見出し画像

短編「戯れに蛍、知らぬ間の夜」

 都を離れて山へ入ればそこら中飛んでいるよ

 誰が言ったものだか、ささやくようにずっと耳の奥で繰り返される台詞。そのあやふやな声を頼りにして、ともかく私は蒸し暑い京の都を訪れた。


ー戯れに蛍、知らぬ間の夜ー

 相変わらず人の多い京都駅から電車を乗り継ぎ、後はタクシーを捉まえた。額に吹き出す汗をタオルで拭いつつ行き先を告げる。運転手は緩やかに車を出した。
「蒸すでしょう、京都は」
「そうですね、蒸し暑い」
「お客さん、どこから来はった?東京?」
「―まあ、新幹線で・・」
「そうですかあ。夕べの雨も上がって、幸いでしたね」
「そうですね、助かりました」

 私が口を閉じたからだろう、運転手もそれ以上話を広げなかった。窓の外へ視線を運ぶ。
 雨模様はどうにか避けられたけれど、空には鼠色の雲が犇めきあって重たい。時折風通しの良さそうな雲も浮かんでいる。風もある。だからどうかこのまま夜まで傘の出番が来ない事を祈っている。
 
 道はみるみる細くなり、あっという間に山道へ入った。そこには既に都の喧騒は無い。運転手と私はぽつりぽつり、口を利いた。曲がりくねった片側一車線を進み続けて数十分。
「この辺りですかね」
「はい。ありがとうございました」

 タクシーを降りて私は早速驚いた。確かに涼しい。街の碁盤の目の中を、人と肩擦れ合いながら窮屈に歩くのとは全く違う景色が広がっている。

 京都・高雄

 高雄は深い山の中だった。紅葉の名所として有名らしいが、今はまさに緑の季節。青もみじが辺り一面へ枝葉を伸ばして揺れている。一口に緑と言っても、みんな違う緑色だ。同じ種でも同じ緑はない。そのすき勝手な緑が集まって、ここにしかない自然の美しさを生み出している。岩も塀も屋根もみんな苔生して、蔦が這って、葉は茂り、のびのびと自然に育まれている。山の裾にへびいちごを見つけた。
 人の手は入る隙が無いのだ。自然の旺盛な息遣いがそこら中から伝わってくる。草の影から姿見せた四つ足の小さな虫さえ、我が物顔で足元を闊歩している。確かに、私の方が余所者だ。

 その息遣いのなんと新鮮で気持ちの良いこと!

 私は静かに深く、何度も息を吸った。

 足元には清流、清滝川きよたきがわ。散策道からも木々の合間を縫って、その清らかな流れを見る事ができる。ゆったりとして耳に心地よいせせらぎ、時には細くうねり、白い飛沫を上げている。雨の季節だから水はやや濁るが、それでも浅瀬は底の石ころがよく見える。足を浸したらもっと気持ちがよさそうだ。

 それにしても水の傍は空気が一層冷たい。夏でも市街地より三度から五度ほど涼しいというのは本当らしい。ここに居ると暑い京都をしばしば忘れる。なるほど避暑にはもってこいの場所だ。

 宿へチェックインを済ませる前に、私はこのまま高雄散策を続けることにした。荷物と言っても背中のリュック一つだから訳はない。避暑地と言っても風流な楽しみ方等知らない私だ。どうせなら平生の不健康を省みて存分に汗をかき、せいぜい山巡りを楽しむとしよう。風に呼ばれて顔を上げると子どもの手のような青いもみじがさらさらと揺れた。

