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【科学者#066】実験装置に近づくだけで壊した、アインシュタインに認められた科学者【ヴォルフガング・パウリ】

科学者の中には理論を専門に研究し、実験があまり得意ではない科学者がいます。

例えば、第51回目で紹介したリーゼ・マイトナーも理論系の科学者で、実験技能に優れていたオットー・ハーンと共同研究をしています。

しかし、実験が苦手ということだけではなく、実験装置の近くにいるだけで装置が壊れるという伝説を残した科学者がいます。

今回は、実験装置に近づくだけで壊した、アインシュタインに認められた科学者であるヴォルフガング・パウリを紹介します。


ヴォルフガング・パウリ


名前:ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(Wolfgang Ernst Pauli)
出身:オーストリア
職業:物理学者
生誕:1900年4月25日
没年:1958年12月15日(58歳)


業績について

パウリは論文を執筆するよりも、第27回目で紹介したニールス・ボーアや第32回目で紹介したヴェルナー・ハイゼンベルクなど親しい科学者仲間と手紙をやり取りすることを好んだと言われています。

したがって、パウリのアイデアや研究成果の多くは論文として発表されずに、手紙で残されているものが多く、手紙を受け取った人たちによって広まっていきました。

そしてパウリ自身、社会的地位を全く気にしておらず、自分の研究成果が自分の名前で紹介されないことに関しても一切気にしていませんでした。

そんなパウリは、特に量子力学の分野で重要な業績を残したのですが、今回はパウリの排他的原理を紹介したいと思います。

パウリは1924年に、分子線スペクトルの観測結果と量子力学の矛盾を解決するために、新たに量子自由度のモデルを提案しました。

これはパウリの排他原理と呼ばれ、1945年にはアインシュタインの推薦により、「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」でノーベル物理学を受賞しました。


生涯について

パウリ名前は ヴォルフガング・エルンスト・パウリというのですが、このエルンストというのは名付け親であるオーストリアの物理学者であるエルンスト・マッハに敬意を表して付けられた名前になります。

エルンスト・マッハ

パウリの父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者でした。

パウリは、ウィーンのドブリンガー・ギムナジウムに入学し、1918年に優秀な成績で卒業します。

18歳の時には、卒業した2ヶ月後にアインシュタインの一般相対性理論に関する人生最初の論文を発表します。

その後はミュンヘン大学に入学し、アルノルト・ゾンマーフェルトの下で研究を行います。

1921年7月には博士号を取得し、その後ゾンマーフェルトがパウリにドイツ語の百科事典の相対性理論の記事の執筆を依頼します。

パウリは2ヵ月で237ページの記事を完成させ、この記事がアインシュタインによって称賛されます。

アルベルト・アインシュタイン

その後は、ゲッティンゲン大学でマックス・ボルンの助手として1年間過ごし、翌年にはコペンハーゲン大学の理論物理学研究所に滞在します。

マックス・ボルン

1923年から1928年にはハンブルク大学の講師を勤め、排他律や非相対論的スピン理論の定式化を行います。

1925年5月にはローマ・カトリック教会を脱退し、同じ年の12月にはケーテ・マルガレーテ・デプナーと結婚するのですが、1930年には離婚してしまいます。

1931年のはじめには深刻な精神的不調に悩まされ、精神科医で心理学者のカール・グスタフ・ユングの診察を受けます。

カール・グスタフ・ユング

パウリはユング理論の認識論について科学的な批評を行うようになります。

そして、ユングの思想に「意味のある偶然の一致」であるシンクロニシティの概念についての説明を与えます。

1928年には、スイスのチューリッヒ工科大学の理論物理学の教授に任命されます。

1931年にはミシガン大学の客員教授になり、1935年にはプリンストン高等研究所に滞在します。

1934年にはフランカ・バートラムと再婚するのですが、2人の間には子どもは出来ませんでした。

1938年にはドイツによりオーストリア併合され、1939年には第二次世界大戦が勃発し、ユダヤ系のパウリは逃亡を考えます。

そして、1940年にはアメリカに移住し、プリンストン大学の理論物理学の教授になります。

その後1946年にチューリッヒに戻り、1958年にはすい臓がんを発病し、この年の12月15日に病室で亡くなってしまいます。


パウリという科学者

パウリは実験が下手でよく実験装置を壊していたといわれています。

さらに、パウリが実験装置の近くにいるだけで装置が壊れるという伝説が広がっていき、いつしかこの現象をパウリ効果という名前が付けられます。

そして、パウリはこのパウリ効果が現れるたびに喜んだといわれています。

パウリは、アインシュタインの相対性理論に関する百科事典の記事を書き、アインシュタイン本人から賞賛され、その後は量子力学には欠かせない重要な業績をいくつも残してくれました。

しかし、本人は自分の業績については無頓着で、研究成果こそがパウリの最大の報酬でした。

今回は、実験装置に近づくだけで壊した、アインシュタインに認められた科学者であるヴォルフガング・パウリを紹介しました。

この記事で、少しでもパウリについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

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