「茗荷谷の猫」 木内昇
「移ろうから、儚いから、美しい」
「茗荷谷の猫」 木内昇
「茗荷谷の猫」
今まで読んだ小説とは、少し空気感の異なった小説でありました。
場所は東京の町。時は江戸時代の終わり頃から、昭和39年頃。ちょうど東京オリンピックの頃までの長い時間を描いた連作短編集です。
ただ、各章の話が東京の町の長い時間の中で、登場人物も違っているのに、ほんの少しだけ繋がっているというか、袖振り合っているというか、風がさらっと頬を撫でるくらいに繋がっているのです。
この本は、以前に記事で書かせていただいた「一万円選書」で送ってもらった本のうちの1冊であります。
自分自身の思いを選書カルテに書いて、それを「いわた書店」の店主・岩田さんが読み込み、選書してくださったものです。
僕は5年前に病気になって、死を意識したときのことや、そのときに感じたそれまでの人生において、意義のあることを何も為せなかったこと、家族と別れる辛さ、くやしさ、寂しさが、死の恐怖よりも大きかったことを、選書カルテに書いて送りました。
そして
送られてきた本「茗荷谷の猫」の最後の方を読んでいると、ふと、岩田さんがあるメッセージをくださったように思えたのです。
この小説は、明確な結果は書かれていません。淡々と進んでいくだけです。
ひとつの話の主人公がその後どうなったかも、風の便りのように(さらっと風が通り過ぎていくように)触れられているだけです。
人生は、そのようなものかもしれない。
人生は、自分の思うようにはならないのですね。ただ、思うようにならなくても、この物語の人たちは自分の思い入れのあることにだけ、心を込めて生きています。
その思いは人生にとって、いかに大きいものであるか。
そして
その時に感じる「刹那の震え」のような感覚を味わうために、人は生まれてきたのではないか?「何かを為すためだけに生まれてきたのではない」ということ。そんな気づきを得た本でありました。
◇
武士の身分を捨てて町人になった徳造。
徳造は、園芸や草木の奥深さ、おもしろさに取りつかれます。
彼はいくら学んでも、その興味は尽きませんでした。
そうして植木屋に弟子入りし、店を持つまでに。
それを妻のお慶に告げたとき、彼女は膝をついた姿勢のまま、半開きの口をかすかに動かしただけでした。
妻のお慶は、ここから変わってしまうのです。
お慶は裏店にこもったきりで、部屋の奥まったところに座り、一日中壁に向かって針仕事をしているだけ。
徳造は、それにもかかわらず植木に精を出しました。儲けようとも、店を広げようともしませんでした。徳造は店の仲間から「兄ぃ」と呼ばれるようになり、頼りにされました。
その植木仲間に、徳造はこう言います。
徳造はひまを見つけては、山桜を見て歩き、その枝を持ち帰ってきて、接ぎ木や挿し木にしました。
一度だけお慶が、その桜の鉢の前にジッとしゃがみこんでいました。興味を持っているようにジッと。
徳造が言うと
とお慶は呟きました。
それからも徳造は、掛け合わせの桜に没頭しました。これがうまくいけばお慶は元通りになると。
徳造の桜は「吉野桜」といって評判になりました。
徳造の吉野桜は広く知れわたり、彼に「富がもたらされる」とまわりは思ったでしょう。
しかし
彼はその苗を安価で分け与え、新種の桜にその名を冠すこともありませんでした。
植木仲間は心配して言います。
すると徳造は
今、「染井吉野 由来」で検索すると
「ソメイヨシノ」は、染井村(豊島区駒込)の植木屋が江戸末期に「品種改良した園芸の品種」だと出てきます。
この言葉がズシリときました。「何をも為すことができなかった」と後悔していた自分に言われた言葉のようでした。
結果はどうなったっていいじゃない。
その瞬間を感じて生きていればいい。と。
お慶が亡くなったのは、「染井吉野」を造ったその秋口でした。それからも徳造は、お慶をそばに感じようと生きていました。
この話以外も、東京の地で「瞬間」を精一杯生きようとした人の話が続いていきます。
明確な結果はありませんし、何も明確に残ったものはありません。
日常を暮らした息遣いが聞こえてくるだけです。
そして
少しだけ風に乗って、染井吉野の桜の花びらが、各章の中にひらひらと漂っているのです。
とくに印象的だった話が
「庄助さん」
「庄助さん」は映画が好きで好きで、映画のことばかり考えていて、いつか自分の映画を撮ろうと夢を見ている若者「庄助さん」の話。好きな映画館に通っているうちに、その映画館で働かせてもらうことになります。
天にも昇る気分でしたが、その庄助さんも時代の波に翻弄されてしまいます。
「移ろうから、儚いから」
たとえ思うようにならなくても、「精一杯好きなことにのめり込んで一瞬でも感動する生き方は、悪くない」そう感じた話がこの本には詰まっていました。
【出典】
「茗荷谷の猫」 木内昇 文藝春秋
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