ものすごいきてぃがい

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ただ在る、という事しかできない

人生については散々に煩悶してきたのだけども、結局突き詰めると「ただ在る」しかないのだろうなって思う。 人間の能力はこの宇宙を知るにはあまりにも矮小で、だから宇宙を知ろう知ろうとすればするほどに虚しいし、真実を知ろう知ろうとすればするほどに虚しい。 理性でごちゃごちゃと計算して小賢しく真実に肉薄しようとすればするほどに虚しい。 この世には所謂賢人と俗人がいて(ショーペンハウエルとかオルテガとかエドワードギボンとか、古今東西の賢人たちが散々に語り尽くしてきた“アレ”である)

    • 荒れてる人に優等生の論理を押し付けてもうまくいかないよ?って話

      「自分はエリートで立派で正しい考え方ができている」「だから周囲のアホ共を啓蒙して正しい道に導いてやらねば」的な事をシラフで考えてる自覚なきアホ……つまり優等生…或いはリベラル的な人に言える事は、 「荒れてる人に優等生の論理を押し付けてもうまくいかないよ?」って点。 個人的には、ここまで理解できてはじめて「本当の意味で知的な人物」だと思うので、この点を理解できていない世間の大多数のエリートやリベラルは、アホだなーと思う。 特にマスコミ系にはこの手の人材がほんと、はいて捨て

      • いちばん有意義なお金の使い方は、本の購入だと思う

        30年生きてみて思うのが、いちばん有意義な(コスパのいい)お金の使い方は本の購入だろうな~って思う。 一円あたりで得られる価値がダントツというか。 要は知識にお金を掛けるのが一番いいよね(魚をもらうより魚の釣り方を教えてもらう方がいい云々)って話なのだけども、これが例えば大学をはじめ学校に通うとなると、コスパはガクッと下がる。 世の中には独学で賄える分野も多いので、そういう分野を学びに態々大学とかに行くのは極めてコスパが悪い。 胡散臭いセミナーとかにしても、そんなセミナー

        • 一家言のある匿名個人のカッコよさについて

          一家言のある匿名個人なんてのは、今やネットではほとんど見られなくなってしまった。 ※スマホを通じて初めてインターネットに触れた新参者はこの辺良く知らないと思うのだけど、15年前前後ぐらいまではネットはもうちょいディープな世界で、ネットでしか見れないような深くてマニアックな創作物が多く見られたのだ。 その喪失感を埋めるかのように、僕は僕自身で駄文を製造している。 僕が文章を書くのは「読んで欲しい」以上に、「自分で書いて、自分で読みたい」からだ。自分が読みたい文章を誰も書いてく

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        ただ在る、という事しかできない

          アメリカには自由がないからこそ、アメリカ人は自由を叫ぶ(という仮説)

          最近はアメリカの日本に対するサブカル方面での干渉が強すぎるために、嫌でもアメリカの国民性について考察する羽目になる。 なぜアメリカ人はあそこまで強迫的かつ傲慢なのか? なぜヒーロー願望に苛まれているのか? なぜ容易に論理破綻を来すのか? なぜ自制や禁欲、理性主義をやたらと好き好むと同時に、他者(他国)にもそれを強制したがる国民性の割りに、肥満率が高いのか? ※自分の食事量すらコントロール出来ない人間達が語る自制や禁欲、理性主義などに説得力はない、と感じてしまうのは、僕

          アメリカには自由がないからこそ、アメリカ人は自由を叫ぶ(という仮説)

          幸福になんてならなくていい。というかなりたくない。幸福というより、意義のある人生を生きたい。例えそれ(意義)が幻想でも。

          岡本太郎は自著の中で『「幸せなら手を叩こう」と歌っている若者を見ると蹴飛ばしたくなる』みたいな事を言っていた(うろ覚え)。 世間一般に言われる「幸せ」というものが得てして狭い自己保身の産物でしかなく、そんなものに安住しているような連中(まして若いうちからそんな世界に逃げ込んでいる連中)は、碌なもんじゃない。という事だ。 二十代前半に岡本太郎の書籍に触れて以来、太郎のそんな思想に僕はうっすらと共感してきた。 ただ、それが確信を伴うハッキリした共感にまで昇華される事はなかった

          幸福になんてならなくていい。というかなりたくない。幸福というより、意義のある人生を生きたい。例えそれ(意義)が幻想でも。

          天才は露ほども自分を曲げてはならない。

          天才は、露ほども自分を曲げてはならない。 なぜなら天才は精密機械であり、僅かな綻びが全体のパフォーマンスを死滅させるから。 僕は僕自身が天才なので、そのあまりの孤独感からロールモデルを探し求め、天才のケーススタディをしまくってきた。 その結果得られたのが、上記の結論である。 天才の人生に常についてまわるのが、妥協すべきか?すべきでないか?という葛藤。 世間の圧倒的大多数を占める(エリートを含めた)凡人達と折り合いをつけるべきか?つけないべきか?という葛藤。 この葛藤が

