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ファッション専門人材会社から総合ソリューショングループへ、2代目が継承するDNAと2030年へのビジョン  Vol.1:創業のあゆみ

はじめまして。

ワールド・モード・ホールディングス株式会社(WMH)社長の加福真介です。

WMHは日本で唯一のファッション領域に特化したソリューション・グループとして成長を目指しています。

具体的には、人材の採用育成・店舗運営・マーケティング・コンサルテーションなど、ファッション業界の課題解決に必要な各分野のプロフェッショナルがチームとなり、多角的に改善・成長をサポートしています。

この度、私が14年間つとめてきたファッション専門人材会社iDAの社長を後継者へバトンタッチし、総合ソリューショングループの代表に専念することにいたしました。

新しいスタートの節目に、2030年に向けたグループの目標を立てました。

これからその達成に向けて全力でまい進していくにあたっては、やはり仲間と同じ方向を向き、夢に向かっていきたいと思います。

それだけでなく、クライアント、スタッフ・登録者、パートナーの皆様、さらには金融機関の方々やとりまく業界や社会、当社を支えてくれる全ての方々にも、当社の理念や活動をもっともっと知ってほしい。

今夢見た未来が後から振り返って実現してたら嬉しいし、絶対そうしようと思っているので、その成長記録を沢山の人と共有したい。

そう考え、今後、業界の発展や社の成長に向けて考えていること、仲間が活躍する様子などをnoteを通じて社内外に発信していきたいと思います。

第1回となる今回は、父から事業承継した人材会社iDA、様々な人の縁で拡大してきた総合ソリューショングループであるワールドモードホールディングス(以降、WMH)について、今までの足跡と今後のビジョンについてまとめました。

実はこれまで、社内・社外問わず、当社の歴史をきちんとした形で伝える場や機会がありませんでした。

若い社員も増えてきてくれていますし、創業者の引退後にも各社のDNAを残していきたいと考え、この機会に当社のあゆみと関わってくださった人々の想いを書き残しておこうと思います。

創業者であり父である加福圭介の軌跡


まずは創業者である父の経歴、そしてWMHの母体である株式会社iDA創業の足跡を振り返ってみたいと思います。

父・加福圭介は、立命館大学を卒業後、建設資材販売の体育会的社風の会社に新卒入社しました。 

その後、独立起業しようと思って退社したものの、起業準備する間に外資系企業の合理的な経営を学びたいと思い入社したレブロンで、現場の仕事にのめりこんでしまいます。

そして当時No.1の売上を誇っていたレブロン心斎橋大丸店でチーフ美容部員をしていた母と出会い、結婚しました。

その直後にヘッドハンティングを受け、世界三大プレステージブランドと言われたジャーマモンティルの日本事業立上げを行い、さらにエスティ・ローダー、クリスチャン・ディオールといった世界的なブランド企業の営業販売部門の責任者を務めました。

ファッション業界の営業・販売員の最前線にいた父と母。わが両親ながら格好いいと思った。 (家族写真:後列左が父、右が母。前列左が姉、右が私)

父は仕事や社内の仲間が大好きで、気がつけば55歳まで会社員として走り続けることになったのですが、その間も起業したい気持ちは消えなかったといいます。

そしてついに1999年、56歳で株式会社iDA(この時の社名はアイ・ディ・アクセス)を設立しました。

起業時に父が掲げたビジョンは、ファッション・ビューティ業界への恩返しと、業界の発展に貢献すること。

ファッションとリテールの問題解決を主としたコンサルタント業として会社をスタートさせ、日本初上陸のブランドの販路開拓や販売体制構築を引き受けて全国を飛び回っていました。

その業績が認められ、世界一のブランド会社であるLVMH傘下のコスメセレクトショップ・SEPHORAの上陸にあたって店舗運営を任されることになります。

世界的なブランド企業が創業初年度の会社を信頼して大事な店舗運営を任せるのは、当時も今も極めてレアケースだといえるでしょう。

SEPHORA日本1号店の銀座店(1999年当時)

父は顧客の期待に応えるべく、美容部員の採用・教育、店舗運営マニュアルの準備などの開店準備、開店後の売上管理からあらゆる業務を自社で対応。「この時は一生分働いた」と言っています(笑)。

当時大変お世話になった方のお墓が京都にあるのですが、父は今でも私や社員を連れてお参りしています。

人材会社への転換


iDAが事業を転換し人材会社に変わることになったのは2002年でした。SEPHORAが日本から撤退を決め、当時働いてくれていた美容部員300名の雇用が失われる危機に陥りました。

父は絶対に失業だけはさせたくないと、社員を雇用してくれる会社を探して走り回りました。採用や教育にとりわけ力を入れていたのが奏功し、なんと全社員が失業せずに済みました。

当時、ファッション・ビューティ業界は人気業界で目指す人も多く、人材会社を活用する習慣はありませんでした。

しかし、そんな中でもよく教育されたプロフェッショナルを紹介してくれる専門性の高い人材会社であれば非常に喜ばれることを、父はこの時に確信しました。

自己資本ではじめた小さな会社でしたので勇気が必要だったと思いますが、父は覚悟を決めて全国に次々と支店を構える事を決意しました。
そうやって専門性・教育力・全国展開を特長にした日本初のファッション・ビューティ業界専門の人材会社が誕生したのです。

