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続・人生は友達で、友達が人生

(こちらの記事の続きとなります)

沖縄から帰る日だったか、その前日だったかに、国際通りの横断歩道の向かい側にいた原田郁子は、あまりにも一般人とは違う目をしていた。

ほとんどのひとは、何かを見ているというよりは、その場にいることに何かしらの気分になって、自分がそういう気分でいるつもりの顔をして、自分の気にしたいことに関係がありそうなものを漫然と探しているというくらいにしか目の前のものに意識がいっていない目をしている。

もしくは、見えてはいるけれど、何を見ているわけでもなく、ただ今の自分のストレス状態をうっすら顔面ににじませているだけの顔でぼんやりしている時間が起きている時間の大半を占めているような人も多いのだろう。

原田郁子は多くの人が普通に生活しているときの普通の目とは全然違う目をしていた。

自分が見たいものを見たいように見ている目ではなかった。

どういうつもりでもなく、目にしたものにどんなふうに気持ちを動かされてもいいというように、目の前がどんなふうであるかをただ見たり聞いたりしているような顔で信号を待っていた。

横断歩道で立ち止まって、携帯電話を見て、正面に顔を向けたら、吸い込まれるように、原田郁子がそこにいることに気が付いたけれど、そのまま原田郁子がそんな目をしてこっちに顔を向けていることから目を離せなくなった。

俺がじっと見たままになってしまっていて、目が合って、少しの間をおいて、怪訝な顔をされてしまったけれど、それまで、この人は人混みの中でこんな顔をしている人なんだなと、俺は多分感動していたのだと思う。

信号が変わって、そのまま原田郁子とは、間に何人かを挟んですれ違っていった。

あとで店に入ってから調べてみると、前日に石垣島かどこかでクラムボンがライブをしていて、やっぱり原田郁子だったんだなと思った。

そして、さっきの顔を思い出して、あんなふうにみんなの中に混じって、何をしているわけでもなく、信号が変わるのを待って立ち止まっているだけなのに、あんなにもみんなから浮き立ってしまうことになるんだなと、やっぱりすごいひとはすごいことをしているとき以外でもすごいものなんだなと思った。

クラムボンは、タワレコで視聴したのだと思うけれど、大学一年生のとき「パンと蜜をめしあがれ」をいいなと思って、アルバムを聞いて、それ以降ずっと聞いていた。

けれど、クラムボンのライブに行ったのは、沖縄に旅行に行った翌年のよみうりランドが初めてで、その時点では、生の原田郁子というのは、元カノに誘われて原田郁子のソロ名義活動のライブを一緒に見に行ったことが一度あるだけだった。

19歳の頃から二年くらい付き合った最初の彼女だったけれど、俺がクラムボンのCDを貸してあげて以降、その彼女もずっとクラムボンや原田郁子を聞いていて、付き合っていた頃はいろいろ忙しかったりお金もなかったりで、一緒にライブに行ったりもしなかったけれど、その後、生活が変わって彼女はライブに行ったりするようになって、俺を誘ってくれたのだ。

沖縄旅行の時点では、俺はPVもMVもほとんど見ないし、メディアへの出演情報とかも追ってないから、テレビに出ているのもほとんど見ていなかったし、ステージで見たのだって、一度、小さい会場とはいえ、ある程度離れたところから見ただけだったのだ。

それでも、自分でも驚くほど横断歩道ですぐに原田郁子だとわかったけれど、きっと、原田郁子だと気が付いたのではなく、目が引き寄せられてその人の顔を見ていたら、それが原田郁子だと気が付いてびっくりしたというのが実際のところだったのだろう。

もう書いたときの気持ちは忘れてしまっているけれど、「沖縄の国際通りの端の交差点で……」という詩のようなものは、そのときの驚きとか、すごいなという感覚を思い出して書いたものだったのだと思う。

けれど、その翌年行ったよみうりランドのライブというのも、同じ元カノと行ったのだけれど、それにしたって、俺がまだ落ち込んでいる感じだったから誘ってくれたのだろうし、我ながら長々と落ち込んでいたものだなと思う。

とはいえ、その頃というのは、むしろ元カノが仕事で精神的に参ってきそうだから愚痴を聞いてほしいと、ちょくちょくと一緒に飲んでいた時期だったのだ。

まだ昔とは同じには見えない俺ではあっても、不安感にずっとつきまとわれて、自分がやっていることにはっきりした手応えを感じられないまま、自分が日々の手探りしながら感じたことに何を思えばいいのかわからなくてもやもやしてばかりになっている、このままだと精神に異常をきたしてきそうな人の話を何度も何時間も聞いていられるくらいには、その頃の俺は回復できていたのだ。

