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陽菜はコラフの店長への電話を切って身支度を整えた後で部屋を出た。
エアコンで整えられた心地よい空間から一転し肌に刺さるような寒さと雪景色が目の前に広がる。ほんの数分前まで黒く光っていたアスファルトの路面も一面に白い絨毯が敷かれ殆ど別世界の様に陽菜の目には映った。月の光を吸い込んだ雪が蛍の様な柔らかな明るさを寒さで硬くなった中空に向け放っている。
ほとんど口元まで覆っていたマフラーの具合を確かめビニール傘を開くと、陽菜は雪道を駅に向けて歩き出した。
敷地から出る直前、何気なくアパートの一番奥、まゆの住んでいる部屋の灯りを確認する。電気は点いておらずどうやら外出しているようだった。
陽菜は、夏の日にあの部屋でまゆと一緒にダルバートを食べた日を回想する。
壁に貼られた無数のネパール語の付箋達、象徴の様に輝くヒンドゥー教の神、ガネーシャのイラスト。様々な物が交じり合った部屋に漂う薫香。そして、ミニチュアみたいな仏神の像。台所で料理をするまゆの細い後姿。
あの日、まゆは後先を考えず冷蔵庫内の食材を全て使い果たしてしまい、陽菜は本格的なネパール料理を食べられたものの、まゆの恋人であるデビの夕飯がカップ麺だけになってしまった。
デビに向けてしゅんとした顔を向けるまゆ。そんなまゆを励ますような笑顔を見せながらカップ麺をフォークで食べるデビ。
陽菜は、あの日、自分が去った後に部屋で起こったであろう二人の光景を頭の中に思い描いた。
想像の中の二人の姿にとりたてて気に留める要素は無い。しかし、陽菜はまゆとデビが織り成す恋愛模様が無性に微笑ましく感じられ思わず口元が綻ぶのだった。
陽菜には恋人という存在は無かったが、いつか自分が恋をして誰かと交際をするのならば、あの二人の様な関係が陽菜には至上の幸福に思えた。
まゆとデビの間には恋人という関係性は勿論、男性と女性という違った考え方を持つ者同士の強い友情の様なものを感じられた。
しかし、一重に友情と言っても、そこには個人のエゴや私利私欲の様な不純なものは一切なく、互いの人間性を限りなく尊重した優しさや温かみがある。
仮にマイノリティーな思想を一方がもっていたとしても、気が済むまで互いの意見を交換し合い、あくまで倫理的に解決しようと試みれる様な力。
そういった強い関係性を築ける相手とめぐり合う事は、きっと簡単な事ではないし、だからこそ自分がそういう人間といつか出逢えた時、まゆのように真っ直ぐにその人に向かっていこう、向き合おうと陽菜は思う。
それは今の自分自身のどうしようもなく億劫な性格をはっきりと自覚しているが故だ。
足踏みをしてタイミングを計るばかりではなく、前に踏み出すことで見える景色の数々を陽菜はここ数ヶ月で幾度も体験してきた。
そしてその度に陽菜のそばには仙台で出会った様々な人々の姿と声があった。
暦の通りにこの一年をぼんやりと俯瞰した陽菜は再び歩み出す。

アパートを離れ、最初の信号待ちを過ぎると雪景色の中で煌々と光を放つコンビニが見えてきた。
天候を鑑みて融雪材を早い段階で撒いたのだろう。
店内から漏れる光の枠が雪の溶けた地面を照らしている。
店の前を横切りながら陽菜は店内へ目を向ける。
デビは休みなのだろうか。彼の姿は見えなかったが、日本人の若い店員が肉まんをケースに入れているのが見えた。
きっと今夜の冷え込みを考えて多めに仕込んでいるのだろう。
陽菜は少しだけ肉まんを食べたい衝動にかられたが、コラフへの忘れ物を取った帰りまで我慢しようとすぐにその考えを振り切った。

コンビニを過ぎると途端に閑散とした風景が目立ち始める。
陽菜の住んでいる地区は少し前までは田畑も幾つか見受けられる場所だった。しかし、仙台市の都市開発計画で地下鉄の駅が出来てから段階的にアパートやマンションが建つ様になったが、陽菜の住んでいる場所まではまだ開発は進んでおらず駅とコンビニを挟んだ空間は中途半端に空き地や民家が間引いた様に点在する形をとっていた。
ほとんど街灯の無いこの場所の暗闇も今夜の雪のおかげで幾らか視界が鮮明だが、普段からこの場所に長居をしたくない陽菜はコートのポケットからイヤフォンを取り出し耳に付け、ポータブルオーディオから音楽を流すと歩く足を早めた。青白い月の光がそんな陽菜を見守るように離れた場所から彼女を照らしていた。




