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短編「暮れなずむ朝顔列車」


 ドアが閉まります、ご注意下さい。

 発車間際にホームへ降り立った僕は、一番手近のドアから体を車内へ滑り込ませた。ベルが鳴り、間もなくドアが閉まる。ぎりぎり駆け込み乗車じゃない積りだけど、注がれそうでこちらを見ない視線が勝手に痛い。車両を一つ移動して空いている席を探す。

 平日、昼間。乗客疎らな車内、空席は直ぐに見つかった。四人掛けのボックス席を一人で占める。走る程に深い緑に囲まれてゆく、かなりのローカル線。一本逃すと、次は一時間以上先だ。車輌も古く、ボックス席の窓も開け閉め自由。天井では昔馴染みの扇風機が首をぶんぶん振っている。その上クーラーまでついている。効き過ぎて寒い位。乗り換時間に余裕があると油断した僕は、移動するホームを間違えた。乗るべき列車が来るのは向かいのホームだと気付いたのは、列車が駅へ入って来てから。慌てて跨線橋こせんきょうを走り込んで間に合った訳だけど、キンキンの車内の御蔭で噴き出した汗はみるみる冷えていった。

 外は夏日。線路の上には陽炎が立つ。僕はボックス席を独り占めしているので、自分好みに窓を少し開けた。追い越す樹々の合間から、蝉の声が盛んと響いて脳を刺激してくる。都会じゃ聞かない鳴き声も刹那の風と混じり合い、心が懐かしいと揺れている。

 何年振りだろう。

 母方の曾祖母が体調を崩したと母親から連絡を貰ったのは、ひと月も前の事だった。曾祖父は一昨年往生しており、それから曾祖母は一人で暮らしている。曾祖母は気丈夫な人で、幾つ歳を重ねても背筋はしゃんと伸び、自分の足で達者に歩く人だ。毎朝畑に立ち、作物の世話にも余念がなくて、近所の家の若い夫婦が教えを乞うたり、その縁で地元の小学校の運動会に参加してみたりと、それはもう元気なお年寄りとして、ちょっとした有名人のようだった。風邪知らずの仙人みたいな人だといつの間にか思い込んでしまっていたから、母親からの連絡は、僕には衝撃だった。直ぐにでも会いに行きたかったのに、思う様に休みを取れなくて、調整にひと月もかかってしまった。ようやく二日間の休みが取れたので、夕べの内に母親に曾祖母を訪ねる旨連絡を終えて、母からは午後には自分も行くと云う返事があった。


 列車が走り出して向こう、ずっと窓の外を眺めている。殆ど緑の世界。木が立ち並び、草が生い茂り、自然任せの風に揺られ、ざわめく。その中に電柱が点在して、横に線を切る。線路の傍には川がある。路線自体は長いけれど駅の数は少なく、まるで渓谷巡りのようなローカル線は、中途の一箇所で、大掛かりな橋によって川と交差する。深い谷底をどうどうと流れる白波とエメラルドグリーンの美しい水流が高架の下を行く様は、激しく、また荘厳だ。陽が高く、今日は天気もいいので、山は映え、水流は美しく、きっと勇壮な輝きを魅せてくれるに違いないと期待している。

 こんな山の中でも、不思議な事に家は絶えない。ひたすら続く自然の中へ家が建つ。よくぞこんな土地へ建てたものだと感心するような場所へ立派な様子で建っている。屋根が葺いてある。洗濯物が並んでいる。見覚えの或るような家、まだ目新しい壁等順繰り瞳に映しながら、おでこに外の風を受けて揺られていると、一段と濃い緑の群れが目に入った。杉林だ。あの一帯を通り過ぎると、例の大橋を渡り、線路は次第に山を離れ、今度は人の集まる町の中心に近付いて行く。住宅の他にも、アパートや農協が見えた。「盛夏」の文字を掲げた昔からのラーメン屋もまだ残っていた。冷やし中華の味を思い出して、途端にお腹が空いて来る。


 愈々いよいよ僕の降りようとする無人駅に近付いて来た頃だった。不図ふと目線を車内へ移動させて、一番先のボックス席の横へ、朝顔の鉢が置いてあるのに気が付いた。この車両へ移動した折にも既にそこへ在ったか覚えがない。途中三つの駅へ止まったから、その内の何処かで乗せられたのかも知れない。いずれにしても、手で持ち運ぶにはサイズが大きい。僕は体を気持ち通路へ片寄せて、前方の朝顔を観察した。昼間で殆どの花は臍のように窄ませてしまっているけれど、一輪だけ大きく広がったものが在る。青紫の濃い、鮮やかな装いだ。

