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前に向かうこと。上に向かうこと。


※今から話すことは少し道徳的なことです。結論はあなたが選択できます。ぜひ、あなたの意見を聞かせてください。

* * *

「生きる」という行為は、人間にとってとても当然の行為だと思う。

また、「生きようとする」という行為も当然の行為だと思う。


例えば、闘病中の人。

闘病中の人はたとえ完治が望めないとしても、今の自分より少しでも良くなりたいと思うだろう。

だから、痛みを伴う、また生命の危険を伴う手術を受ける決心をし、リハビリなどにも励む。

このような現状を変える努力は自分が自分のためにするものであって、他者と競争するためではない。


人は皆、今の自分の思い描く理想に近づこうと懸命に努力をする。その努力をするにつれて、他者よりも優れようとする行為が無意識的に働くと、僕は思う。

他者よりも優れようとすることは、決して悪いことではない。お互いに高め合い分かち合っていく。スポーツはその象徴のようなものだろう。

しかし、この優れようとする努力が他者との悪い意味での競争になると、一転して不健全なものになる。

ライバルがいることは確かに励みになるが、そのライバルに勝とうと思うと、健全な劣等感、健全な理想への追求とはもはや言えなくなる。

競争は、精神的な健康を損ねる最大の要因になるのだ。

たとえ入学試験のような競争であっても、基本は自分の問題なのであって、試験を受けて目指す学校に入学できるかどうかは単なる結果に過ぎない。

入学すること自体を目標に勉強するのではないのである。

先に述べたように、今の自分よりも優れたいと思い、優れるための努力をすることは健全であると思う。誰もが優れようとするという意味での理想の追求も、他者と競争しないのであれば問題なく健全なものとなる。

ただし、理想への追求という言葉が『上に向かうイメージ』を喚起するのであれば問題である。

オーストリアの心理学者アドラーは、人生は目標に向けての動きである、「生きることは進化することである」という言葉を放った。この時、この進化は上ではなく、『前に向かっての動き』であると思う。

人は皆それぞれ出発点と目標を持っている。その目標に向かって前に進んでいくのだが、その際、ある人は速く、ある人はゆっくり進んでいく。

そこに優劣はない。

闘病中の人が今よりも少しでも良くなりたいと思ってリハビリに励むときは、他者は関係ないので、他者と競争して他者より上に立つことは問題にならない。

時には立ち止まったり、逆走したりすることがあっても、基本的に前に進んでいるのであれば、それがどんな道であってもゆっくり進むことも速く進むこともできる。

自分の生き方は独特なものなので、誰か他の人の生き方をまねる必要はないと考えることができれば、自分ではない誰かになる必要はなく、この「私」であることに満足できるだろう。



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