【科学者#038】「原爆の父」と呼ばれ、英雄と祭り上げられ、そして政治に利用された科学者【ロバート・オッペンハイマー】
科学が政治のために利用される事例として、第22回目ではオットー・フォン・ゲーリケを紹介しました。
ゲーリケは科学を良い方向に利用したのですが、歴史の中には科学者の良心を政治が悪用した例があります。
今回は、「原爆の父」と呼ばれ、英雄と祭り上げられ、そして政治に利用された科学者ロバート・オッペンハイマーについて紹介します。
ロバート・オッペンハイマー
名前:ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer)
出身:アメリカ合衆国
職業:理論物理学者
生誕:1904年4月22日
没年:1967年2月18日(62歳)
業績について
オッペンハイマーは、理論物理学の分野で多くの業績を残しました。
その中でも有名なのが、ボルン–オッペンハイマー近似になります。
これは、電子と原子核の運動を分離して、それぞれの運動を表す近似法になります。
さらにオッペンハイマーは、星の質量がある限度を越えれば、星がさらに圧縮する可能性を一般相対性理論から導き出されると予測しました。
そして、1939年オッペンハイマーとハートランド・スナイダー(1913-1962)は「ブラックホール」の可能性について論じています。
このことにより、オッペンハイマーは『ブラックホールの父』とも呼ばれています。
生涯について
オッペンハイマーは、ニューヨークの裕福なユダヤ人の長男として誕生します。
父親はイケメンで心優しい実業家で、母親は容姿端麗で穏やかな性格で、パリで印象派の画風を学んだ画家でした。
オッペンハイマーは7歳で私立の名門の学校へ入学し、化学、物理、文学の面白さを学びます。
卒業後はハーバード大学にすぐに入学する予定でしたが、健康上の理由により1年間遅れて入学します。
入学後は4年の学部過程を3年で終えて、イギリスのケンブリッジ大学の大学院に進みます。
そこでは、ヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学とエルヴィン・シュレーディンガーの波動力学を理解して22歳で2編の論文を仕上げます。
そしてこの論文がドイツのマックス・ボルン(1882-1970)に認められ、1926年にゲィティンゲン大学に移ります。
そこには、マックス・ボルンや第32回で紹介したハイゼンベルク、パスクアル・ヨルダン(1902-1980)がいました。
1929年には、アメリカのカリフォルニア州のパサデナという都市にある、カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学バークレー校の両方から助教授の地位を提供されます。
1939年、湯川秀樹がバークレーにオッペンハイマーのもとを訪れます。
実はオッペンハイマーは、湯川秀樹や朝永振一郎のノーベル賞受賞に大きな影響を与えています。
オッペンハイマーは戦後プリンストン高等研究所の所長をしていたのですが、そのとき1948年に湯川秀樹を、1949年に朝永振一郎を招いて滞在させています。
ちなみに、オッペンハイマーの講義は、最初の方は口ごもりながら上手ではなかったのですが、数年後には知的興奮と物理学に対する情熱があふれる授業で学生を引き付け、ほとんどの生徒が講義を2度受講したといわれています。
それと、オッペンハイマーの研究室には10人くらいの大学院生と数人の研究生がおり、毎日1回全員参加の討論があり、オッペンハイマーのもとから優秀な物理学者が排出されました。
1930年代後半から1940年代前半には、ヨーロッパでナチスが勢力を拡大し、多くのユダヤ系の物理学者がアメリカに亡命します。
そして、1942年8月にアメリカの原子爆弾製造計画であるマンハッタン計画がスタートします。
このときの最高責任者が軍人のレズリー・グローヴス大佐(1896ー1970)で、原爆の開発は終始一貫して軍の指揮のもと行われます。
ある日オッペンハイマーのもとに、グローヴスに原爆について解説するようにという政府から指令が届きます。
オッペンハイマーは、質問に対して簡潔に、そして率直に答えます。
その後グローヴスの強い要請により、オッペンハイマーは原爆の開発をすることになります。
1943年の春にロスアラモス研究所所長を任され、優れたマネジメントの才能を発揮します。