 朝顔といえば、曾祖母は毎年玄関の隣へ朝顔のカーテンを作っていた。久しぶりに見られるかな。なんて想像しながら、車内の朝顔をしみじみ眺めた。一体どんな人が運んでいるだろう。僕の席から客の姿までは見えない。鉢も漆黒の陶製で、小学生のプラスチックの青いのとは違って趣が在る。駅前の花市で買ったのかな。支柱に絡む蔓と、黄緑色の大振りな葉。列車の揺れに合わせて、ひらひらすとんと揺れ踊る。涼し気でいいなあと思った。


 無人駅について、とうとう席を立った。朝顔の持ち主をちらりとでも眺め見たい好奇心から、僕は最短の扉では無く前の扉目指して歩いた。鉢を蹴り飛ばさないよう注意している風を装いながら、顔をちらりと向けて見る。そうして初めて、そのボックス席に誰も座って居ないことを知った。勝手に背凭れから頭も出ない小柄な人を予想していたんだけど。

 さては忘れ物だったか。慌ててステップを降りて、ホームに車掌の姿を捜す。ワンマンだったから車掌は居なくて、運転手がホームへ降りては切符を回収していた。僕は自分の切符を渡しながら、朝顔の鉢の事を伝えた。運転手は礼を述べて、車輌の方へ顔を向けた。朝顔のあった席を外から指で示すと、運転手はもう一度丁寧に礼を述べて、他に降りる乗客の居ない事を確認すると車内へ引き返し、一先ず朝顔の鉢を確認するみたいだった。無事に持ち主の元へ届くと良いなと思いつつ、僕は僕で自分の持ち物を確認して、曾祖母の家へと歩き始めた。


 一歩近付くごとに、思い出が甦る。懐かしい光景が目の前に広がっては、少年の自分が半ズボン姿で駆けっていく。三角頭の銅像が建つ公園。建物の一角が鋭角な文房具店。空色の郵便ポスト。表へ設楽焼の狸を七つ並べる民家。一つ再会果たす度、今日まで色んなものから遠ざかっていたんだと気付かされた。

 この町を訪れる度通った駄菓子屋が、看板こそ掛け替えられていたもののまだ健在で、思わず口角が上がる。僕のお気に入りは糸の先にくっついた色とりどりの飴と、銀紙に包まれたくじ付きのラムネ。憧れは壁に掛かるスーパーボールくじの大玉だった。まだあるのか、店へ入って無性に確かめてみたくなるけど、まずはひいばあちゃんの顔を見て安心したい。僕の足は歩幅を広げて先を急いだ。

 最後の細い坂道に差し掛かると、曾祖母の丹精する畑が見えて来る。作物は照り付ける太陽にも負けない位、旺盛な様子で僕を揚々出迎えてくれた。僕は西瓜が大好物だ。畑から曾祖母が抱えてくる西瓜はいつも立派なサイズで、冷蔵庫で冷やせないから、外の大盥に井戸水を汲み上げて冷やしていた。今年も作っているんだろうか。それとも体調の為に止めているかな。けれど、目の前にはトマトの赤いのや茄子の黒光りしたてっぷり丸いのが、防虫ネットの隙間からちらちら見える。畑の奥へ入れば西瓜もあるかも知れない。考える間に玄関まで辿り着いた。朝顔のカーテンは無かった。

 曾祖母の家にはインターフォンが無い。玄関の鍵をかける習慣もなくて、勝手知ったる人達はみんな玄関をからからと開けては声を張り上げる。僕は一旦深呼吸した。あんまり久し振りだから、一寸身構えてしまっている。
 よし。
 からりと引き戸を開けた途端、懐かしい白檀の匂いが僕の全身に降り注いだ。思わず、ただいま!が口を飛び出していた。

 曾祖母は元気だった。暑い中よく来たと、数年振りの再会をとても喜んでくれた。僕の持参したお土産の水まんじゅうを、早速硝子鉢に張った氷水へ落としてくれた。それを居間へ運んで、膳の上で、お玉で一つ掬い上げては硝子の小鉢へよそってくれる。お腹を冷やすといけないからと熱い煎茶も淹れてくれる心尽くしで、暑中見舞いに来た筈が、すっかり僕がもてなされてしまった。

 夏座布団のい草が肌に触れて心地良い。縁側の扉を開け放ち、簾のかかる居間で、蚊取り線香の匂いを嗅ぎつつ、涼やかな卓上を二人で味わいながらお茶をした。こんなにゆっくり時の流れる場所を、僕は他に知らないと思った。

 話を聞いていくと、寄る年波で体調位崩れることもあると云ってはにこやかに笑った。畑は出来る範囲で世話をしているけど、朝顔のカーテンは、種採りが難しくなったから止めにしたと云って、少し寂しそうだった。けれど、まあ大丈夫、ありがとうと云われてしまっては、それ以上僕には踏み込めなかった。元気そうな曾祖母の顔を見る事が出来た事に、先ずは満足しようと思った。


