僕がしていることについて語る時に僕の語ること
はじめまして!上村幸平(うえむらこうへい)と申します。大阪府出身の24歳です。
登山、クラフトビール、外国語、ランニング、読書が好きです。好きな食べ物はうなぎです。この文章は長野県の大町市というところから書いています。山があり湖もあるという、「この世の全て」みたいな場所です。
昨年に大学を卒業後、フリーの写真家として国内外を旅しながら写真を撮っています。
テーマは、「自然との関わりのなかでの人間らしい営み」。
山や海の中で生き抜くことや旅をすること、農業やものづくり。そして伝統工芸や郷土芸能、食文化。自然と人間の知恵の交差する営みを、自分の身体でフィジカルに体感しながら、写真とことばでドキュメントしています。
お金になる?今のところあんまなりません。不安じゃない?毎日不安と戦っています。それって楽しい?はい、めちゃくちゃ楽しいです。いわゆる新卒一年目を終え、二年目となる今。改めて自分のやっていることと、なぜそれをするようになったかをここで書いてみよう、と思っています。
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僕はずっと「写真家になりたい」だったり「フリーランスで自由に生きたい」なんて思っていたわけではありません。
なぜ就職しなかったのか、ともよく聞かれますが、「就活なんてしたくない」などの強い意志があったわけでもなく、会社で働くということにはあまり興味がなかっただけでした。ただ、写真やデザイン、イラストレーションはなにか自分の中にすとんと落ちるものがあって、オンライン講座などを通して勉強していたので、それらを使って生きていけないかな、とはうっすら思っていました。
当時大学三年生だった僕は、「開発学」という学問に志しました。開発学とは——あえて誤解を恐れずに言うのなら——世界から貧困や格差をなくし、環境問題などに対処するために、経済や政策、社会学などの多くの分野の知恵を総動員して考える、学際的な分野です。僕が興味を持っていたのは「コーヒー生産の持続可能性」。フェアトレードや認証制度などの枠組みを通して、どうやって途上国の零細農家を守るか、などについて卒業論文を書こうとしていました。
フィールドにいるということ
「コーヒー農家」という存在に興味を持ち始めたのは、全くの偶然。留学先のスウェーデンの大学のプロジェクトで、中米のコスタリカという国に一ヶ月ほど滞在しました。動物保護センターやホステルで働きながら、いろいろな場所を訪れました。
ふと訪れた農園でよく陽に焼けた農家さんが見せてくれたのは、宝石のようなコーヒー・チェリー。こんな熱帯雨林のなかにひっそりと佇む木が実らせる小さな果実が、さまざまな人の手を渡って加工され、流通され、焙煎され、世界中のコーヒーショップで飲まれている。
「コーヒー」という農作物を切り口に、複雑に絡み合った歴史や経済、環境問題を考えることができたら、きっと面白いだろう——そう思って、「開発」と「コーヒー」をテーマに卒業論文の執筆、そして修士プログラムへの進学を考えていました。
ただ、時にして2020年。非日常が日常となった世界では、僕がフィールドで得たような好奇心が躍動する瞬間を掴むことが難しくなりました。教科書や文献を読み込み、行けもしない最前線に思いを馳せる日々。「あくまでフィールドに、現実問題に寄り添う」という点で興味を抱いていた開発学という学問への疑問や不満も募り、悶々と過ごしていました。
『ことば』を拾い上げること
「学生さんで国産コーヒーに興味がある、といってインタビューを申し込まれることはよくあるんだけれど」
野瀬さんはくしゃっとした笑顔で僕に言った。「『ぜひ実際に農園を見にきてください!』というと、みんな萎縮して会えずじまい。ここまで来てくれたのは初めてよ。」
2021年夏。僕は緊急事態宣言の合間を縫って、小笠原諸島・父島に向かいました。アクセスは「おがさわら丸」のみ。21世紀も第1四半世紀を終えようとしているのに、25時間かけて船で行くしか方法はないという、国内でもトップレベルに隔絶された場所です。
あまり知られていませんが、日本でもコーヒーは栽培されています。ただ、気候条件的に満足に栽培できるのは南西諸島と小笠原諸島くらい。中でも小笠原諸島・父島は明治時代に日本で最初にコーヒーの試験栽培が行われた場所。現在でも島内で数カ所、コーヒーを栽培している農家さんがいます。
野瀬もとみさんは、父島のコーヒー農家。米国統治下にあった小笠原が返還されてから、単身父島に渡って農場を再興させた父親の跡を継ぎ、現在も父島の森の中でコーヒーを育てています。僕は小笠原海洋センターで一ヶ月ほどウミガメの保全をお手伝いしながら、野瀬さんのもとに通い、一緒にコーヒーを摘みました。
9月後半は、コーヒー収穫まっさかり。刺さるような日差しのもと、野瀬さんの森でルビーのように輝くコーヒーチェリーを摘み続ける。休憩の時にいただいた小笠原アイスコーヒーが染み入るほど美味しかったことを覚えています。
「さまざまなコーヒー認証制度も、SDGsみたいなものも、学者と役人が会議室で作り上げたもの。彼らの使う『ことば』と、わたしたちのような現場の農家の使う『ことば』には、絶対的な差がある。」
ある時、乾燥したコーヒー豆を脱穀しながら、野瀬さんが語ってくれました。「だから、わたしの『ことば』を聞きに来てくれて、とても嬉しいの」
僕は今に至っても、「『ことば』が違う」ということの本当の意味は未だ理解できていないと思っています。それはきっと、学問やフレームワークのようなものでは捉えられないもの。「現場で生きる人々の『ことば』を拾うことが、自分のやるべきことなのかもしれない」その時、ふとそう思ったのです。
一ヶ月分の日焼けを持ち帰って東京に帰ってくると、いよいよ卒業は半年後に迫ってきていました。この時点で就職するというオプションは完全に消え去り、手元にある選択肢は「予定通り、開発学でマスターに進学する」か、「個人で勝手になにかをしてみる」に絞られます。怖いですね。後者なにもの?