「なかちー、どう、かっこいいっしょ。」
まゆは運転席でハンドルを握りながら誇らしげに言った。激しいエンジンの振動でルームミラーにぶら下げてある奇妙な装飾が揺れている。
「お前こんな古くさい車どこで見つけてきたんだ。」
助手席の中崎は肩に残っていた粉雪を片手で払いながら小さくまゆへ言葉を返した。車中には古いエアコンの出す燻した様な香りが満ちている。
東北大学前でまゆの車に乗車した中崎は数回体を震わせ、外気に当てられて真っ赤になった鼻を労わる様に両方の手のひらで口元を覆っている。まゆは横目に見える中崎の姿を日光の三猿に重ね合わせた。(中崎とその猿とでは可愛さにおいて大きな違いがあったが)
既に何本目かも曖昧な煙草を再度取り出して火をつけると、まゆは煙を吐き出しながら熊の様な車を発進させた。
「それで。さっきの話だが。」
中崎は顔の前にかざしていた手を解き、訝しげに腕組みをすると改まって言った。
「デビ君がネパールに同行しないというのは何故なんだ。」
吸殻が半分飛び出している灰皿を横目に中崎はまゆを見つめる。
黙って遠くを見つめたまま、まゆはしばらく黙っていた。
雪を避ける車のワイパーの鈍い音だけが二人の空間に機械的に響いている。
数メートル先の信号が点滅し赤に変わる。
巨熊の様なまゆの車は、停車するとエンジンの振動を一層激しく感じさせた。
「スポンジ。」
まゆは唐突にそう呟いた。
「え?」
中崎は、難解な数式と初めて対峙した学生の様な顔をしている。
「経験って財産だと思うの。今しかできないことってあるじゃん。うちにとってはデビとの関係もそういう感覚なんだ。」
前方の車の車線変更の点滅が、真っ暗な車内の二人の顔を照らしている。
間接照明の様なその柔らかな光は、遠くを見つめるまゆの凜とした顔を際立たせた。
「うちは社長にならなきゃいけない。だから今は、何でも自分の為になりそうなことを全部やっておきたい。デビはデビで、うちはうちの生き方があるし。」
まゆはそう言うと手にしていた煙草を灰皿に押し込めた。信号が変わり、唸り声の様な音を出して車はゆっくりと前進する。
中崎は思案する。まゆの言いたい事。そして彼女の考え方を。
おそらくはスポンジという比喩で自分自身の生き方を例えているのだろう。
詳しく関連性を説明するでもなく乱暴になげられた言葉達ではあったが、それらはまゆ自身の持つ元来の猛々しさを何よりも中崎に感じさせた。
まゆの横顔を見つめながら中崎は言葉を返さずに頷く。なにはともあれ、二人の関係は二人にしか分からない特別な事象で複雑にリンクしているのだろう。考えすぎる事はかえって無意味なのかもしれない。
いずれにしても正面を見据え、ほとんど瞬きもせずに淡々と言葉を返すまゆの態度からは大樹の様な寛容さと世間体というものに動じない精悍さがあった。東北大のあの小さな喫煙スペースで、これまで幾度も繰り返してきた確認作業。中崎がまゆを案じ、そしてそれを跳ねつけるでもなく相手にもしないまゆ。既に不毛にも感じられる様なくだらないやりとりかもしれないが、こうして言葉を交わすたびに中崎は突飛なまゆの行動を自分の中で落ち着かせていた。
「なかちー、なんか流して。」
音楽を聴きたい気分になったのだろうか。まゆはハンドルに手をかけながら体を揺らし襟足をくるくると片手で丸め始めた。中崎は思う。彼女の体の中でどのようなタイミングで切り替えのスイッチが作動しているのかを。
まゆの頭の中では既に何かしらの音色が鳴り響いているようだ。肩を揺らすテンポは規則性が無くリズムも曖昧だった。普段はクラシックしか耳にしない中崎でも明白に解るほど観た事の無い揺れ方だった。
はたしてこの状況で音楽を流す事に意味があるのか。誤って床に落ちた卵を見つめるような顔で、中崎は車に備わったオーディオ機器に触れた。
「――さて、続いては青葉区にお住まいの50代、台所のサツマイモさんからのリクエストです。」
ボリュームを最大まであげていたのだろう。耳障りな声が突然車内に響いた。中崎は一瞬体を強張らせたが、すぐに手元のツマミに触れ音量をさげる。無論、それ以上の操作方法など解るはずもなくラジオを付けたことで一先ず中崎は前かがみだった姿勢を元に戻した。窺う様に運転席のまゆに目をやったが、まゆは先程となんら変わる様子も無く奇怪なリズムで体を揺らし続けていた。
ラジオのDJは明るい声で話し続けている。中崎はポケットから煙草を取り出して火を点けた。
「えー、華の青春時代、隣のクラスの友人に借りたテープが擦り切れるまで聴いた思い出の曲ですッ。キューちゃん、あん時はテープありがとう、そしてその節はごめん。僕と同世代の人は皆きっと同じ様に聴いた事がある曲だと思います、とのことです。やぁ、懐かしい。それでは、お届けしましょう。荒井由実さん、瞳を閉じてです。どうぞ。」
ハモンドオルガンの柔らかな音色が車内に流れる。
曲の冒頭の間しばらく体を揺らしてまゆだったが、その後何かを悟った様に体を落ち着けると両手でぐっとハンドルを握り締めた。
二人を乗せた車は雪の降る市内を走り続けている。






自費出版の経費などを考えています。