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短編「青春の引出し」


 田川さんの悩みは、上手く笑えないこと。社会人も四年目になって、もうそんな、頭抱えなくっても勝手に零れていきそうな大人の嗜みが、田川さんは上手くできなくて、いつまでも上手くできないから、いつまで経っても悩みの種だった。それでも田川さんには、理想とする笑顔があった。それは陽だまりの中に咲くお花のように笑う事だ。にこにことして、柔らかく、けれど、あくまでも姿勢良く、美しく。理想はとっても高くて、想像だけは日々積み重ねているけれど、実行できた試しは無い。きっとチャンスは幾らでも巡って来ていた筈なのに、いつまでも上手く笑えないままだった。田川さんは上手く笑えない自分のことが、ひどく残念だった。


 田川さんには後輩がいる。歳は一つしか違わないけど、社会人一年生だ。笑顔上手の可愛らしい子で、どちらへ顔向けてもその笑顔は絶えることが無くて、田川さんはとても羨ましいと思っている。尊敬もしていた。名前を明石さんと言った。
 明石さんはだからいつだってきらきらと、元気いっぱいに見える。周りの人も明石さんとお喋りすると元気になって帰ってゆく。凄いパワーを持っていると、田川さんはそこにも感心してしまう。そんな明石さんのデスクは、田川さんのデスクの隣だ。

 田川さんは今、上司に書類を提出して戻って来た処で、パソコン画面を呼び覚ました。デスクトップの、定期的に切り替わる画像が、たった今まで荘厳な滝だったけれど、この時丁度入れ替わって、田川さんの目の前で、花の咲き乱れる洋館の写真に変身した。田川さんは思わず「かわいい」と呟いた。お花には目がない田川さんだから、青空を背景に咲き誇る色とりどりのお花たちは、まるでそよ風に謡うように、今にも動き出しそうに見えた。仕事を忘れて、束の間画面に見入ってしまう。そよぐ花に夢中で、目尻に皺を寄せる。
「先輩、お花が好きなんですか?」
 不意打ちで耳に軽やかな声が飛び込んできて、田川さんは肩を跳ねさせた。キーボードの上に被せていた右手と左手とうきうきは、一瞬で固まる。首を回して確かめたいけれど、上手く動かせない。でも、声の主が隣の席の明石さんだとは分かった。自分の事を先輩と呼んでくれるのは、明石さんだけだから、直ぐにわかる。カチコチになった田川さんを気にする様子も見せないで、明石さんは話を続ける。
「私もお花好きなんです。ってかそれよりも、今の顔めちゃめちゃかわいかったです。きゅんとしました」
 え。
 今なんて?
 きゅん?
 って何だろう?きゅん?誰?鳥の名前?

 田川さんはパニックだった。普段全く言われ慣れない台詞を幾つも突然浴びせられて、危うく脳の思考回路がショートする処だった。それだけならまだしも、魂が身体の不具合に驚いて、逃げ出しそうになっている。因みに田川さんの手足は薄い白色で、華奢に出来上がっているから、大事な魂が逃げ出したとなると、本当に唯の抜け殻になってしまう。とこれは本人の思考の片隅で田川さん自身が日頃から考えている事だ。
「先輩?あれれ」
 不器用なパソコンのように固まってしまった田川さんの顔を覗き込むようにして、明石さんが声を掛ける。田川さんはとっくに白旗を掲げている。完全に自分の処理能力を超えてしまっているので、明石さんに向かってにこりと微笑み、大丈夫よ。の気の利いた一言などとても出せそうにない。願わくば明石さんにはこちらへの興味を失って貰い、自席に帰って欲しい位だった。

「明石さん」
 そこへ突然背後から、力強い声が降って来る。二人は弾かれたように揃って背筋を伸ばした。振り返らなくても誰だか分かる。声で、と云うよりも、圧で、分かった。二人はまた揃って首をゆっくり後ろへ回した。案の定先輩女史であった。泣く子も黙る勤続二十年の佐伯女史は、先ず目力が凄まじかった。それに連動して体から溢れんばかりに漲る働き者のオーラは、社内の人間を須らく服従させると専らの評判である。
 田川さんは何も言われない内から謝ろうと思った。一方で明石さんは気を取り直して上手に笑顔を作った。ところが佐伯女史にはどちらも通用しなかった。先ずは田川さんの瞳に一瞥を加えて口を閉じさせ、続けてぐりんと首動かすと明石さんの瞳を掴まえた。
「あなたの私語には慎みが無いわ」
「あ、ごめんなさい。仕事中なのに」
「私語を慎めと言ったんじゃないわ。コミュニケーションは必要だもの」
「それじゃ―」
「問題なのは中身よ。それに声の大きさも。全員が一斉に休憩している訳じゃないのよ。もっと周囲の人間に気を配って」
 明石さんは行儀よく左右の腕を体の横へ揃えて、気を付けで佐伯女史へ頭を下げた。「すみませんでした」と至って素直が出て行く。田川さんは全然ゆとりがないのに明石さんの素直に感心した。

