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[#01]難民として狭き門の日本へ、noteに想いをのせて。

みなさま、こんにちは。カンボジアシヌークビル在住のそくあんです。

私たちは同じ地球に暮らすも世界規模でなにが起きているのか知らない。
迫害、紛争、暴力、人権侵害などにより2022年末時点で故郷を追われた人の数は約 1億840万人 。そして、2023年に入ってからもスーダン等で紛争がぼっ発しており、世界全体の強制移動の数は1億1000万人に達しているとのこと。

その昔、私は難民のこどもとして日本にやってきたのです。

日本への難民としての旅立ち、ポル・ポト内戦時代に生き延びる苦難、カンボジア難民としての両親の生活背景と現実、涙ぐましくも語られる過去の出来事、両親が抱えた困難や人生を変えた出来事、無力感と希望の狭間で闘う親子の姿、現状と悩み、不安、介護問題、実際の支援の実態、両親の未来と余生についての考察、同じ悲劇を繰り返さないためにできること。

これらは、カンボジア難民の物語を通して語られる重要な要素で、
両親の困難な旅路と人生を通じて、私たちはは過去の出来事から学び、未来を変えるために行動を起こすべきであることを思い起こさせられます。

実際に起きた事実を知って欲しい。そして、世界中のどこかに心の傷を負って生きている人がいる事を忘れないで欲しい。

それ以上は望みません。
その人の背景を少し知ることで寄り添える愛があります。


「カンボジア難民の越えた困難」



自己紹介


カンボジアのお正月に民族衣装を着た私と子ども。



私は1981年、タイ王国カオイダン難民キャンプ内で生まれました。カンボジア難民の子ども1.5世代として、日本に定住し、両親と3兄弟の家族と共に30年暮らしましたが、2016年に両親を日本に残し、カンボジアシアヌークビルへの生活拠点を移すことになりました。

義務教育や青春時代を日本で過ごした私を形成するアイデンティティは日本であり、第一言語は日本語ネイティブとなり、クメール語も少し話しますがそれほど得意ではないようです。。。

現在は、小さなお部屋を賃貸したり、民泊運営、多拠点暮らしを実現するために日々模索しています。
料理、お酒、珈琲、静寂、音楽、丁寧な暮らしをキーワードに【自分らしい生き方】を実践し各SNSで発信をしてます。

人生は何かを成し遂げなければならないのか、そんな疑問を抱きながら、カンボジアでの子育てと仕事に奮闘しています。
新たな挑戦を求めて、常に前進し成長し続ける姿勢を忘れず、自分の人生を切り拓いていきたいと思っています

みなさんと共に、より充実した人生を追求していく旅を共有できれば幸いです。どうぞよろしくお願いします。


40年前、難民キャンプで生まれた私の物語


私の物語は、40年前、1975年4月17日から1979年1月17日の3年8か月にわたるポル・ポト派政権の大虐殺が行われた時代の始まりです。
1981年、タイサケオ県カオイダンキャンプ内で3人兄弟の長女として生まれまして、当時、母は24歳、父は27歳でした。


出生後の様子

カンボジア難民はなぜ日本へこれたのか


なぜ私たちは難民受け入れ枠の狭い日本に来ることを選べたのでしょうか。この理由については、次章「#02」で詳しく説明します。
そして、1987年9月1日、私たちカンボジア難民の59期生は28名と共に成田空港に到着し、日本への上陸を果たしました


第三国定住定住は極めて重要な保護手段・解決策の一つであり、緊急性の高いリスクに直面している脆弱な難民を保護・支援する、UNHCRの中核的な活動の一つで、すでに難民キャンプで生活するなどして難民となっている者を、別の国が受け入れる制度。国連難民高等弁務官事務所 は、自主帰還、庇護国への定着と共に、難民保護に必要不可欠な手段として挙げる。

UNHCR

私たちの新たな始まり


私たちは都心からそう遠くない神奈川県大和市にある「大和定住促進センター」に家族と共に59期生として入所することになりました。このセンターは、簡易的に建てられた2階建てのプレハブ棟で、日本政府が運営していました。入所期間は6ヶ月間(180日)と定められており、日本の実社会で困ることがないように、日本語を中心としたカリキュラムが用意されていました。

この施設では1980年2月から1期生の難民受け入れが始まり、最終期の101期生の入所は1997年7月まで続きました。カンボジア、ラオス、ベトナムの三民族の総計入所者数は2641名となります(カンボジア: 1217名、ラオス: 857名、ベトナム: 567名)



59期生の修了式/中央黒服が母


私はカンボジアに移住する


施設での半年間のカリキュラム修了後、両親が神奈川県の田舎町で車部品製造業への就職が決まり、退所することになりました。退所後は家族だけで慎ましい生活が始まりました。

そして、私は1987年の幼少期から大人になるまでの30年間、日本で暮らし、様々な経験を経て、子ども3人とクメール人男性と一緒に2013年と、2016年の2度カンボジアへ移住してます。
日本人には馴染みのないシアヌークビルという小さな港街は、手つかずの自然が残り、秘島や白浜の海が広がっていますが近年は中華系進出もあって街中はホテルカジノや中国表記の文字が目立つようになりました。


近所のインデペンデンスビーチ


シアヌークビルの地図を見てみましょう。
プノンペンの南下に位置し、プノンペンとシアヌークビル間の総距離は約230kmあります。
2022年11月11日にカンボジアで初めての有料高速道路が開通し、車での移動時間が大幅に短縮されました。以前は慢性的な渋滞があり、移動には7.8時間かかっていましたが、現在はわずか3時間ほどでプノンペンとシアヌークビルを移動することが容易になりましたね。この変化により、カンボジア人の生活は大きく変わりましたし私自身も気軽にプノンペンに行けるので
嬉しい知らせです。


プノンペンーシアヌークビル地図

ここでは自己紹介をいくつか割愛してしまいましたが次章より時系列的に、
書いています。


次章- 新たなる旅路の選択-


なぜ私が日本を離れてカンボジアのシアヌークビルに移住したのか。
海外移住を考えている方やお子様の教育について考えている方、またはカンボジア全般に興味がある方は、ぜひ私のnoteをフォローしてくださいね。

最後まで読んでくれてありがとうございます☺
SOKOEUN

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カンボジア、時に日本。 知らない世界を学ぶのが好き。カンボジア南部海辺街のシアヌークビルで暮らしてます。 皆様の暖かいサポートをお待ちしております。