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短編「君の儒艮を受け取れない」

「バニラのスティックでコーヒーを混ぜると幸せの風が吹いて来るの」

 海色のカップの中身をかき混ぜながらあなたがそう言って笑う。香ばしい湯気が立つと、僕には確かに幸せの風が吹いて来た。とろけるような甘い香りがした。
「ちょっと甘すぎるよ」
 僕がパーカーの袖口で口を隠すと、あなたは頬を緩めて笑った。魔法のビーンズは海色のソーサの隅に載せられる。あなたはコーヒーに口付けた。そして、カップの縁から上目遣いに僕を見たね。

 あの時僕の心臓は派手に波間へ弾けたんだ。テトラポットへぶつかって、また弾けて、潜った。やがて僕の意識は海中深くに根差して、静かに積もるんだ。時々超音波みたいに僕を貫くの、見える?それが光の粒だよ。あなたの欠片だ。

「見て」
 あなたの睫毛が僕の目線を誘う。
「ああ、散ってるね」
 窓の外では鮮やかに染まった黄色い銀杏が舞っていた。ひらひら折り重なって、千鳥の石畳に色濃い層を作ってゆく。僕等が出会って一週間目の思い出だ。

「家においで」
 あなたは突拍子のない発言でいつも僕を驚かせるんだ。銀杏を眺める僕の横顔に、今度は先制だもの。僕は咄嗟とっさに首を傾げたよね。どういう意味だろうって。ううん、本当は、何となく意味は通じてて、本気かなって思ったのが、正直かな。答え方が分からない僕に、あなたは言った。
「私今ね、三十歳なの」
「うん、知ってるよ。僕は二十二だ」
「私明日ね、長い眠りにつくの」
「どの位?」
「十七年」

 地球が右回りなんて本当は嘘かも知れないし、大地の下はブラジルじゃないかも知れない。一日二十四時間なんて、誰かの幻かも知れない。けれどこれは本当だろうと思った。僕の目があなたの目を信じたんだ。僕は窓の外の銀杏を眺めた。あの黄色結構黒いなって思った。僕は首を戻した。あなたはバニラの香りの中で僕を見詰めて待っていた。又積もった。

「それでいくつまで生きるの?」
「生きられるだけ。寿命なんて人間もみんな違うでしょ。でも、眠っている時に死んだ人は今のところいない」
「ふうん」
 明日無事に眠りにつけたなら、十七年後に必ず会えるという事だ。

「それなら次の三十年は一緒に居られるね。僕の命の保証はないけど」
「お互い様よ」
「でも、だから家に誘ったの?」
「半分正解。二人暮らしってどんなのかやってみたかったから」
「残り半分は」
「私の宝物を上げようと思って。思い出に」
「なんでもう過去になってるの」
「誘ってはみたけれど、来ない方がいい。十七年後、あなたの心はここには無いもの」
「そんなことはない。僕の気持ちは一緒に眠るんだ。隣に居て、何処までも静かに積もる」
 今度はあなたが外を見た。頬杖をついて、そうすると顎のラインがより奇麗に見えた。

「たった一週間で人生を決めていいの?」
「二十二年頑張った上で与えられた一週間だもの」
「好きよ。あなたのそういうところ」
 言ってあなたはバニラのスティックを摘まみ上げると、腕を伸ばして僕のコーヒーをかき混ぜてしまった。
「甘すぎるって言うのに」
 香りだけだからってあなたは笑って、手を引っ込めると僕がチャレンジするのを子どもみたいにじっと待ってるんだもの。僕は飲まないわけにいかなかった。
「アレ・・おいしいや」
「幸せの風が吹いて来たでしょう」
「うん、そうかも」
 僕等は暫くコーヒーを楽しんだ。深いコクと味わいに、甘い香り。そして苦味。いつまでも余韻に浸っていたいけど、いつしか海色のカップの底は鈍い光だけ残す。それを合図に、あなたは首元からネックレスを外して僕に差し出した。

「知ってる?ジュゴンの鰭に見える部分、あれ実は前脚なんだよ。中の骨は人とそっくりでね、五本の指に分かれてるの。さすが哺乳類よね」
「待って待って、おいてけぼりにしないで。ジュゴン?何処から来たの?」
「海洋生物だけど、祖先は陸地に居たの。草を食べる生き物が、進化の過程で水の中を選んだんだって」
「ジュゴンじゃなくて、いやジュゴンだけどそうじゃなくて、ジュゴンの話が今テーブルへ載せられたのはどうしてなの?」
「これ」
 シャランと僕の掌へ乗せられたネックレスの先には、白い欠片が付いていた。透明感はなくて、触れるとヒヤリ冷たい。
「ジュゴンの尾鰭の骨よ。私の宝物」
「宝物?」
「誰にも内緒で持ってなくちゃいけないの。できそう?」
「貰えないよ」
「思い出よ」
「まだ終わってないもん」
「気が済んだら捨ててもいいわ」
「言ってることが滅茶苦茶だよ」
「どうしたって私の所へ戻って来るもの。それが自然であり必然なの」
「それならずっと持っててよ」
「あげるの。それくらいしかないから」
「何も要らないって。一緒に眠る。いや帰る。まずは一緒に家に帰る」
「来ないで」
「さっきは来てって言ったじゃん」
「おいでって言ったの。でもやっぱりなし」
「何、聞こえないな」

 僕は伝票を持って立ち上がった。会計を済ませて帰ろうと思った。ネックレスはテーブルの上に残した。レジに向かおうとした途端、いきなり後ろから抱きつかれた、のかと思ったけれど、後ろから腕を回されただけ。そしてその手にはネックレスがあって、身動き取れない僕の首元に、ジュゴンの骨の欠片がぶら下がった。
「貰えないって言ったのに」
「何?よく聞こえないなあ」
 あなたは僕の手から伝票を奪ってレジに行ってしまった。帰り道は悔しくて落ちたイチョウの葉を踏みつけて歩いた。あなたは大人げないって言って笑っていたね。

                ・


 ねえ、イチョウの葉の形って、ジュゴンの尾鰭に似てない!?

 僕は大きな発見をした気分だったけど、見比べるとあんまり似てなかった。君が起きる前に気が付いて良かった。又馬鹿にされたら悔しいからね。そんな事を思いながら、今日もイチョウの葉を踏みつけてコーヒーを飲みにやって来たよ。

 ねえ、僕が幾つになったか分かる?ちゃんと数えててくれた?僕は君の歳をいつでも即答できるよ。言わない方が嬉しいなら言わないけど。
 でも、あと一年だ。あと一年したら、その時ははっきり言わせて貰う。君の目を見て、両手を掴まえて、押し付けられた分を押し付け返すんだ。

「やっぱり君の儒艮ジュゴンを受け取れないよ」

 それからどうしてジュゴンなのか、今度こそよく聞かせて貰おうっと。一応僕もね、自分なりに調べたんだよ。例えばジュゴンの出産と子育てにはとっても時間がかかる事。その全長は三メートルにもなる事。寿命は七十年くらいって事。骨格を見ると体の後方には骨盤があった名残りの骨が残っている事。人魚と呼ばれていた事。どうだろう、この中に正解のヒントになりそうなものは隠れているかな。いないかな。やっぱり君に教わろう。なにしろ三十年もあるからね。

 にやけそうな頬をつねっていたら、注文したコーヒーが運ばれて来た。ふわり立ち昇る湯気が優しい。僕の鼻先を、甘いバニラの香りが掠めていった気がした。

 ねえ、僕は今、この世で一番面白い恋をしている自信があるよ。


                             おわり


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