 先輩と後輩、二人は今、田川さんの席の後ろへ並んで立っている。田川さんにとってそれは、ドラマの世界で見る光景だった。人だかりのできるデスク。その中心に座るのは、話し上手の人気者。一緒に居て楽しい人である。集う、という程では無いけれど、田川さんにとっては、二人も同時に自分の周囲へ集まっているこの環境は、もう十分に奇跡なのだった。あんまり不釣り合いで、軽く眩暈を起こした田川さんは、出来れば今すぐ自分のデスクに突っ伏して、現実から逃避したいと思っている。切に願っている。それなのに、明石さんも佐伯女史も、中々その場を動き出そうとしない。田川さんは恐る恐るでも後ろを振り返って、二人に席へ戻るようお願いしようかと考えた。悩める田川さんが身を捩った為に、椅子がぎしりと鳴った。その拍子、佐伯女史が口を開いた。
「よし分かった。一度きちんとした話し合いが必要ね」
「話し合いですか?」
「そう。ミーティングと云ってもいいわ」
「ああ、成程」
「今晩はどう?二人は空いてる?」
「あ、私大丈夫ですよ~大体いつも暇してます」
「暇してますって軽々しく言う子は大体いつも予定がある子よ」
「大丈夫ですよ、今晩は本当に何にも無いですもん」
「いいわ。田川さんの都合はどうかしら」

 そう真正面から攻め込まれても、田川さんの思考は今ひっちゃかめっちゃかだった。自分がどの台詞に呼応してどちらを向き、何を答えれば良いのか、脳の処理がさっぱり追い付かない。とにかく後ろを振り向かなくてはと思うのに、心がどうしても震えて、あと少しの勇気が出せない。そんな自分に直面する度、田川さんは自分が情けなくって淋しくなった。
「先輩、もしかしてもう予定入ってました?」
 左肩から明石さんがひょこりと顔を見せた。田川さんは驚いて首を後ろへ下げながら左側の後輩を見た。
「そうなの?行けるわよね、ミーティングだし」
 今度は右側から佐伯女史がデスクに手を着いて顔を覗き込んで来た。二人の行動は田川さんに大胆過ぎてとうとう目を回す。ここで遂に田川さんの脳は噴火してしまった。右往左往していた脳内処理班の面々は溶岩の如く勢いで溢れて行く。たった一人残された不器用な田川さんだけが頂付近にぽつんと立たされている。風が吹けばこてんと倒れそうな田川さんは、震える二本の足に力を籠めて、
「―い、行きます」
 か弱く、細く、それしか残されていなかった台詞を口から零した。
すると二人はなんだか急に楽しそうな声で、時間だけ決めて、纏まった途端にそれぞれの仕事へ戻って行った。田川さんのデスクは漸くいつもの静けさを取り戻した。田川さんはまるで今まで息するのを忘れていたかのように、ぷはーっと吐き出して、デスクの下で両足を、ネコが爪の先までそうする様にぐいいと伸ばした。緊張していたはずなのに、足首が左右に振れて、親指から小指迄みんな踊っている。妙にうきうきしているのが、自分ながら少し不思議な心持ちだった。

 退社後、一階のエントランスに集合。そう聞かされて、田川さんは遅刻なんて出来るような心臓を持っていないので、約束の十分前には立っていようと、定時にはデスクをそそくさと片付けて、いつもよりがたんと威勢よく椅子から立ち上がると、真っ直ぐにエレベーターに向かった。エレベーターの前には明石さんが居た。早速田川さんに気が付いて笑みを浮かべて手招きしている。どちらが先輩か曖昧なのだ。
「お疲れ様でーす。丁度良かったです。一緒に向かいましょ」
「あ、うん」
 そこへ佐伯女史が歩いて来た。
「早いわね、いつの間に出て来たのよ。気が付かなかったわ」
「安心して下さい、ちゃんと定時迄は働きましたよ」
「当然でしょう。ねえ」
 と云って田川さんに同意を求める佐伯女史。田川さんは思わずはいと頷いて返した。頷いた反動で顔を上げると、佐伯女史がにやっと笑うのが目に入った。田川さんはこの時、少しだけ胸がきゅっとなった。