その翌年に私はiDAに入社しました。

2000年 第1回目の社員旅行


二代目・加福真介のプロフィール


次に私の経歴について紹介したいと思いますが、実は私には父のように書けることがほとんどありません。

私の学生時代はというと、中学校から大学までエスカレータ式で、勉強せずに10年間過ごしました。運動部と友達との思い出、アルバイト経験以外は何もありません。

親の愛情を沢山受け、人に恵まれ、ぬくぬくと育ったボンボンが甘っちょろい考えのままで社会に出ました。それ故の失敗も多かったですが、その反面で、人に助けられた事も沢山ありました。とにかく、育ててもらった両親には深く感謝しています。

部活動はラグビー→レスリング→空手

2000年に同志社大学を卒業しオフィス事務機や消耗品を販売する体育会的社風の会社に新卒入社して営業として勤務しました。

その会社の社訓は「努力・執念・根性」といったもので目標達成への姿勢が鍛えられました。大変でしたが、お客さんも上司も同僚も本当に良い人ばかりで楽しかったですし、今も当時の同期と食事しています。何も社会を知らなかった私にとって、その会社から社会人をスタートできたのは幸運でした。

2003年に父が創業した人材会社iDAに入社した後、それまで大阪で事務機の営業をしていた私が東京に移り住みファッション・ビューティ業界での営業に挑戦したのですが、営業スタイルの違いに最初は驚きました。

とにかく社長である父に恥をかかせてはいけないと思い、がむしゃらに働きながらクライアント企業の方々やスタッフさん達から学ばせてもらいました。

父が勝負してきた業界に飛び込んでみると、その努力や偉大さを肌で感じる事ができるようになりましたが、社内では猛烈に私に厳しい人だったこともあり、仕事外でも畏怖の念から一定の距離感ができました。後から考えると私が社内メンバーと人間関係を築いていく上で配慮してくれたのだなと感謝しています。

父は「If you can dream it, You can do it」というウォルト・ディズニーの言葉を社是にし、志を正しく、夢を大きく持つように繰り返し繰り返し言っていました。

来年も会社を存続できるかどうか不確かな時でしたし、そうは言っても日々の仕事に精一杯だと最初は完全には腹落ちしませんでしたが、時間が経つにつれ、その重要性を体感していきました。

たとえば、創業から父は業界で働く販売員の社会的地位向上の実現を目指しており、専門職の証明となるような資格制度を創るというアイデアを掲げていました。

その実現に向け、2006年に社内資格ではありましたがプロフェッショナル販売員を認定する資格制度をスタートさせたところ、それがメディアの目に留まり、『ガイアの夜明け』などのテレビで度々取り上げられるようになりました。

競合企業と比べると規模の小さかった当社ですが、父は業界全体を支える為に色々とアイデアを出して実現に向けて行動し続けていました。

正しい志を掲げて行動し続ける会社はクライアント企業や社会から共感してもらえる。それが会社を存続発展させるうえで最も大切なことだと、私は肌で感じて学ぶことができたのです。

2007年にガイアの夜明けで取り上げられ、以降は頻繁にメディアで紹介されるように


社長のバトンを承継

 
2008年、私はiDAの代表取締役社長になりました。

父はわざわざ運動会のリレー用のバトンを買ってきて、リアルにバトンを渡してくれました。

そのころは業績は上を向いていましたが財務基盤には不安があり、そこにリーマンショックが来て、ようやく乗り越えたと思うと東日本大震災、競合による連続的な社員引き抜きがありました。

本当に何度も折れそうになりながらも周りに支えられ乗り越えました。社員たちには本当に感謝しています。

そして2012年、ついに父が引退し私が事業を承継しました。

それまでは父が経営権を持ち代表取締役会長CEOとして代表取締役社長COOの私を指導する形でしたので、私のタイトルは変わりませんでしたが、それまでとは重圧が大きく変わりました。

後ろ盾がなくなり会社を守る最後の砦に私がなるプレッシャーや怖さを当初感じましたが、良いのか悪いのか、今はあまり感じなくなりました(笑)。

楽観的な性格が幸いしたのと、私を助けてくれる周囲を信頼しているからではないでしょうか。

そしてもう1つの理由は、父のように自分自身も今より数倍成長し、世の中にもっと貢献したいと願っているからだと思います。

父は私が入社した2003年当時から「100億企業になって業界を支える会社に必ずする」と公言していました。

実際かなりリスクテイクもしていましたが、実現したい未来に向かって挑戦している時はあまり怖さは感じないのだなと思って背中を見ていました。

私もビジョンをしっかり持って、前を向いて進んでいこうと思います。

比較的若いうちに経営者になったことで経験不足による苦労も沢山しましたし、周囲にも苦労をかけました。ただ、スピード感と失敗を経験させる事も含めて父なりの後継者育成方法だったと思っています。

父は1999年に当社を立ち上げ、2012年に引退しました。本当に短い、怒涛のような13年間を一気に走り抜けたなと思います。

しかし、強い情熱とともに示された未来や理念は、これからも会社のDNAとして残していきたいと思っています。

「販売員の社会的地位向上を実現せよ。」

「プロフェッショナルを輩出しファッション業界全体の発展に貢献せよ。」

「たくさんの夢を実現できる会社であれ。(WORKING DREAM)」

父から引き継いだ志は、必ず実現していこうと思っています。

 

社員旅行にて。全社員に送られ父は代表取締役会長を引退、名誉会長に


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