おにぎり
テーマが思いつかなさ過ぎて新幹線で隣だったお姉さんに聞いた。
ヤバい人の質問に答えてくれてありがとうお姉さん。
「おにぎりを食べる」という行為は、実はとんでもなく高度な信頼の上に成り立っている。
…そんな気がする。
だって、
「外から見て中身が分からない」し、
「簡単に異物を混入できる」し、
「そもそも素手でがっつり触って作っている」のだから。
一昔前に、「友達の親御さんのおにぎりが食べられるかどうか」について、世間が賑わった気がする (https://bizspa.jp/post-267593/)。
逆に考えれば、これまでは気にせずに食べられていたのに。
最近の人々が拒絶し始めたのだ。
なぜだろうか、と考える。
僕は、特に気にせず食べられるが、「嫌だ」「ちょっと…」という人の気持ちもわかる。
多分、心のどこかで他人を信頼していないのだ。
一昔前までは、街、村などの地域コミュニティが機能し、人々はお互いに頼らなければ生活すら出来なかった。
それが、核家族化や都市化が進み、家族や友人などの最低限のコミュニティで過ごすようになった。
そして、今。
核家族どころか、一人一人で過ごすようになっている。
コミュニティも無理して入らなくて良い。
インターネットで買えば良い。
友達も。
知識も。
生活必需品も。
ぜいたく品も。
全部、一人で手に入れられる。
そんな、一人一人に壁がある世界で、「中身の分からない、知らない人が作った物」を食べろと言われても。
もはや、「よくお世話になったおばあさん/おじさんが作ったおにぎり」はそこにはない。
そこにあるのは、「近くに住んでいるかもしれないけど話したことのない人が作った何が入っているか分からない物」だ。
人間関係だってそう。
一人一人の時代が来て、心に壁を作る人が増えた。
もちろん僕もだ。
そのおかげで、自分らしさというものを保てていることも事実。
でも。
そんな時代だからこそ、僕は壁を乗り越えたい。
もちろん全員じゃない。
知り合えた人たち。
そしてこれを読んだあなた。
その壁を乗り越えたい。
何が出来るだろう。
信じることを諦めないことだ、と、僕は思う。
少なくともこちらが信じ続けることは出来る。
相手がどんなに心の壁を作っても。
どんなに信じてくれなくても。
自分はあなたを信じる。
そして、「あなたを信じている」と伝え続ける。
おにぎりを食べてくれないなら、目の前で自分が食べて、「あなたが喜ぶかもしれないと思って鮭を入れてみたよ」ときちんと伝えることだ。
初めは食べられなくて当たり前だと思え。
何度も何度もおにぎりを差し出しても、ずっと食べないかもしれない。
そういう時代だ。
でも、もしかしたら、何度目かで食べてくれる人がいるかもしれない。
そんな人の「美味しい」を、見てみたい。
「美味しくない」でもいい。
自分の差し出したものを受け取ってくれたあなたが見たいのだ。
だから、僕は言葉を搾り出し続けるし、伝え続けようと思う。
…あ、おにぎりから逸れた。
追伸: テーマを「おにぎり」にしてくれたお姉さんに感謝。どうかお元気で。名前も知らない人の幸せを祈れるのは、幸せなことです。
いつも読んでくださる方、初めてお目にかかる方、スキしてくださる方、サポートしてくださる方、みんな大好きです!!