それはどうしたって、沖縄に旅行に連れて行ってくれるような友達が俺にはいたからだったのだと思う。

同じように、その彼女がその頃の仕事の変化に伴う情緒不安定をそれなりな感じに乗り切れたのだって、どうしたって俺のような、もう恋人ではなくなって、友達の範囲でしか接しないとしても、すぐにはどうにもならない不安感にいつまでも付き合ってくれるような、自分のためになんだってしてくれる友達がいたからなのだろう。

もしも、俺にそういう友達がいなかったら、俺は彼女と別れたあとのショック状態を、どういう割り切り方で乗り切ることになったんだろうなと思う。

彼女と別れてからの数カ月間、あんな気持ちにさせられるのなら、そして、どうせこの先もそういう気持ちから抜け出せないのなら、もう別にこれで終わりでよくて、別に何もこれ以上体験できなくていいのになと思って、ずっと自分の中に生きていたいという気持ちとか、何かを楽しみにしている気持ちや、これから経験したいことが何かないのかと自問自答して、そういうものが何もないことをそのたびに確かめて、脳が酸欠になるみたいに眠くなっていつの間にか眠っているということを繰り返していた。

もちろん、寝てすっきりなんかしないのだ。

目が覚めると自動的にさっきの続きを頭が考え始めて、そして、何度考えても、ずっとほとんど同じことを同じように考えているだけなのだ。

自分が何かを思っていることがすべてムダだし、むしろ思わないほうがいいことしか思っていないような気持ちにすっぽりと包まれたままになった数ヶ月だった。

誰に会いたいとも思っていなかったから、誰にも会おうとしていなかったし、誘われたら出かけて相手に合わせて喋っているだけだったから、そうなるのは当然だけれど、俺がそんなふうに生きたい気持ちが何もないことばかり確かめて時間を過ごしていることを、そいつ以外、誰も叱ってくれたりはしなかった。

そいつは、俺がそんなふうであることに怒ってくれて、そんな顔するなとか、そんなこと言うなと、本当につらそうにして、泣きそうになりながら怒っていた。

その場では突き放したけれど、そいつがタクシーで帰っていったあと、あいつがそんな気持ちになるのをあいつの勝手だと思うことは自分にはできないし、そうなのだとしたら、そういうことを思うのはやめないといけないんだなと思ったのだ。

自分には友達がいて、友達が今の自分にそんなふうに気持ちを動かされて、こいつのために何でもしてやろうと思って、怒ってくれていたのだ。

そいつがそんなふうに思ってくれているのだから、それは受け入れないといけないと思ったし、だから、沖縄旅行だって、すんなり行くと答えたのだ。

そういうことがあって、自分の中には生きてこの先何かを経験したい気持ちがないとか、とりあえずそういうことを考えるのはやめることにした。

とりあえずそういうことを考えるやめたうえで、いつかまたどうしてもそう思うようになったら、そのときこそやめてしまえばいいんだと思って、旅行に行ってぼんやりして、帰ってきてからは、ちゃんと生きていなくていいなということを考えるのをやめたのだ。

だから、俺が書いた詩のようなものでは、今日もまだ生きている、となっているのだろう。

考えるのをやめたけれど、生きていること自体、そういう友達のせいにした空っぽな理由で保留していただけの状態だったのだ。

そして、そんなふうに、求めるものが何もなくなってしまっている心のままでも、信号が変わるのを待っている原田郁子には目を奪われたのだ。

空っぽの中で、それでも、こんな目をした人が、俺を見て、この人はいいなと思ってくれたのなら、そんなにうれしいことはないんだろうなと、そんなふうに思えたのだ。

それだって、俺が同じことばかり考えて眠くなる状態ではなく、友達がずっと一緒にいてくれて、沖縄の初めての景色の中をドライブしてくれている間、andymoriを何度もあてもなく口ずさんでいられたから、その瞬間にそんなふうに、自己憐憫なしに、まっすぐに目の前の何をしているわけでもない原田郁子を素敵だと思えたのだろう。

そういうことの全部が、友達のおかげだったのだ。


人生というのは友達だろうと思う。

いつだったか、その場に父親がいなかったから、この10年以内のことだと思うけれど、実家に帰って、テレビを見ていて、テレビの中で喋っている内容があほらしすぎて、「友達が人生やのに何言っとんねんこいつらは」というようなことを言ったら、母親が何をご冗談をという感じで「そんなことないでしょ~」と言ってきて、「はぁ? 友達が人生やろ?」と弟に振ったら、弟はうんうんと頷いていた。

そのあと話がどんなふうに進んだかは忘れてしまった。

けれど、自分で弟にそんなふうに聞いておいておかしいけれど、弟がそうやって、友達が人生であるという物言いに、当たり前のことのように頷いているのは、それが本当だからしょうがないにしても、弟のような境遇ですら、その本当のことを見て見ぬふりはできないんだなとうんざりさせられることだったりした。

