【科学者#032】ユダヤ人物理学者を擁護し『白いユダヤ』と呼ばれた量子力学に絶大な影響を与えた科学者【ヴェルナー・ハイゼンベルク】
量子力学の育ての親として、第27回ではニールス・ボーアを紹介しました。
そんなボーアと同時期に活躍し、量子力学に絶大な影響を与え、第二次世界大戦時にはナチス政権下の物理学者としてユダヤ人物理学者を擁護したヴェルナー・ハイゼンベルクを紹介します。
ヴェルナー・ハイゼンベルク
名前:ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg)
出身:ドイツ
職業:物理学者
生誕:1901年12月5日
没年:1976年2月1日(74歳)
業績について
ハイゼンベルクは、量子力学と核物理学で業績を残しているのですが、今回は行列力学を紹介します。
行列力学は、量子力学の理論形式のひとつのことで、量子論をハイゼンベルク描像で行列表示したものになります。
ちなみに描像とは、現象や概念をわかりやすくイメージ化したものを言います。
この行列力学は、マトリックス力学と呼ばれることもあります。
ニールス・ボーアやアルバート・アインシュタインなどの前期の量子理論は、原子構造などを解明することはできたのですが、量子力学的な世界を体系的に記述することはできませんでした。
そこでハイゼンベルクは、古典的な物理描像を捨て、新たに量子力学の理論を作り上げました。
そして、行列力学では運動量の位置などの物理量を行列を用いて表現することに成功し、その後の量子力学の分野に絶大な影響を与えました。
生涯について
ハイゼンベルクの父親は、大学の教員でした。
1906年9月にハイゼンベルクは小学校に入学し、1910年6月にヴュルツブルクからミュンヘンに引っ越します。
そして、祖父が校長を勤める高等学校に入学します。
そこでは、数学、物理学、宗教学が得意で、全ての成績が優れていました。
1914年には第一次世界大戦が始まり、高等学校が軍隊に占領され準軍事組織に所属することになります。
そのため、春と夏には畑の手伝いのため農場で働くことになります。
1918年の農場で働いたときの余暇の時間は、チェスと数学のテキストを読むことに使い、この時期に数論に興味を持ちます。
この年の1918年に第一次世界大戦が終結し、ドイツの状況はさらに不安定になっていきます。
そして、この時期にハイゼンベルクはバイエルンのソビエト軍の軍事的鎮圧に参加しています。
1920年10月には、ヴォルフガンク・パウリ(1900~1958)と共に、
アルノルト・ゾンマーフェルト(1868~1951)のもとで理論物理学の研究を始めます。
1922年6月には、ゲッティンゲンで第27回で紹介したニールス・ボーアの講義に出席します。
1923年には博士号を取得し、その後フェインランド旅行へ行きます。
1923年10月にはマックス・ボルン(1882~1970)の助手としてゲッティンゲンに戻ります。
19243月にはコペンハーゲンの理論物理学研究所のニールス・ボーアを訪れ、そこで始めてアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)と出会います。
1924年9月~1925年5月には、コペンハーゲン大学でニールス・ボーアと共に働き、その後1925年夏にはゲッティンゲンに戻ります。
そして、この年に量子力学の行列力学を発明します。
1926年5月には、コペンハーゲンで理論物理学の講師に任命され、1927年には弱冠26歳でライプツィヒ大学の物理学教授に任命されます。
そして、同じ年に不確定性原理を発表します。
1932年には、「量子力学の創始ならびにその応用」でノーベル物理学賞を受賞します。
この時のハイゼンベルク以外の物理学賞受賞者は、エルヴィン・シュレーディンガー(1887~1961)と
ポール・ディラック(1902~1984)が
「原子論の新しく有効な形式の発見」で受賞しています。
1935年には、65歳以上の教授は退職しなければならないという法律が導入され、当時66歳のゾンマーフェルトはハイゼンベルクを後継者として指名します。
しかしこの当時、ナチスが相対性理論と量子論は「ユダヤ人」に分類していたので、量子論を研究していたハイゼンベルクはゾンマーフェルトの後継者にはなることができませんでした。
さらにハイゼンベルクはユダヤ人物理学者を擁護する立場を取っていたため、マスコミにユダヤ人だと頻繁に攻撃を受けていました。
さらに、ナチス党の物理学者からは「白いユダヤ人」と呼ばれ非難されていました。
1937年4月29日には、出会ってから3ヶ月も経たずにエリザベート・シューマッハと結婚します。
その後、1939年から第二次世界大戦が始まり、ハイゼンベルクはドイツの核兵器プロジェクト(ウラン・クラブ)を率いました。
物理学者のオットー・ハーン(1879~1968)と共に研究をしていましたが、最終的には失敗に終わってしまいます。
そして戦後、ドイツの原子爆弾計画の進捗状況を判断するために、イギリスの情報局秘密情報部によりハイゼンベルクは逮捕され、イギリスのフォーム・ホールに軟禁されます。
そして、1946年にドイツに戻り、マックスプランクの所長に任命され、1970年までそこで働きます。
ハイゼンベルクという科学者
ハイゼンベルクは、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦のドイツで生きぬき、核兵器プロジェクトの中心人物として活躍しました。
しかし、そんなドイツの不安定な情勢の中でも、ユダヤ人の物理学者を擁護したり、マスコミや同じ国内の物理学者から批判されても意思を貫きました。
そんなハイゼンベルクは、行列力学と不確定性原理によりその後の量子力学の発展に大きく貢献しました。
今回は、ユダヤ人物理学者を擁護し『白いユダヤ』と呼ばれた量子力学に絶大な影響を与えた科学者ヴェルナー・ハイゼンベルクを紹介しました。
この記事で、ハイゼンベルクのことを少しでも興味を持っていただけたら嬉しく思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?