1945年5月には、ドイツが降伏したのですが原爆の開発は中止にはなりませんでした。
これは、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相は、ドイツがまだ降伏していない1944年に原爆を日本に使うことを決めていたからです。
軍は原爆の開発を始めたときから、ソ連に対しての軍事力を強化する考えがありました。
科学者たちは「ナチスに先駆け原爆を開発すること」を大義に原爆の開発を続けてきたのですが、原爆の使用の決定については政府と軍の上層部だけで行われていました。
すなわち、原爆を製造した科学者たちは原爆の使用を決定する会議には参加できませんでした。
そして1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で、地球史上初の原爆の実験が行われます。
実験責任者のケネス・ベインブリッジ(1904-1996)は「私たちはこれで全員救われない人間になってしまったなぁ」っと言いました。
原爆は3つ作られたのですが、残り2つは日本に投下されてしまいます。
原爆の父
オッペンハイマーは1947年、プリンストン高等研究所の所長に就任します。
この頃から「原爆の父」と呼ばれ始め、戦争を勝利に導いたとして英雄に祭り上げられます。
その後は、科学および科学政策の解説者として政府職に就きます。
さらに、政府原子力委員会の顧問になり、一般諮問委員会の委員長を務めます。
1949年には委員会として水爆開発反対の報告書を提出し、水爆開発推進派のエドワード・テラー(1908-2003)から恨まれることになります。
1953年1月には、アイゼンハワーの共和党が政権を取ると状況が大きく変わってきます。
同じ年の5月に、雑誌にオッペンハイマーを中傷する事実無根の匿名記事が載ります。
さらに同じ年の11月には、戦略爆撃の支持者が「オッペンハイマーはソ連のスパイである」と根拠がない告発状を大統領に送ります。
そして、12月にはオッペンハイマーの公職追放が決まります。
オッペンハイマーは、名誉をかけて公職の資格再審査を要請し、1954年4月12日から5月6日に聴聞会が開かれます。
合計で39人の証人が呼ばれるのですが、科学者でオッペンハイマーに反対したのはテラーひとりでした。
1954年6月29日、「国家機密を漏洩する可能性をもつ危険人物」と断定されるのですが、その理由は「性格の基本的欠陥」という納得がいくようなものではありませんでした。
そして、オッペンハイマーがソ連のスパイである証拠は見つかりませんでした。
1954年7月1日には、プリンストン高等研究所の正所員と名誉教授29名はオッペンハイマーを支持する声明を発表します。
この名誉教授の中には、アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)、フォン・ノイマン(1903-1957)、クルト・ゲーデル(1906-1978)、フリーマン・ダイソン(1923-2020)などがいました。
これにより、1954年10月にプリンストン高等研究所の所長として再選します。
1961年、民主党のケネディ政権になったことで、オッペンハイマーの追放は大幅に緩和します。
そして1967年2月18日に、オッペンハイマーは喉頭ガンで62歳でなくなってしまいます。
オッペンハイマーという科学者
オッペンハイマーは、繊細な心をもっており、世間知らずで無防備であり、そして知り合った人とは一生の付き合いをする人で、多くの人に慕われました。
誰しも、人間を大量虐殺したくて科学者を続けているのではなく、自然を知りたいからこそ、また暮らしを豊かにしたいからこそ科学が存在しています。
原爆を開発した科学者たちは、原爆で人を殺したかったわけではなく、戦争をはやく終わらせ多くの人を救いたかったからこそ作った人が多くいました。
そんな願いでつくられた原爆は、全く別の人間たちの意思によって日本に投下されました。
そして、ひとりの人間を英雄と祭り上げ、その後追放しました。
今回は、「原爆の父」と呼ばれ、英雄と祭り上げられ、そして政治に利用された科学者ロバート・オッペンハイマーを紹介しました。
この記事で、少しでもオッペンハイマーについて興味をもってもらえると嬉しいです。
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