 集合場所へ三人で移動して、意味がないわねえと笑いながら、佐伯女史が予約したと云う居酒屋へ向かった。田川さんにとって、会社の歓送迎会を除いては、初めての同僚との外食だった。

 会社の近所の居酒屋は、誰のお財布にも優しいのが売りだ。扉を開けると既に数組、スーツを着込んだ会社員と思しき面々が各々グラスを呷っている。緊張感から解放されたとばかりに、げらげらと遠慮なく笑い声を上げている。三人は店員に案内されて、二階の掘りごたつの席へ落ち着くことになった。階段を上り切った時、佐伯女史があんな連中とは一緒に飲みたくないわと明け透けな感想零して、田川さんと明石さんの二人は思わず首を縦に振って、お互いに同じ動きに驚いて、顔見合わせた。

 佐伯女史の座った側から見て右に田川さんが、左に明石さんが座った。ファーストドリンクを聞き終えて店員が去ると、佐伯女史はまだ乾杯もせぬ内から本題に入った。腕をテーブルの端に載せて左右の指を組み、姿勢を伸ばした佐伯女史は、溢れるオーラが少し人間離れしている。向かいの二人はミーティングが始まる前から肩を窄めていた。
「この際だからはっきり言っておくわ。明石さん、勝手に手出ししないで頂戴」
 前置きの無い牽制だったから、明石さんは斜めに首を傾げた。正直であったと思う。釣られるように田川さんも同じ方向へ首を傾げていた。
「田川さんは私の―」
「お待たせしましたー」

 ここで威勢よくグラスを運んで来たのは先程の店員さんだった。佐伯女史の言葉はテーブルの一箇所へどんと置かれた飲み物の下敷きにされてしまう。驚いた田川さんが手を伸ばして飲み物を配る。佐伯女史には生ジョッキを、明石さんへはグラスビールを、そして自分の前にりんごジュースを置いた。二人からありがとうの一言が返って来て、田川さんは口元で小さくいえ、と言った。佐伯女史がジョッキを勇ましく掲げて、
「先ずは乾杯、今日もお疲れ様」
 と言い、二人もグラスを持ち上げて、三人でかちんと鳴らした。佐伯女史の呷り方は想像通り男前であった。明石さんは喉を潤す様に流し込んで、それはそれで絵になった。田川さんは二人が一口目を楽しむのを見届けてから、自分のジュースに口をつけた。かちんと鳴らした、それだけだったのに、ジュースはいつもより美味しい気がした。グラスを下ろすと向かいの佐伯女史と目が合って、思わず瞼を下げてしまう。急に視線を外したので、嫌味でなかったかなと、田川さんは途端に気になって来る。

「さっきの続きだけど」
「はい」
 佐伯女史は然し自分の話を再開させて、明石さんはすかさず相槌を打ち、聞く体勢に入る。田川さんも一度グラスをテーブルに下ろして、ミーティングに見合った姿勢で耳目を傾けた。
「明石さんはちょっとね、一息に踏み込み過ぎると思うのよね」
「何の話ですか」
「田川さんは、私の秘蔵っ子なのよ」
「え、何ですか、秘蔵っ子?何ですかそれ、漬物みたい」
「そんな樽の匂いさせてどうするの。違うわよ、大切に、無暗に壊してしまわない様に見守っているの。謂わばお宝みたいなものよ」
「ああ、成程!」
「だから明石さんみたいにぐいぐい押して行かれると、田川さんが潰されてしまうでしょ。折角の彼女らしさがあなたみたいに崩れたら、勿体無いわ。だからそろそろ牽制しておこうと思って」
「あはは、ちょっと待って下さいよ。今私だけ貶されましたよね。ねえ先輩、私今佐伯先輩に駄目だしされましたよね」
「いいのよ明石さん、あなたはそれでいいの。闇雲に明るいのが売りでしょう。職場も明るくなって丁度いいわ」
「褒められてるかなあ、褒められてるかなあ私。喜んでいいんですか」
 佐伯女史はしっかり頷いて明石さんを勇気付ける。明石さんは腑に落ちない様子だったが、結局頷いた。一方で微動だにしない田川さんである。今日は脳の許容範囲を超える出来事が多すぎて、刻々と流れる世界に付いていけない。「秘蔵」「宝」「守る」は、どれも自分には似つかわしくないと思う言葉だ。それなのに目の周りをぐるぐると回って刺激を与えてくる。田川さんの額にごんごんぶつかっては、文字が愉快そうに踊っている。

