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丁寧に感じていく

「やりたいことをやる」の風潮に流されて、いつの間にか何かをすることばかりを求め、気がついたら何かを探し続けている。

それもダメではないけれど、知らないうちにそうなってしまうから、いつでもゼロに立ち戻ることだけは忘れないようにしたい。

狂ったように、やりたいことをやり続けて、無双していく。

そんな日々も、終わってみれば愛おしい思い出ではあるものの、ずっとそのまま突き進んだところで、いつかどこかで転んで、大怪我をしてしまうから、丁寧に生きる感覚も取り戻しておきたい。

武田双雲さんの、「丁寧道」が、「動く瞑想」のような効果があって、結構楽しかったりする。

細かいことは考えず、激しく動いて、乱れも生み出しながら、大きな流れとなって、乱雑なように見えるその動きも。

小さなことをゆっくりと、丁寧に味わいながら、整えながら進む動きも。

そのどちらかが正解ではなく、どちらも正解。

時には強く激しく、時にはゆるやかに柔らかく。

静と動、柔と剛。

どちらも含めて、ひとつの大きな流れとなり、エネルギーの運動となり、宇宙の一部と一体化出来るのだから、丁寧に動くこともまた、再び勢いよくジャンプするために必要なもの。

今は少し、目の前にあるものを丁寧に感じていきたい気分だ。

ブログ運営や、noteの更新なども、様々な人たちの発信を見ていると、魅了されるものはいつも、丁寧に思いをのせて、きちんとしたクリエイトが成されている。

過去にも、意味のない記事を量産し続けて、無駄に時間とエネルギーを消耗していたこともある。

焦っていたのだろう。

仕事においても、シャープで切れ味の良い仕事をこなし、沢山のタスクをサクサクとこなしていく人。

いわゆる仕事が出来る人というのは、一見すると多くのことを高速でこなしているようにも見えるが、それは結果的にそう見えるだけで、実はひとつのタスクを丁寧にゆっくりとこなしているだけだったりする。

焦ってアレコレと手を出し、多くのタスクをこなそうとして、バタバタと走り回っている人に限って、どれも終わらせることが出来ずに、結果的に1日でこなした仕事量が少なかったりする。

それだけならまだしも、この後者のタイプは仕事をこなすどころか、増やしたりする。

もちろん、私もそうなることはあるので、そういった自分も、そうなってしまっている他人も、やはり愛おしく思える。

今でも、ブログやnoteに関しては、あれやこれやと発信ばかりに気を取られて、更新するばかりになっているが、コンテンツの質が低く、伝えたいことがボヤけた記事を量産し続けているような感覚がある。

今の自分も、未来にいるいつかの私が振り返り、目も当てられないその在り方に、微笑ましいような愛おしさを感じるかもしれない。

けど、生きることとは、そんなものなのだから、今はそれでいい。

今日という日は、とにかく丁寧に感じていたい日。

外では色んなことが起きているし、連休で賑わっている人たちもいる。

それはそれとして、私もわざわざそこにまみれて、ネガティブになってみたり、ポジティブなリア充を演じる必要もない。

庭へ出て、もうすぐ終わる夏を感じていたい。

立秋を過ぎた日から、朝晩は少しだけ涼しくなったのを感じた。

人工的な何かに魅力を感じて、液晶やエアコン、アガる音楽や人ごみにまみれてた頃は、そんなことすら感じてはいなかったし、気付きもしていなかった。

変わり行く季節とともに、少しずつ変わっていく景色。

ずっとそれはそこにあったのに、突然それは現れたように感じた。

それは、私がその世界に生きて、見えていなかった、聞こえていなかっただけだ。

それもまた、愛おしい過去であり、今目の前にあるものの全てに気付けるまでのプロセスなのだから、大切な思い出たちだ。

ここへ導かれるために、私たちは生きているのかも知れない。

今日1日を、今ある全てを感じて、丁寧に生きてみようと思う。

そこには恐らく、もっと素晴らしい何かが待っている。

そんな気がする。

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