 高雄山神護寺たかおさんじんごじ槙尾山西明寺まきのおさんさいみょうじ、それから世界遺産の栂ノ尾山高山寺とがのおこうさんじ。これら三つの山を称して三尾さんびと呼ぶ。

 行きのタクシーで運転手に聞いたところ、バックミラーで私の姿をちらり見て、きついかもしれないが神護寺がおすすめだと言われた。三百五十段から四百段とも言われる階段を上るらしい。
「えらいきついですけどね、上り切ったら爽快です」
「何かあるんですか?」
「あると言えばあるけど、無いと言えばないですねえ、まあー」
「人それぞれですか」
「そうそう。こればっかりは感じ方やから。でも僕はあそこが好きや。高雄でどこがいいですか?て聞かれたら、やっぱり一番に紹介してます」
「・・・そうですか」

「煩悩がなくなります」


 無駄口は叩かず、しかしどこか人懐こい運転手にそそのかされて、私は長い階段を上る決心をしたーー

 まずは日本最古の漫画を見物するべく高山寺に足を向け、それだけで既に着て来た服は汗でじっとり濡れてしまった。いくら気温が低くてもこちらの肉が厚過ぎるのだ。額の汗が止まらない。
 赤い絨毯、青もみじ、苔生した灯籠。静かなる京の一面を見た。外廊下を歩きながら池を見ていると、池の中央辺りに植わった木の葉に、白い大きな泡の塊がくっ付いている。目が慣れればそれがいくつも見つかる。思わず眉をひそめる。これはなんだ。

「モリアオガエルですね」

 ここの関係者だろうか、向かいの廊下に男性が一人立ってこちらを見ていた。私が質問する前から説明を加えてくれる。
 クリーム色の泡の塊はモリアオガエルの卵。日本固有種だそうだ。夕べ産卵を終えて、ここからオタマジャクシが生まれては下の池へダイブしていくと言う。しかし池の中にはそれをよく知るイモリが大口を開けて待っているから、生き残るのは僅からしい。

「梅雨の風物詩ですね」
「そうなんですか」

 言われてみればそんな固有種が居たような気もするが、恋の季節も命懸けとは・・生きるとは大変なものなんだなと神妙に思う。

「道中お気を付けて」

 柔和なお辞儀で見送られて、私は次なる山を目指した。

 当初の意気込みでは三尾全てを制覇して、清々しい気持ちで宿の湯に浸かるはずだったが、日頃の運動不足が祟って膝が悲鳴を上げている。それに雨に濡れた足元は始終油断ならないから、いつの間にか左足首を痛めたらしい。七割の無念と三割の安堵を胸に、西明寺を断念して、意地で神護寺へ向かった。


 見上げた途端に打ちのめされた。長い。先が見えない。これをずっと上るのか。そう思うだけで足がどっと重くなる。怠けた心が首を持ち上げる。
 だがあの運転手の言葉が、いかにも楽し気な「僕は好きや」が私の胸を衝く。やってみろ、やってやれないことは無いとけしかける。風が吹く。緑が鳴る。

 そうだ、ダメで元々。なんでもいい、上ってみろ。

 私は足を動かした。煩悩を消すべく足を動かした。脂肪を燃やした。その内石の階段に目が慣れていった。

 いつしか私は、山を忘れた。風を忘れた。音を忘れた。

 私自信を置き去りにした

 無心だった。ただ目の前の一段に集中していたから、急に視界が開けた時は、ハッとした。

 肩で息をしながら、ぐずぐずになったタオルで顔中の汗を拭う。

「ーーこれは・・」

 最後の大階段を残して開けた場所へ出ると、金堂を背景に色彩豊かな青もみじたちが枝を重ね葉を重ねて、この上なく美しい絵を描いていた。写真の心得など全く無い凡人な私だけれど、この時ばかりはシャッターを切りたいと思った。


 常になくおごそかな面持ちで拝観を終えた私は、軽やかに階段を下り、そのまま歩いて無事宿へと到着した。最後の吊り橋で前を歩く家族が橋を揺らしにかかるから背中が一気に冷えた。自慢じゃないが私は高所が苦手だ。手すりだけは決して離さなかった。

 私が泊まる宿は川床料理が有名の一つだ。夜八時になると一帯の灯りを全て消す。そうして生まれた暗闇に束の間現れるのが、ゲンジボタルだ。
 蛍を見る
 これが私の今度の旅の最終目的だった。