母親は、友達が人生と言われて、別にそんなことはなくて、家族のために生きているだけで充分忙しく充実した人生になるとか、そんなふうに思ったのだと思う。

けれど、弟というのは、高校を卒業して以来、高校時代の部活の仲間以外に友達付き合いのある人間がいなくて、もうこの十年、友達付き合いはその高校の部活の仲間と年に一回か二回集まるくらいしかなくて、友達と半日一緒にぶらぶらしたり、じっくりと二人とか少人数で何かの話をしたりすることは、大人になってから一度もなかったような人間なのだ。

それでも、弟にとっては、友達が人生だったのだ。

大学も家から通って、サークルも入らず、特別誰とつるむこともなく4年が過ぎ、何箇所か住み込みで働いていた時期以外はずっと実家で暮らしてきて、大人になってからはひとりの友達もできなかった弟にとってすら、そうやって家でテレビとかパソコンの画面を見詰めていたり、その家の息子としてあつかれている時間は、さほど人生らしい人生には思えない時間にしかならなかったのだ。

秋葉原のときだったか、無差別殺人があったとき、殺した人はどうしてそんなことをすることになってしまったのかということを学者とかジャーナリストが話していて、友達がいなかったからなんだろう、という話になっていたけれど、たしかにそういう問題なんだろうなと思った。

弟は親からは嫌なことをされなかったし、高校時代の部活の仲間たちはみんな結婚して子供がいたりして、弟はそうではないとしても、年に一回は集まれているようだし、そこでぎりぎり友達がいないわけではなかったと思えていることで、あまりにも思うようにいかなかった人生に、逆恨みするような感情を積もらせずにすんでいるのだと思う。

もちろん、弟は最初の会社で苦労して、精神に異常をきたしていたときも、ずっと耐えるしかなかったし、最寄りの地下化鉄だと始発でも間に合わない現場なのに前泊させてもらえなくて、父親に車で送ってもらってJRの始発に乗っていたような頃も、ひたすら耐えているしかなかったのだ。

親に仕事のことを聞かれたら、聞かれるままに答えてはいたのだろうけれど、つらいときに自分の気持ちを気持ちを乗せて話せたことなんて一度もないまま、精神的にもたなくなって仕事も辞めたし、辞めたあとはしばらく何もできないで家でじっとしていたし、そういう友達がいなかったことで、そのまま精神に異常をきたしてしまったということでもあるのだろう。

俺はそうではなかった。

俺にはたまに集まる友達だけではなく、恋人として特別扱いしてくれるひとだけではなく、俺が苦しいのなら俺のために何でもしてあげようと思ってくれる友達がいたのだ。

そういう友達がいたからこういう人生になったわけで、少なくても俺にとっては、友達が人生なのだ。

逆に、家族が人生であるような人生は、どういう人生なのかということなのだろう。

ケアラーとして生きなくてはいけなかったひとの多くは、そこで経験したことが無駄だったとは思っていなかったとしても、自分の人生の多くがそこで奪われてしまったように感じていたりするのだろう。

友達が人生というのはそういうことで、そういう意味では、友達夫婦だとはまったく言えないような夫婦関係の人が、家の外に友達と言えるほどの友達がいないときには、子供との関係性に依存してしまったり、また別の地獄があったりするのだろう。

実際、母親は、友達夫婦的なところがあった父親と離婚して、友達親子的な関係ではない弟とずっと二人で暮らしているけれど、何を思ってもそれをまともに話したりできなくて、ずっとぶつぶつ独り言を言い続けることしかできない日々を過ごしているのだと思う。

母親にまだ定期的に会ったりする友達がいるのかどうかわからないけれど、家族ということでは、孫を望むにも、弟は彼女すらできたことがないままで、家の中の自分ということでは、もうずっとそのままテレビを見ながらぶつぶつ言うことしかできずに呆けていくことしかできないことが決定づけられているようなものなのだ。

友達と一緒だったからそんなところに出かけていって、友達と一緒だったからそんな気分になれたということが、自分の人生の中の人生っぽく感じられる思い出になってくれるのだし、そういう瞬間の中で自覚した自分らしさを人は自分だと思いながら生きていくのだろう。

そんなふうにして、人生は友達で、友達が人生なのだと思う。

29歳のときに書いた、原田郁子と国際通りの横断歩道ですれ違ったときの詩をたまたま読み返して、そんなふうに思った。

そのとき、俺を沖縄に連れて行ってくれて、終わりのない感傷に沈み込んでいた俺を、まともに目の前の景色を眺めていられるくらいに、楽に息ができる気分に引き上げてくれた友達がいて、その友達は、10年前少し前からの友達で、10年ぶりに俺を旅行に誘ってくれたのだ。

それが人生なのだ。

そんなふうに思いながら、もう別に何も楽しみなこともないのに、俺は今日もまだ生きているのだ。


(終わり)


(直接的な続きではないですが、この詩のようなものに続いて書いたらしき詩のようなものについての記事)



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