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【科学者#055】ファラデー以来最も偉大な実験学者で、オセアニア人初のノーベル賞を受賞した科学者【アーネスト・ラザフォード】
科学者の中には、数学が得意な科学者もいれば、実験が得意な科学者もいます。
実験が得意な科学者としては、第33回目では科学史上最高の実験主義者としてマイケル・ファラデーを紹介しました。
そんなファラデーの死後、優秀な実験学者は南半球の地にに誕生します。
今回は、ファラデー以来最も偉大な実験学者で、オセアニア人初のノーベル賞を受賞した科学者であるアーネスト・ラザフォードについて紹介します。
アーネスト・ラザフォード
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名前:アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford)
出身:ニュージーランド
職業:物理学者・化学者
生誕:1871年8月30日
没年:1937年10月19日(66歳)
業績について
ラザフォードは、α線とβ線の発見、ラザフォード散乱による原子核の発見、陽子の発見などの業績により「原子物理学の父」と呼ばれています。
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ラザフォードは、1898年に天然ウランから2種類の放射線が出ていることを発見し、α線とβ線を名付けます。
その後1899年には、放射線のアルミ箔の透過を調べて、α線とβ線を分離します。
1902年には元素が放射線を放出すると、別の元素に変わるという「放射性元素変換論」を提唱し、翌年にこの透過性が高く電荷をもたない放射線をγ線と名付けます。
さらに1908年に、バートラム・ボルトウッドと共同で放射性元素の変換系列を調べて、変換が鉛で終わることを発見して、その速度を求めます。
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同じ年には、α線をガラス管に集め、放電スペクトルを調べることでα線がヘリウムであることを発見します。
そして、同じ年の1908年に「元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究」によりノーベル化学賞を受賞します。
生涯について
ラザフォードの父親はイギリスのエセックス出身の農家で、母親はイングランド出身でした。
両親は子供たちを育てるため、スコットランドのパースから南半球のニュージーランドに移住し亜麻を育てます。
ラザフォードは12人兄弟の4人目として誕生します。
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1876年にはフォックスヒルへ引っ越し、1877年にはハブロックへ引っ越します。
1882年にはペロラス・サウンドに引っ越し中学校へ通います。
そして、この頃に将来妻となるメアリ・ジョージナ・ニュートン(1876-1954)と出会います。
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1887年には奨学金を得てネルソン・カレッジで学び、その後はクライストチャーチのニュージーランド大学カンタベリー・カレッジで学びます。
1892年に学士号、1893年に修士号、1894年に理学士号を取得した後は、1895年にはイギリスのケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所へ行きます。
そこでは、第54回目で紹介したジョゼフ・ジョン・トムソンのもとで研究を行います。
しかし、ラザフォードはケンブリッジ大学では学位を持っていなかったので、大学の保守的な人たちからは嫉妬されるのですが、トムソンはラザフォードを励ましてくれながら指導してくれます。
そんなラザフォードですが、1897年にはケンブリッジ大学より学士号が授与されます。
1898年には、トムソンはラザフォードをカナダのモントリオールにあるマギル大学での職に推薦してくれます。
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同じ年の1898年には、ウランから2種類の放射線(α線とβ線)が出ていることを発見し、1899年には放射線のアルミ箔の透過を調べα線とβ線を分離します。
1900年には、メアリー・ジョージナ・ニュートンと結婚し、モントリオールでの生活を始め、この年にポール・ヴィラールの発見した「透過性が高く電荷をもたない放射線(1903年にγ線と名付ける)」が電磁波であることを発見します。
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1901年にはニュージーランドで博士号をを取得し、1903年にはロンドン王立協会に選出されます。
1907年にはイギリスに戻り、マンチェスター・ヴィクトリア大学で物理学講座の教授に就任します。
1907年には、トーマス・ロイド(1884年4月11日-1955年5月1日)と共にα線がヘリウム原子であることを証明します。
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そして、1908年には「元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究」によりノーベル化学賞を受賞し、オセアニア人として初めてのノーベル賞受賞者となります。
1911年にはラザフォードの原子模型を発表し、1914年にはナイトの爵位を授けられます。
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1914年から1918年には第一次世界大戦が勃発し、ラザフォードは潜水艦探知の実際的な問題を解決する極秘プロジェクトに取り組みます。
戦後である1918年には、窒素原子核にα線を衝突させる実験を行い、素粒子の放出を発見し、1920年にはこれを陽子と名付けます。
そして、同じ年の1920年には中性子や重水素の存在を予言します。
1919年には、ジョゼフ・ジョン・トムソンの後任としてキャヴェンディッシュ研究所の所長に就任し、1925年から1930年には王立協会の会長を務めます。
1925年には栄誉勲章に任命され、1931年にはネルソンのラザフォード男爵に叙されます。
その後、1937年に絞扼性ヘルニアで亡くなってしまいます。
ラザフォードという科学者
ラザフォードは、様々な原子物理学の業績により原子物理学の父と言われています。
これらの功績により、1997年にラザフォードの名前にちなんで、原子番号104の元素がラザホージウムと名付けられます。
ちなみにラザホージウムは、合成元素で天然には存在せず、研究室の実験で作られる元素になります。
南半球のニュージーランドに誕生したラザフォードは、イギリスやカナダなどを渡り歩き、素晴らしい実験スキルによって現在の原子物理学において重要な発見などの数多く残してくれました。
ファラデー以来最も偉大な実験学者で、オセアニア人初のノーベル賞を受賞した科学者であるアーネスト・ラザフォードを紹介しました。
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