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正義と裏切りと偽善と真意

今日は久しぶりの大雨。でも嬉しいことに、今日はなぜか穏やかな気持ちで目が覚めた。昨日は何だか寝たくなくて夜中2時まで起きてしまったのに。

ラマダンが終わり、お祝いをしようと外に出かける予定だったけれど彼が体調を崩していたのでウーバーイーツでトルコ料理を頼んだ。食べながらコメディ映画を一緒に見ていたけれど、急に悲しいことを思い出してしまって、席を立ってトイレで泣いてしまった。彼は突然のことで、彼が私に何かしてしまったのではと思っていたようだけれど、私が少し落ち着いたら話すねと言って食事をまた続けた。

食事を終えた後に、私に何があったのかを彼に号泣しながら伝えた。(何があったかは長い話になるしあまりにもプライベートのことなのでここでは書くことを控えます)なぜ、優しい人がいつも傷つく側なのか、なぜ人は裏切るのか、私がここまでされなくてはいけない理由は何なのか、この世界は私が生きるにはあまりにも残酷すぎると話した。

この世界では今ほぼ半分以上の国が紛争や内戦・戦争をしていて、特に最近ではイスラエル・パレスチナ問題についてSNSでよく取り上げられている。少し前はイラン、その前はロシア・ウクライナ問題。その度にネットでは記事などが拡散されていて、私はそれを拡散することやデモに参加することは正義だと思っていたし、仮にそれを偽善者だと呼ぶ人がいても関心を持っていることを示すだけでも何もしないよりはいいのだと思っていた。

けれど、カナダに来てからそれも案外違うのかもしれないと思った。SNSでよく記事を拡散させているから、その人はいい人なのか?デモに参加しただけで何か人の命を救ったような気になって勘違いしているのではないか?

そういった活動をしている人の日常に注意を向けてみると、彼らは大抵エゴでそれをしているという悲しい事実が見えてくる。もちろん、全員ではないけれど。

社会心理学で「モラル・ライセンシング」と呼ばれるものがあるが、人は良いことをするとその後に悪いことをしてしまって、しかもそれを正当化してしまう。それがSNSでは特に蔓延している気がする。

例えば以前レストランで働いていた時、デモに参加した後の団体が来店してきた。彼らは彼らの同胞のために立ち上がったのかもしれない。けれど、彼らの日常に戻った瞬間どうだろう。彼らはサーバーに向かって失礼な態度を取ったり、自己中心的だったり、クレームを言ったりしていた。自分の一番近くにいる人に優しくできない人に、正義を掲げる資格なんてあるのかと怒りすら込み上げてきた。自分の同胞の人さえ幸せになれば、人を不快にさせてもいいのか。そんなはずがない。そういう考えだから、一生戦争は無くならないのだろう。

私は世界を本気で変えたい。だから一心不乱に勉強を続けて、それを諦めようとも思わなければ、それをいいことだとも認識していない。だってそれは私の使命だから。周りにいる人から幸せにしていく。すべてのことに感謝をする。人間として生まれた後に最初にもらうギフトは親からの愛情だったはずなのに、いつの間にか人はそれを忘れてしまう。

世界はあまりにも残酷で、あまりにも美しすぎる。

最悪な一日を過ごした人も、眠りにつく前には幸せでいてほしい。

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