「先輩?大丈夫ですか」
 明石さんが隣で口をぱくぱく動かしている。けれど音が入って来ない。耳に蓋がされてしまったように籠っている。
「あら、少し言葉がストレート過ぎたかしら」
 佐伯女史が口では反省しながら生ジョッキへ手を伸ばしている。続いてメニューを取り、明石さんに向かって田川さんのりんごジュースを指差し、何か指示を出している。明石さんは早速りんごジュースを取って、田川さんの手に渡した。
「取り敢えず飲みましょう」
 促されるままに受け取って、ごくごく飲んだら、田川さんも正気に戻った。
「りんごジュース美味しい」
 独り言だった。でも二人は田川さんと一緒になって微笑んでいた。
「ほら、お料理も注文しましょう。好きなもの頼んで良いわ」
「やったあ。先輩、何食べますか」
 はしゃいだ明石さんに釣られて、たくさん注文した。


 田川さんは自分の昔を振り返って、上手く笑えない理由を考えてみた事がある。一番の理由は、自分には学生時代のきらきらと眩しい思い出が無いからだと思った。例えば放課後町の公園に寄り道して、大きな子どもが並んで滑り台落っこちたり、友達の家へお泊りして、悩みを相談したりされたりして夜を明かしたり、一日中校舎のどこかにいるA君の姿を捜してはどきどきしたり。そういう、所謂青春と名の付きそうな思い出が、田川さんには無かった。十代の内にそんな体験をたくさんしてきた人は、きらきらのたくさん詰まった引出しを持っている。きらきらのたくさん詰まった引き出しが、青春の引出しなのだ。それがありさえすれば、いくつになっても楽しいお話を披露する事ができて、いくつになってもやっぱりきらきら輝いていられるのだ。田川さんはそんな風に考えていた。
 そんな生き方が、羨ましい、気がする。でも自分には出来ないと思う。きらきらは眩しくて、ちょっとできない。そんなだから、いつまで経っても上手く笑えないのだと思っていた。

 そして、入社して四年経つけれど、田川さんは佐伯女史から褒められた記憶が全くなかった。それどころか、上司ではあるけれど、まだ真面に会話をしたことも無かった。会社での佐伯女史はいつだっててきぱきと手を動かしている。実際に仕事が素晴らしく出来る人だから、周囲の人たちが頼りにして、いつだって忙しい人であった。デスクへ直接書類を渡しに行ったり、人づてに頼まれた資料ファイルを運んだりしたことは何度かあったけれど、届けて礼をして、終わりだった。受け取る時にありがとうとは言われていたものの、田川さんは小さくいえ、と返すのでいつでも精一杯だった。ただ、佐伯女史があまりに忙しそうなので、少しでもサポートになればと思い、渡す前に書類を整頓しておくとか、少しでも閲覧しやすいように手渡す書類の向きに注意するとか、お疲れでしょうが頑張って下さいという意味を込めて、いつでも丁寧にお願いしますと言うようにしていた。目を見て言えたことは無かったけれど、もしかしたら佐伯女史のありがとうは、小さな気遣いに対しても含まれていたのかもしれない。


 注文した料理が次々と運ばれてくる。佐伯女史のジョッキは景気よく空いていく。明石さんは二杯目から酎ハイに入った。またテーブルに料理が一品やってきた。
「あれ、誰かたこぶつ頼んだ?さっきたこわさ食べたのに」
「だってたこ好きだけど、たこわさ食べられないですもん」
「何でよ」
「わさびが無理です」
「子どもか」
「だってつーんって来るでしょう。なんでわざわざつける必要あるんです?鼻が痛いだけじゃないですか」
「そのつーんが良いのよ。ねえ」
 と云って佐伯女史は田川さんに話を振る。横から明石さんもすかさず同意を得ようとする。
「先輩はわさび平気ですか?幾つの時に食べられるようになりましたか?」
「ええと・・・三日前かな」
「ええっほんとに!?」
 田川さんは恥ずかしそうに頷いた。本当だった。三日前の休日、実家に偶々顔を出して、母親が夕食に刺身を出した時、食卓には生のわさびが置いてあった。お取り寄せしたと田川さんのお母さんは言った。田川さんはそれを見て、不図、わさびを試してみようかなという気持ちになったのだ。今まで鼻につんと来るのが苦手で、使った事はなかったけれど、この時初めて食べてみようかなという気になった。下ろしたてのわさびは美味しかった。つんとくるのも段々癖になった。田川さんは図らずも三日前の晩に、わさびを好む人に変化していたのだった。