 午後には母もやって来て、曾祖母と腕を揮ってくれた。三人で夕食を囲った。

 夜。夏の夜は外がいつまでも賑やかだ。母と二つ並べた布団、と云うのも不思議なものだけど、僕らは各々横になった。曾祖母も既に横になって、家の中はしんとして、床を踏めば軋んだ音がそこら中に響くような具合だった。

「母さん、まだ起きとる?」
「なにあんた、眠れんのん?」
「いやそうじゃあないけど」
 普段地元の言葉を置き去りにしている僕も、母や家族と顔合わせると意識しなくても出てくる。一息にそれが標準になっている。母は元よりどこに住んでいても生まれ育った土地の言葉が付いて回って平気な人だ。
「なにい、どしたんね」
「ひいばあちゃん、元気なん?」
「そうじゃねえ、まあ、見ての通りよ。今はまた元気になったけえ、ああやして動き回っとるけど、歳じゃけえね、いつ何があってもおかしくないんよ」
 僕は寝返りを打った。
「あんたも覚悟だけはしときんさいよ」
「ううん」
 曖昧な返事を背中越しに返す。頭ではよくわかっているけど、張り切って潔く返事出来なかった。僕は又寝返りを打った。
「眠れんなあ」
「ほれみんさい」
 噴き出すようにふははっと笑う母の声が、畳の上に広がった一抹の寂しさを吹き飛ばした。外では昇る月の遥かなること凛として、足元は蛙水辺で賑やかに、夏草の中にコオロギ、キリギリスが鳴いている。深い夜を遠くへ、或いは近くに聞きながら、僕は何だか心がざわめき立った。瞳が冴えてしまって、いつまでも夜を見詰めていた。目が慣れて、不意に、今日会いに来て良かったと、心から思った。


 すっかり小さくなった曾祖母。皺だらけの手の甲は、少し痩せている様に見えた。元気な姿には会えた。けれど母の云う通り、やっぱり僕にもそれなりの覚悟は必要なんだ。どうやら母の目的は、そこに在ったみたい。

 それでも曾祖母は、ぎりぎりまで畑を耕しこの地で生きていたいらしい。それを尊重することが一番の孝行だと云うのなら、僕らは何も無理強いしてはいけない。一緒に住んで欲しいとも思っていない曾祖母。一人暮らしは気ままで楽しいと笑う。それは僕も頷けた。僕もそうだから。目を瞑ってみる。瞼の裏へ眩しい昼間の畑が見えた。

 又会いに来よう。屹度きっとそうしようと思いながら、とうとう僕も眠りに着いた。


 日が暮れそうで中々暮れない、燃えるような茜色の空が遠ざかるひと時。焼けた雲を目で追い掛けて行くと、地球の果ての果てへと吸い込まれそうな錯覚を覚える。なんでこんなに世界は広いんだろうと、途方も無い旅を始めそうになる。

 帰りの列車内。母は盆も終わって家は落ち着いたからもう一泊して帰ると云うので、二人に駅で見送られて、ローカル線へ乗り込んだ。姿が見えなくなるまで手を振って、車内を移動する。客は少なく席は選べるほど空いている。通路の先に視線走らせた時、あっと思った。


 また朝顔だった。行きの列車内で見つけたのと同じように、陶製の鉢に竹製の支柱立てて、絡まる蔓、見事な鉢植えだ。花の蕾も幾つもあって、今度は三つ四つ開いている。それがまた眩しい青紫。美しさに惹かれて、思わず傍の空席へ腰を落ち着けた。そこからなら常に朝顔が目に入る。今日は持ち主も居るかな。妙な気を回して首を伸ばすと、背凭れとすれすれに人の頭が見えた。通路の朝顔へ付き添う様に座って居る。後頭部だけだけど、まるでどこかで会った事あるようなおじいさんだった。一安心して、僕の目線は窓外へ運ばれる。茜色、橙、薄紫、群青。空は壮大なグラデーションがかかって、太陽の傍は一層深く燃えている。急に世界が胸に迫って来て、心が共鳴した。夏の朝顔に夕焼け。これが幸せなんだと思った。僕はまた朝顔に目を向けた。

 静かに揺れる朝顔。その花、その葉、その蔓伸ばす数十センチ。暮れの陽光に照らされて、鮮やかな青紫は淡い紅を纏う。産毛の表がきらきらと光放ち、生きとし生ける物のありのままを現世に映し出す。命の結晶だと思った。

                        
                          おわり





※こちらの短編小説は、2021年7月公開の短編小説を大幅に改訂した作品です。昨年届けたいものが一本に纏まらず怪談バージョンと二本の物語にして公開した作品を、今年は一本で表現できたように思います。過去作品を固定記事で紹介するだけのつもりでしたが、加筆修正して良かったと、作者は一人満足しているものであります。お楽しみ頂ければ幸いです。   いち

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。