結構前からTVなどでやってる性暴力のこと。 逃げてはいけない、 目を背けてはいけない、と思う。 だけど、耳に、目に、するたびに、 自身の被害のフラバと、 あらゆる加害者への怒りが止まらなくなって苦しい。 性暴力は繰り返される。 レイプ、援交…。 記憶を消すために、私は繰り返した。 記憶なんか消えることなんてなかった。 でも、繰り返すしか、 繰り返されるしかなかった。 最初のレイプの後、なんとか病院に行った。 「証拠取るなら今しかないよ?」と言われても Noということが精一
宮地尚子先生の「傷を愛せるか」を読んだ。 単純な見方ではあるけれど、自分の腕の傷に重ねた。 私の腕には数え切れないほどのリスカの痕がある。 でも私の腕の傷はただのリスカの痕ではない。 自分で傷つけた傷でもあるし、 傷つけられた傷でもある。 確かに醜い。汚い。恥ずかしい。 そんな傷跡を、 今は受け入れることができるようになった。 恥ずかしくなんかない。 誰かに殺されないように、 自分を殺さないように、 そんな生き延びるための傷だから。 たくさん傷ついて
つながりって大事だと最近よく思う。 私は「つづく」ことがよくわからない。 関係がつづく、 だいじだよがつづく、 安心がつづく、 昨日と今日と明日がつづく。 あたりまえに感じてる人もいれば、 そうじゃない人もいる。 つづく、がわからないから、試し行動をしてしまったりするのかもしれない。 急につながりがなくなるのが怖いから、 そうなる前に関係を壊したくなったり、 あなたたちは離れていかない?って試したくなる 石橋を自分でぶち壊して、 ほらやっぱりはなれてい
今日は私のことについて少し話したい。 私は13歳の頃から10年間精神科に入退院を繰り返してきた。今までの入院回数は20回以上にのぼる。 ほぼ病院がおうちだった。 病院から学校に通った。 何かつらいことがあっても、ただいまって帰る場所があの家じゃないことに、すごくほっとした。 何かあっても病院に帰れるから、1日頑張ろうって思えた。 お金と時間を無駄にしてきたって責められることもあるけれど、 あの家に居なくてすんで、 病院で生活できたことはすごく意味のあることだった。 何よ
誰かに頼ること。苦しい時は「たすけて」って言っていいんだよ
寝る、食う、出す 寝る→休む 食う→食べる、自分に必要なものを取り入れる 出す→排泄する、いらないものを出す
怒りは二次感情だから、怒りの底には、恐怖や悲しみが渦巻いている。 最近ようやく気が付けるようになった。 怒ることは怖いこと 私は今まで、"怒る"ことが怖かった。 怒り出したら怒りのコントロールができなくなって、全てをめちゃくちゃにしてしまうのではないか、 自分を見失ってしまうのではないか、 そんなふうに、怒りを恐れていた。 実際に怒り狂った母親を目の前にして、 人は怒るとめちゃくちゃに壊れていってしまう、 という体験をしてきたからなのかもしれない。 怒りってどんな味?
これは、Drが私にかけてくれた言葉たちだ。 今まで何かと奪われることが多い人生だったけど、その中でも自分に必要な人や支援を手放さないでなんとかぶらさがってきた。 これまでやってきたことは間違ってなかったんだって思った。 「やってきたこと」に対しては報われる言葉だったけど、 「失ったこと」「できなくなったこと」に対しても、救われるというか、受け止められた気持ちになった。 今この時に言われたから受け取れた言葉でもあると思う。 今はこの言葉たちにすがって生きている。 回復は直線的
簡単に言葉にできない記憶、 整理がついていない記憶、 バラバラでつながらない記憶、 言葉にするまでに時間がかかる記憶、 でもね、無いわけじゃないんだよ。 そこに記憶はある。 なかったことにされることほど、つらいものはない。 フラッシュバックが原因でご飯が食べられなくなり入院した時、 Nsに、「身体の回復が優先だから、トラウマの話はしないで、今は聞かないよ」と言われた。 たしかにそうなのかもしれないけれど, トラウマが癒えなければ前には進めないし、なによりそうやってトラウマは
回復ってなんだろう。 回復≠元に戻る だと思う。 なんどもなんどもぶち壊された花瓶のカケラを、 必死に繋ぎ合わせて何かを創っている。 ぶち壊される前には絶対に戻れない。 もう花瓶としてはつかえない。 だけど新しい何かなら創れるかもしれない。 回復って、そういうことなのかな。 回復した、大丈夫になった、って本人にしかわからないし、その人が決めていいことだと思う。 回復は自分で決める。周りからジャッジされるものではない。 まだ大丈夫じゃないのなら、 「そのままでいいよ。でもあ
フラバは過去、不安はミライ、今を感じること
沈黙と寄り添うことについて考えてみたいと思う。 何かに苦しんで泣いている人が隣に居るとする。 何かしてあげたくなったり、 励ます言葉をかけたくなったり、 どうしたのか聞きたくなったり、 自分の考えや気持ちを伝えたくなったり、 私たちはついしゃべりすぎる。そんな時の言葉は辛い人にとって暴風雨である。 もう一歩踏み込んで考えてみる。 今死にたい気持ちの人が隣に居るとする。 死にたいと言われたら誰でも怖い。不安になる。 それゆえに、「死にたいなんて言わないで」「死んだら悲しいよ
大丈夫をひとつひとつつみ重ねる
孤独はつらい。孤独にはひとりでいる「ひとりぼっち」と、大勢の中で感じる「独りぼっち」がある。 どちらもつらい。 今日は孤独とひとりでいられる力について考えてみたいと思う。 ひとりでいられる力について考えるとき、それは赤ちゃんにまでさかのぼることができる。 ひとりでいられる能力 児童精神科医であるWinnicottにより提唱された概念に、「ひとりでいられる能力(Capacity to be alone:CBA)」がある。これは、一人でいてひとりでいられる能力と、誰かと共にい
しあわせになること。これは多くの人が抱く望みである。しあわせになりたいし、自分の大切な誰かにもしあわせになってほしい。 しかし、しあわせになることが怖い人も存在する。そんな人たちとしあわせになる副作用について考えてみたいと思う。 「大切にされない」経験 例えば虐待を受けてきた人たちである(全ての人にあてはまるわけではありません)。虐待と言っても色んな形があるが、共通しているのは、守ってくれるはずだった誰かに「大切にされない」体験である。渦中にいるとき、自分の生きている場所
このルーシーの言葉と、トラウマからの回復について考えてみたいと思う。 トラウマが及ぼす影響 トラウマが及ぼす影響は計り知れない。 個人によっても影響の大きさや、そもそも影響を受けるかどうかも異なる。 それはその人がもつ気質や脆弱性にもよるし、その時の環境にもよる。特に後者は重要で、その時一緒にいてくれる人はいたか、話せる人はいたか、手を差し伸べてくれる人はいたか、つまりサポート状況の影響は大きい。 無力感の威力 トラウマを体験するとき、言葉では表しきれないものに圧倒さ