「へえ、いいなあ。大人ですね。私はまだまだ先かな」
「話聞いただけで涎が出るわね」
「ちょっと止めて下さいよ佐伯先輩。大人の慎みどこ行ったんですか」
「冗談よ。それより明石さん、あなた何磁石なの?段々田川さんの方に近付いて行ってるの、気が付いているかしら」
「えーいいじゃないですか別に。今日は親睦会ですよね。垣根無しですよね?」
 そう言って明石さんは田川さんの腕を掴んだ。田川さんはずっとミーティングだと思い込んでいたので、いつから親睦会になったのか不思議であった。けれどその不思議は置き去りに話は進んで行く。
「だから私の田川さんに気安く話かけるなっての」
「ええー。佐伯先輩のものじゃありませんよお。そうだ、それじゃ同盟にしましょうよ、三人で。田川さんを見守る同盟」
「愛でるじゃないの?」
「あ、そっちです」
 二人は遂に意気投合して乾杯した。出遅れた田川さんもグラスを持つよう求められて一緒に乾杯する。二人はにやにやしながら盛り上がっている。
「ビール飽きたな、明石日本酒いける?」
「日本酒は駄目です、すぐに真っ赤になっちゃうもん」
「飲めない訳じゃないと。田川さんは?」
「―実は、日本酒だけ、飲めます」
「なんだー早く言ってよ。もっと早く切り替えれば良かった」
「私は飲みませんよ、真っ赤になるんだから」
「はいはい。すみませーん」

 佐伯女史はフロアに向かって声を張り、店員を呼ぶ。田川さんはテーブル上の呼び出しボタンをそっと押した。店内はいつの間にか賑やかであった。佐伯女史と明石さんはお猪口の数を相談している。明石さんは一口位は飲みたいそうで、結局三つに落ち着きそうだった。田川さんは掘りごたつだけれどずっと正座している。膝の上に手を乗せて、先程の会話を頭の中で反芻している。

―待って下さい。三人って変じゃないですか。私も含まれていませんか。三人目はいりますか。そもそもどうして私なのですか―

 田川さんの疑問は湯水の如く溢れるが口からは順に出て行かない。すっかり弱り切っている。おでこから頬から耳の端まで真っ赤にして、同盟の行く末をぎこちない肩で見守っている。もしも口を開けたとして、きっとおろおろするだけなのだ。下手に口を開くよりも、小さな笹船のように、流れに身を任せていようと思った。田川さんは静かに顔を持ち上げた。不意に眺めていたくなったのだ。

 向かいの佐伯女史はこんなに笑う人なんだと初めて知った。目尻に皺を寄せて、口をにかっと開けて笑う。そしてもっと面白い時には体を斜めに傾けて揺らしている。崩れた目尻が可愛いらしい人だと思った。隣の明石さんは相変わらずきらきらしている。お化粧も上手なんだと、近くで見て知った。今度相談に乗ってもらおうかな。そんな気持ちになった。

 もしかしたら、いつからだって関係ないのかも知れない。今からでも、全然遅くないのかもしれない。
 青春の、きらきら眩しい引出し。

 注文していた一合がやってきた。お猪口も三つやって来る。田川さんは徳利を手にして、えいと自分に号令をかけ、瞼を持ち上げた。視線の先で佐伯女史が目を瞬いた。そして、お猪口を持ち上げると目尻を崩した。ありがとうと言葉にされてみて、佐伯女史がいつだって必ずこちらの目を見て御礼を述べていてくれた事を知った。田川さんは胸が熱くなった。佐伯女史がお返しをすると手を伸ばす所へ、明石さんが自分が注ぎますと横から手を伸ばす。
「ここは私でしょう」
「いえ、今度は私が、後輩なんで」
「今夜は垣根無しってあなたさっき言ったじゃない」
「そうでしたか?もう忘れました。酔ったのかな。田川先輩、お注ぎします」
「だから私に任せなさいって」
 田川さんは一体どちらへ徳利を渡せばいいのだろうと思った。いっそのこと、自分は三合位平気に飲みますと、言った方がいいのかな、言わない方がいいのかなと、愉快な悩みをいつまでも額の上に乗っけて、楽しそうに笑っていた。

                            おしまい


※こちらの短編小説は昨年掲載短編の再編集版です。

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