ただその当時の自分のなかには、小笠原をはじめとした、これまで訪れてきたフィールドでの経験が鮮やかに、そして圧倒的に居座っていました。「もっとフィールドに出たい、自分の身体をつかって感じ取りたい、ひたすら大学で頭を悩ますよりも現場にいる面白い人間に会いに行きたい」
そのため、机に座って文献にあたり論文を書き、同じことをするために大学院のアプリケーションの準備をする、といったことにあまり熱量を持てなかった、というのも事実です。
ジャーナリズム的な精神をもつこと
四年生の春。金曜夜のコマを埋めるためにふと取った「ドキュメンタリー論」なる授業。ここで出会ったのが、野中章弘先生でした。
たくさんの素晴らしい恩師に巡り会えたことは早稲田での大学生活における数少ない幸運のひとつでしたが、その中でも野中先生はある意味劇薬と言ってもいいほど衝撃的な先生でした。最初の授業、その一コマで「この人はやばい」と根拠もなく確信し、その場でゼミに参加させてくれ、と直談判したのを覚えています。
野中先生のゼミは、あくまで「ジャーナリストとしての素質」を培う講座。記事の書き方、取材の仕方、ドキュメンタリーの撮り方といったプラクティカルな内容はほとんど触れられず、ひたすら学生と、ゲストと語り、考え続けます。授業自体も、そこで出会った友人たちも、非常にエキサイティングなものでした。
ただそれよりも、僕は「野中章弘」という人間の生き様に、どうしようもなく惹かれました。大学卒業後、どこにも属さずフリーのジャーナリストとして活動を始め、世界各地の不正義や歪みを取材し続けた先生。最前線を退いた今は、次世代のジャーナリスト教育に力を注いでいます。
経歴も業績も華やかですが、僕は彼の自由さ、独立性、そして信念に極めて感化されました。いつだって身軽でいること、組織の論理よりも自分の論理を大切にすること。そして「どこどこの記者・ジャーナリスト」のようなわかりやすい称号が無くても、あくまで「ジャーナリスト的精神」を持ち続けること。
知りたい・伝えたいという根源的な欲求は、何かから承認されなくても、あくまで自分の身一つで追い求めて良いのだと、僕は野中先生から半ば勝手に学び取りました。そのとき、なにか吹っ切れたような感覚があったのです。
開発学修士課程の学生ではなく、「開発学の精神」——フィールドに赴き、現実問題に対して一つの切り口にとらわれない、学際的な考え方——を持ちながら、アカデミズムやフレームワークから一歩引き、フィールドにいる人々の人間らしい写真を撮ろう。
ジャーナリストではなく、「ジャーナリズムの精神」——不条理を見つけ、声なきものに寄り添い、独立した視点を持つ——を忘れることなく、「上村幸平」というひとりの人間として向き合い、取材をしよう。
あくまでこれらの信念を持ち続けながら、とりあえず向こう数年はどこにも属さず、いろいろな場所を訪れて、人に会って、ドキュメントしよう。一人でもきっとなんとかなるだろうし、「これには価値がある」と思えることをやり続けていれば、結果はいつかついてくるはずだ。まだ若いんだし、いくらでもやり直しは効くだろう。
そう思えるようになったのは、フィールドでのたくさんの出会いや恩師の存在はもちろん、色とりどりな僕の友人によるところもとても大きいです。地元や高校、大学の友人。そして同じく個人で活動する同志たち。やりたいことは一人ででもやる、できない理由をひとつずつ潰していく、不安はいっしょに慰め合う、できると信じてくれる人を大切にする——僕には彼らがいるのだから、きっと大丈夫だ、と。
そして、大学を卒業し、大学生活を過ごした池尻大橋で個展を開催し、東京を後にしました。その時、「新卒でフォト・ドキュメンタリーを撮る」という仕事を始めました。
一年目、東北の山奥にて
東京を出て、新卒一年目。僕は岩手県遠野市で「ビール」に関わる人々と時間を過ごし、ドキュメントし続けました。遠野での出来事だけで一冊本を書けてしまう(実際つくった)ので、ここでは詳細は省きます。ただ、最初の目的地に遠野を選んだことを今でも強く後悔するほど、あまりに強烈で濃密な時間でした。
視界はまだまだ悪いけれど、自分の進むべき方向は間違っていないだろう。なにより、遠野で出会った人々に顔向けできないような生き方はできないなと思える、大切な第一プロジェクトでした。
やはり僕は、手触りのある、人間らしい営みを求めて、旅を続けたい。その場所で生きている人々と同じ時間を過ごし、その地の知恵と生活をフィジカルに体得したい。そんな世界をことばと写真でドキュメントし、あなたに伝えたい。それはすぐお金になるわけでもなければ、社会的に賞賛されるわけでもないだろうが、「今、自分のすべきこと」だという確信はある。
いわゆる新卒で写真を撮り始めて、ようやく一年目を終えました。そして二年目にかけて新たなプロジェクトを始めようとしている今、改めて強くそう思っています。
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📚写真集を出版しました。
🖋イラストを描いています。
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