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【科学者#027】自由な議論の場をつくった量子論の育ての親【ニールス・ボーア】

これまで色々な科学者を紹介してきましたが、今回の人物以上に社交的な人柄で多くの物理学者に慕われた人は少ないのではないでしょうか?
今回は、自由な議論の場をつくった量子力学の育ての親ニールス・ボーアについてです。


ニールス・ボーア

ボーア

名前:ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(Niels Henrik David Bohr)
出身:デンマーク
職業:物理学者
生誕:1885年10月7日
没年:1962年11月18日(77歳)


業績

ボーアは量子力学の分野で様々な業績を残しています。

ちなみに、量子力学とは分子や原子、電子など肉眼では見ることができないものの力学をことをいいます。

ボーアは、「ボーアの原子模型」、「ボーアの量子条件」、「ボーア半径」などボーアの名前が付いたものを多く残しています。

その中でも、「ボーアの原子模型」はラザフォードの原子模型における矛盾を解消するために考案された原子模型です。
この原子模型により、水素原子に関する実験結果を説明することができるようになります。

さらに、この「ボーアの原子模型」による水素原子の第一軌道半径を表す物理定数のことを「ボーア半径」と言います。



生涯について

ボーアは、3人いる子供のうちの2番目で、弟は数学者のハラルド・ボーア(1887-1951)になります。

父親はコペンハーゲン大学で生理学の博士号を取得しており、ボーアに数学と物理学の影響を与えます。
そのおかげもありボーアは、大学に入る前から数学と物理学の才能を開花させます。

コペンハーゲン大学

ボーアは1903年にコペンハーゲン大学に入学し、物理学、数学、天文学、化学を学びます。

そこでは、父親の友人で長年知っていた、クリスチャン・クリスチャンセンに物理学を学び、ハラルド・へフディングに哲学を学びました。

ボーアは昔から、定期的なディスカッションをしていたグループに父親と一緒参加しクリスチャン・クリスチャンセンやハラルド・へフディングに会っており、のちにボーアもこのグループに参加するようになります。

1909年にはコペンハーゲン大学で修士号を取得し、1911年5月には「金属の電子理論に関する研究」で博士号を取得します。

そして、この年にイギリスへ留学します。

はじめは、1911年9月にケンブリッジのキャベンディッシュ研究所のジョゼフ・ジョン・トムソン(1856ー1940)のところに行くのですが、うまくいきませんでした。

その後、1911年12月にアーネスト・ラザフォードと出会います。

ラザフォード

ラザフォードとボーアは異なる性格だったのですが、お互い好意を持っており、ボーアはラザフォードを自分の師としていました。

ボーアは、キャベンディッシュ研究所からマンチェスターのビクトリア大学に移り、原子の構造についてラザフォードのグループと協力して研究を行います。

1912年7月24日には、ラザフォードのグループを去り結婚式を挙げるためにコペンハーゲンに戻ります。

ちなみに、新婚旅行はラザフォードがいるマンチェスターに行き、旅行の合間にラザフォードとボーアは研究の打ち合わせをしています。

1913年には、原子構造の理論に関する3つの論文を発表します。

そして、1917年にはデンマーク王立科学アカデミーの会員に選出されます。


ニールス・ボーア研究所

1921年にはコペンハーゲン大学の研究機関である理論物理学研究所を設立します。

ちなみにこの理論物理学研究所は、ニールス・ボーア生誕80周年の1965年10月7日に、「ニールス・ボーア研究所」と改名されています。

ニールス・ボーア研究所

ボーアは、科学研究所は「若い科学者を教育すること」は切り離すことができないと考えていたので、世界中から若い研究者を受け入れました。

そして、その中でボーアは間違えることをおそれずに自由な討論を行える場というコペンハーゲン精神を作り上げていきます。


1922年には、「原子構造と原子から放射に関する研究についての貢献」でノーベル物理学を受賞します。

そして、1937―1939年には妻と息子と一緒にワールドツアーを行い、アメリカ、日本、中国、ソ連を訪れます。

ちなみに、ボーアの4番目も息子であるオーゲ・ニールス・ボーアも物理学者で、1975年にノーベル物理学賞を受賞しています。


第二次世界大戦

1940年にナチスがデンマークを占領すると、ボーアの母方がユダヤ人の出自を持っていたので、ボーアたちは逃げなければいけませんでした。

そこで、1943年にイギリスの助けによって極秘にデンマークから出国しイギリスへ行きます。
そして、原子爆弾を作るプロジェクトに取り組み始めます。

それから数か月後には、イギリスのチームと共にアメリカのロスアラモスに行き、原爆のプロジェクトを続けます。

実はボーアは、1941年にヴェルナー・ハイゼンベルクから原子爆発に使う原子炉の図面を手渡されおり、その図面をアメリカの研究者に渡しています。

ボーアは核兵器の管理に対して深い危険性を抱いていて、1944年~国際協力の必要性について説得しようとしました。

そして、合理的に平和的な原子力政策を主張しました。


ボーアという科学者

ボーアは、1962年に自宅で心臓発作により亡くなります。

ボーアは、社交的な人がらで多くの物理学者に慕われ、そして世界中の若い科学者を育てました。

そしてボーアの研究所で培われ、世界中に広められたコペンハーゲン精神は、その後の物理学に大きな影響を与えました。

日本からも7人の科学者がボーアのもとで学び、ノーベル物理学賞と受賞した朝永振一郎や湯川秀樹にも影響を受けています。

実は、エルヴィン・シュレーディンガーとも交流があり、シュレーディンガーが波動力学を発表したときは、ボーアはコペンハーゲンに招き寄せました。
そして討論で疲弊し倒れたシュレーディンガーの病床までいき、ボーアは議論を続けたくらい、何かに熱中すると周りが見えなくなることがありました。

それくらいボーアは議論好きで、常にボーアのそばには優秀な学者がいて語り合い、問題について議論し合っていました。
そして、互いに知識や考え方についてやり取りを行いながら完璧になるまで追求するのがボーアのやり方でした。

今回はそんな、自由な議論の場をつくった量子力学の育ての親ニールス・ボーアについてでした。

この記事で少しでもボーアに興味を持っていただけのなら嬉しく思います。




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