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20230914 療養メモ 果たして自分のアウトプットの解像度は?

ここ最近、仕事のことや働き方のことについて考えることが多くなっている。
考え出すと、すごく頭を使うから反動で若干鬱気味になってしまうのが玉に瑕だが。
ただし、これからのことを考えるとどうしても必要なことに感じて仕方がないからだ。
今後の仕事や人生について考えるのに、思考停止状態には危うさを感じる。
というか、危険以外の何者でもないと思う。

周りの人からは、「考えすぎ」と言われることも多々ある。
クリニックからも、「すぐに解決しないことは、考えないようにしましょう」とアドバイスをもらっていた。
しかし、そうすると今以上はあり得ないのだ。
ひたすら、落ちていくだけ。
そういう自動思考って、おかしいのだろうか?

この思考自体が、少し鬱の症状を表しているところでもあるな。

さて、今日は読書をしていてこの言葉を突きつけられた。

本人の「解像度」の高さが、その人のアウトプットの質を決める。

「自分の仕事を作る」 西村佳哲 ちくま文庫

noteを初めて、ほぼ毎日、約3年間書き続けている。
約3年間、アウトプットし続けている。
その前は、facebookにほぼ毎日書いていた。
ただ、交流系のSNSに疲れたこともあり、病気や通院、リハビリの毎日というものをきっかけに、読者の対象を自分としたポートフォリを的な文章を書いてきた。
当然、その時の記録だし、双極性障害の躁鬱の波の中で好不調はある。
他責が強い時は、軽躁状態になっているわけだし、自責が強い時は鬱が強く出ている。
そんなことが、文章から読み取れるようにはなっているから、だからこそこのnoteは自分にとってかけがえのないものになっている。

そんなふうに考えると、自分の状態をセルフモニタリングする解像度が低くなれば、当然ながら病気の再発が近いとも言えるわけだ。

自分を見る解像度=セルフモニタリングの解像度。

アウトプットは、この病気の場合でいうならば、せルフコントロール。
つまりは、自分の決断や行動ということになる。

一生、こうした努力は必要なんだろうな。
そして、それは正解ではないかも知れないけれど、絶対に間違いではないのは確かだと思う。
そして、解像度を上げる努力は必要だ。

自分を測る物差しを持つことの大切さ、それはどんなことにも共通しているのだろう。
無理はできない。
しかし、解像度は上げていきたい。
そのためには、優先順位をやっぱり決めて、行動に移していくしかないんだな。
それができず、いつも立ち止まってしまう。
無駄なことをして、疲れ切ってしまう。
無駄なことをやめるために、やっぱり自分に対しての解像度を上げる、つまりはセルフモニタリングが必要なんだろうな。

読書から、いろいろなことがつながった。
ここのところ、ちょっと鬱の傾向が出ていて、何もないのに辛いと感じることが多かった。
しかし、この読書でちょっと前向きな気持ちになれた。
それを、書き記しておこう。

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