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【科学者#039】激動のフランスを生きぬいた、悪魔を降臨させた科学者【ピエール=シモン・ラプラス】

1789年7月14日から1795年8月22日にかけて起こったフランス革命は、科学者にも大きな影響を与えました。

フランス革命が起きたことにより、最終的にギロチンで処刑された科学者として第28回目ではラヴォアジエを紹介しました。

さらに、フランス革命により処刑はされなかったのですが、自分を助けてくれたラヴォアジエや教え子であるマリーアントワネットの死について、生涯悩み続けた科学者として、第29回目ではラグランジュを紹介しました。

今回は、そんなラヴォアジエやラグランジュと同じ時代を生き、激動のフランスを生きぬいた、悪魔を降臨させた科学者であるピエール=シモン・ラプラスを紹介します。


ピエール=シモン・ラプラス

名前:ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace)
出身:フランス
職業:数学者・物理学者・天文学者
生誕:1749年3月23日
没年:1827年3月5日(77歳)


業績について

ラプラスはラプラス変換、ラプラス演算子、ラプラス方程式、天体力学など多くの業績を残しているのですが、今回はラプラスの悪魔を紹介します。

ラプラスは、これから起きる現象は、これまで起きたことに関係すると考え、1812年に発表した『確率の解析的理論』の中で、

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

確率の解析的理論

と言っています。

ちなみにラプラスは、知性と言っているのですが、のちにエミール・デュ・ボア=レーモンがこの知性ラプラスの霊と呼び、その後ラプラスの悪魔という名前になっていきました。



生涯について

ラプラスは、7歳から16歳までベネディクト会の修道院学校に通っており、父親は教会でキャリアを積むことを期待していました。

そして16歳のとき、神学を学ぶためにカーン大学に入学します。

ラプラスは、そこで数学の才能を開花させたため、学位を取得せずにカーン大学を退学します。

その後は19歳でパリへ行くのですが、カーン大学の教師からジャン・ダランベール(1717~1783)への招待状を書いてもらいます。

ダランベール

ダランベールはラプラスの数学的研究を指導して、パリで生活するために十分なお金を稼ぐことが出来る地位を見つけてあげます。

そして、ラプラスはエコール・ミリテールの数学の教授に任命されます。


その後、ラプラスはパリ科学アカデミーに2年連続落選してしまいます。

このことで師であるダランベールは、当時ベルリン科学アカデミーにいた第29回で紹介したラグランジュに、1773年1月1日にラプラスをベルリンの科学アカデミーに選出できないか手紙で相談します。


しかし、ラグランジュの返信が来るよりも前の、1773年3月31日にパリ科学アカデミーの副会員に選出されます。

ちなみにラプラスは、自分の能力や功績については全く謙虚ではなく、同僚との関係は良好ではありませんでした。

しかし、すべての科学に関する幅広い知識を持っていたので、アカデミーでは強い発言力がありました。

1784年には王立砲兵隊の審査官に任命され、1785年に16歳のナポレオン・ボナパルトを審査し合格させます。

同じ年の1785年に、パリ科学アカデミーの上級職に昇進します。

この2年後には、ラグランジュがパリ科学アカデミーに選出されパリに来ます。

ラグランジュ

1788年5月15日にはマリーと結婚するのですが、ラプラスは当時39歳、妻は19歳で、2人の間には2人の子どもが出来ます。

1790年5月には度量衡を標準化する委員会のメンバーになり、メートル法に取り組み、そして10進法を提唱します。


しかし、1793年からフランス革命が始まり、ラプラス、ラヴォアジエ、
ジャン=シャルル・ド・ボルダ(1733ー1799)、

ボルタ

シャルル・ド・クーロン(1736ー1806)

クーロン

が委員会からはずされます。

その頃ラプラスは、フランス革命前に妻と2人の子どもと共にパリを離れていて、パリの南東50kmのところに住んでおり、1794年までパリには戻りませんでした。


1795年には、ラグランジュとラプラスを創設メンバーの数学者としてエコール・ノルマル(フランス国立高等師範学校)が設立します。

1799年にはナポレオンのもとで元老院の議院として働くのですが、内務大臣の職をわずか6週間で解任されます。

1806年には伯爵に任命されます。

1814年にはブルボン君主制の復活を支持し、上院でナポレオンに反対票を投じます。

そしてパリを離れるのですが、その後もブルボン君主制の支持者であり続けたので政界からは嫌われますが、王政復古後はルイ18世のもとで貴族院議院になります。

そして、1829年3月5日月曜日の朝に亡くなってしまいます。


ラプラスという科学者

ラプラスは、数学や科学で多くの業績を残しつつも、ナポレオンの審査に関わったりと政治面でも活躍しました。

フランス革命から、ナポレオンの政権下、そして王政復古後の激動のフランスを生き抜きました。

今回は、激動のフランスを生きぬいた、悪魔を降臨させた科学者ピエール=シモン・ラプラスを紹介しました。

この記事で、少しでもラプラスのことを知ってもらえると嬉しいです。


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