまった。
「僕は住処を探してるんだ。自分の居るべき場所を」
「家じゃいかんのか」
「そうだったら、いいんだけどね」
 思わせぶりに止めて、尻尾だけ隠してしまう。
「ませてる」
 男ははだけた胸元から腹にかけてを掌でさすって、臍まで下りるとぐるぐる撫で回した。二人して立ち止まって、男は少し高い岩肌の上から、哲樹は川縁の道とも云えぬ処から、互いを見合っていた。哲樹は口を結んで若さに滾る眉を日の下へ明らかに、黒目は挑むように強い光放っている。後ろを辿っていた筈の男は、いつからか哲樹より上流へ立っていた。
「迷子だのう」
 呟いて、目を細めた。


 先に立った男は、大岩の居並ぶえらく険しい道であろうとひょいひょい渡って行く。時々後ろの哲樹振り返っては、どうだ、付いて来られるかと云わんばかりである。哲樹が立ち止まると、まるで挑発する様に岩の上から見下ろしている。なんだ、こんなのも越えられんか。そうそそのかされている気がした。息を整えた哲樹は、ちらり男を見上げて於いて、またぐんと足を出した。川の水は自ずと奇麗であった。水流が絶えず奏でる音楽は、木々の伸びやかな重奏と共に、二人の耳へ心地好く届けられた。


 負けん気起こして我武者羅に足を働かせる哲樹であったが、そろそろ息が続かない。あんな誰とも知らぬ男の挑発なんぞに乗っからず、いい加減で足を止めて休もうか。そう考えた時、とんと軽やかな音と共に男が哲樹の傍へ舞い戻って来て、休むか。と歯を見せて笑った。
「まだ歩けるよ」
 天邪鬼持ち出すが、膝が笑っている。脛がじんじんする。男は木々の合間に覗く空を見上げた。
「日暮れだ。これ以上は危ない」
 そこで哲樹もやっと、太陽はとうに世を割り明日の頂へ落ちていた事を知った。道理で足元が覚束無かった筈である。

 男は夜を越すのが上手かった。軽々と火を熾したと思うと、いつの間に獲ったか岩魚いわなを三尾懐から取出して焼いた。川と云うより沢と呼ぶのが相応しい山中の流れから暫し距離を取り、雨露を防ぎ体を横たえられるだけの場所を誂えた。対して哲樹は山には無知であった。水筒のお茶も残り少ない。食料も鯖味噌缶を一つと、後はお菓子であった。不釣り合いだとは思ったけれど、リュックの中を漁って紙製の箱を取り出すなり、一粒男へ差し出した。
「何だ」
「あげる」
「ん」
「キャラメルだよ」
 哲樹は笑いながら、戸惑う男の手へキャラメルを落とした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 御礼を云うのは自分の方だと思った。照れ隠しに妙なのが出たと思った。


 山の肌は朝露たっぷり戴いて、しっとり濡れそぼっていた。
「まだ上へ行くのか」
「始まりが見てみたい」
 水の始まりを。何故だかそんな希望抱いていた。いまだ自分の住処見つけられずにいるが、質問されて、するり口から滑り出た。男は哲樹を足の指先まで観察して、すくと立ち上がり、行くか。と云った。


 黙々と登った。と云うより、口で遊ぶ余裕は無かった。清らかなる水の景観とは裏腹に、その道のりは険しく、渓流とは付かず離れずの距離が要る。足元迄借りもので、自分は随分浅い考えで踏み込んだのだと思い知らされた。哲樹は顔を上げた。男は今日も裸足で意気揚々と岩を駆け上がってゆく。付き合う道理も無いだろうに、それとも気紛れなのか、疲れた素振りも見せず楽しげでさえある。


 とうとう二人して山頂付近、木々の生い茂る深い場所へ辿り着いた。風が柔らかい。哲樹はもっと激しいものと思っていた。だがその始まりは限りなく静かに、まるで緑の営みへ寄り添う様に湧き出していた。雄大なお山の呼吸の様でもある。
「ここだな」
 哲樹は目を凝らした。僅かの日を煌めかせては生まれ落ちて行く始まりの場所である。
「ふうん」
 息を忘れた癖に、胸の鼓動昂って仕方なかった癖に、ふうんと来た。男は笑った。
「触ってみるか」
「いいのかな」
「無論だ」
 哲樹は遠慮がちに腕を伸ばした。指先から手首まで、ひたりとした感触が伝う。
「冷たい」
「そうだろう」
 賛同が、心地好く背中を押して、心が自然と共鳴した。
「美しいね」
「そうだろうとも」
 哲樹は心の底から溢れ出す水を美しいと思った。静淑せいしゅくな命の輝きを自らの手で受け止めつつあるこの瞬間を幸せだと思った。惜しみながら手を引き込めた。
「頑張った甲斐があったな」
 引っ込めたばかりの掌へ、銀色の鶴が落とされた。キャラメルの包み紙であった。
「褒美だ」
「ふふ、ありがとう」


 二日がかりで辿り着いた。苔した岩肌。木漏れ日。安息の風。あんまり清らかで、長居は遠慮しなければと云う気がしてくる。
「じゃあ帰る」
「ほう、帰るか」
 家は自分の居場所じゃないと言い張った。しかしたった今口を衝いて出たのは素直な二字であった。
「よかろう」
「おじさんは時々変な言葉を使うね」
「おじさんとは失礼な」
「じゃあ幾つ」
「二十五」
「嘘だ」
「嘘ではない」
「何処に住んでるの」
「どうした、急によく回る舌だな。油断すると足を滑らせるぞ。黙って降りろ」
「うん」
 男は山の途中でお別れだと云った。哲樹は分かったと答えた。雲が少し増えてきた。風に湿度が含まれて素肌に纏わりつく。やがて麓迄の道が見えた。お別れである。
「じゃあな」
「うん」
 視線を下げてあ、と思う。借り物を履いたままである。
「いい。餞別だ」
「―うん」
 促されて、哲樹はくるり街を向く。後はもうずんずん下って行った。振り返るには、感傷的センチメンタルに過ぎた。


 見送った男は軽やかに足を回して山の奥へと引き返す。衣服の下で、みるみる皮膚が青味を帯びる。口笛が聞こえる。余程愉快な思いをしたらしい。足裏が弾む。弾んだ拍子にぱっと水かき現れる。ズボンが脱げた。シャツが風に攫われた。天からぽつり、ぽつり、とうとう降り出した。口笛は益々陽気になる。よく響くと思えば、大きな嘴の現る。長い手足も隠れようが無い。

 少年済まぬ、一つ嘘を吐いた。千と二十五だ。怒るなよ、代わりに随分楽しかった。また会おう。

 雨が導く沼の入口。嬉々として、ざぶんと飛び込んだ。波紋広がる水面、浮び上るは出会いの思い出。此処へ置いて行こうぞ。元より行く当てはない、とうから迷子な人生の、一つ目印としようか。

                           

                        ―完―

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