「あ、茶柱が立った」

 部屋付きの風呂で旅の疲れと汗を流し、一息つこうとお茶を入れると、湯呑茶碗の中で一本ゆらゆら立っていた。私はそれを機嫌よく啜った。

 提灯の灯る川床で夕食を頂き、宿客の頬が赤く染まる頃、とうとう一切の灯りが消されて、本来の夜が戻った。

 あ

 より深い暗闇から、少しずつ、少しずつ、幻のような光が明滅しては広がってゆく。それは徐々に範囲を広げ、好奇心旺盛なのは客のすぐ目の前へも飛んできた。どこにいるかは見えない。けれど光放つその瞬間だけは確かにそこへ居る。

 つーと横切り、消灯。つーと戯れ、隠れる。儚い命はいつまでも惜しみなく光を放ち続けるのだった。


 その晩は布団へ横になった途端に意識を失った。深い眠りに落ちたまま朝までぐっすり眠ったのだと、思う。少し自信が無いのは、朝目が覚めた時、浴衣の裾に土が・・・いや、なんでもない。

 朝食を終えれば荷物をまとめて後は帰るだけだ。未だ筋肉痛の気配さえない足で旅館の送迎バスに乗り込むと、今日も燻る梅雨空が、しきりと雨雲を並べていくようだった。もうじき降り出しそうだ。いい時に来た。

「都を離れて山へ入ればそこら中飛んでいるよ」

 誰に聞いたかとんと思い出せない。けれども本当だった。もう二度と見ることは無いと思っていた、子どもの時分に捕まえて随分こっぴどく叱られた蛍に、何十年の時を経て、再会することができた。モリアオガエルの卵がよかったか、階段で煩悩落としたが良かったか、茶柱が良かったか、さっぱり見当もつかないけれど、心から喜ばしい旅だったと、大変満足して私は高雄を去った。

 

 
 月の無い夜はうってつけだ。心燥ぐ。心躍る。体が疼いて仕方がない。もういいかい。まだだよ。彼は言う、合図を待たれよと。

 つり橋を揺らすな。影を生むな。闇に溶けろ。君を鎮めろ。煩悩は命の証。茶柱は宵の宴の招待状。お気に召してくれたかな

 生きよう
 諸君の命だ遠慮はいらない。ムカデは主の御挨拶。子猿も山を走る。さあ、目が慣れたら柏手を打とう。大丈夫、もみじが姿隠してくれる。ありのままでいい。


 あの子が舞った。つーいと光った。あの子も飛んだ。遂に飛んだ。世界の合図だ、それ飛び出すぞ。がたんと案外音が響く。構うもんか。闇に乗じて抜け出す頭、幾匹。誰が描いたか自由自在。
 いち、に、さん、し、ご、ろく、しち・・ぽちゃんと池。失敬。波紋避けるアメンボ家族。挨拶するイモリ。どきどきするモリアオガエルの子どもたち。まだ姿見せられない。

 彼女は月に忘れ物取りに行こうかどうしようかとまた迷う。私の帽子どこ行った?鬼ごっこの続きしよう。どっちへ居ても結局騒がしい。あっちでうさぎとカエルの大相撲。こっちでもハッケヨイ。鬼ごっこ組どこ行った。まだ階段の途中。朝までに戻るって。

 どうだい?気に入ってくれた哉?
 不意に聞かれて夢うつつ。こくんと頷く初夏の晩。しゃがんだ浴衣の裾、よろめくうさぎ、ごめんちょっと踏んじゃった。御愛嬌。いいよいいよ、大丈夫。まだぐっすり眠るんだ。それがいい、おやすみ。戯れに蛍、後ろ髪引かれながら小さく手を振る。

 朝が来るまで 京の高雄の知らぬ間の夜は続く

                           おしまい









この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

眠れない夜に

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。