          天才は露ほども自分を曲げてはならない。

          平然と流行り文句を思考停止で使ってるライターは存在価値ない

          平然と流行り文句を思考停止で使ってるライターは存在価値ない。 だってその時点で「あぁこいつは普段から思考停止で生きてるんだな」って伝わるから。 平然と流行り文句を思考停止で使ってるという事は思考停止しているという事。思考停止しているライターが書く文章が低次元なのは自明なので、平然と流行り文句が思考停止で用いられているような文章は読む価値が無い。そんな文章を書くライターには存在価値が無い。というロジック。 僕は思考好きなので四六時中(は流石に言い過ぎ)文章や思想を追いかけて

          平然と流行り文句を思考停止で使ってるライターは存在価値ない

          むしろ不確実じゃない時代なんかあったかよ

          むしろ不確実じゃない時代なんかあったかよっていう。 あるわけねーだろアホかっていう。 昨今の文章を見ていると、プロアマ問わず、書籍やネット記事を問わず、どいつもこいつも「不確実な時代がどうの」とか言ってるけれど、お前らもうちょい頭使えよっていう。 何、付和雷同でなんとなく、思考停止で「不確実不確実」言ってるんだよっていう。 不確実って言っとけば「時代を的確に語っちゃってる俺すげー」と賢っぽく見られるってんでどいつもこいつも不確実不確実連呼してるんだろうけど、逆にアホっぽ

          むしろ不確実じゃない時代なんかあったかよ

          「なぜ欧米人は“本心から”自然や正義を愛せないのか?」って言うと、それはやっぱりキリスト教の影響だよね。多分。

          上の記事で「欧米人は実は心の底から自然環境など愛していない」「上辺の正義ごっこでしかない」と指摘したのであるが、じゃあ更に論を進めて、今回は「じゃあ、なぜ欧米人は“本心から”自然や正義を愛せないのか?」を考えてみようと思う。 考えてみようっていうかもう既に僕の中では解答が出来上がっていて、それは多分、「キリスト教の影響」だよね…っていう。 無論これって全然僕オリジナルの論じゃなくて、めちゃくちゃ語りつくされてきた論点なのだけども。 世界の宗教にはざっくり言って「自然を対

          「なぜ欧米人は“本心から”自然や正義を愛せないのか?」って言うと、それはやっぱりキリスト教の影響だよね。多分。

          意地でも、確信犯でも、尖りつづけろ

          自分は強いて言うなら視覚芸術の分野が専門だ。 なので音楽に関しては「好き」という域を出ないのだけども、それでも長年にわたって視覚芸術に打ち込む合間を縫っては音楽を嗜んできた。 それで改めて思うけれども、結局世の中ってのは「こう」だ。 美と腐食は隣りあわせだ。 絵にせよ、音楽にせよ、それは変わらない。 絵の歴史が味わった屈辱は、音楽の歴史もまた味わっている。 いつの世だって、美に命をかける度胸と度量のある人間は稀なのだから、どうしたって「そう」なる。 ただボサッと生きて

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          「アンダーアチーバー」や「自称ギフテッドな凡庸エリート」の話には興味ないんだよなぁ

          僕はそもそもギフテッドブームに冷笑的なのだけども、ギフテッドという類型自体は便利なので本文ではそれに則る。 ギフテッドの人生には様々な困難がある。 だから「ギフテッド当時者がどのように困難と向き合い、克服したか」というテーマには(主にギフテッド当時者からの)一定の需要がある。 僕自身も盛大にギフテッド的な人間なのでその手の情報を必死に漁り、ロールモデルを探し回っていた時期があった。 しかしその手の情報を漁っていて思ったのが、「今回話を伺ったのはギフテッドのAさん…」で出

          「アンダーアチーバー」や「自称ギフテッドな凡庸エリート」の話には興味ないんだよなぁ

          動物の暮らしは持続可能的か?動物の暮らしは自由か?江戸時代は持続可能的だったか?

          動物の暮らしは持続可能的である。 動物は自由である。 それなのに人類は…。 江戸時代は持続可能的である。 それなのに現代日本は…。 耳が爆発する程聞いた言説である。 しかしこれらの言説は間違っていると、僕は思う。 まず動物は持続可能的ではない。 なぜなら太陽系は太陽の枯死とともに滅び去る運命にあるからである。 この地球環境は、動物の暮らしは、太陽という有限のバッテリーで駆動している存在に過ぎないのである。 つまり持続可能的ではない。 この観点から言えば、宇宙開発を

          動物の暮らしは持続可能的か?動物の暮らしは自由か?江戸時代は持続可能的だったか?

          結局何事も泥臭くやっていくしかない

          改めて思うに、結局何事も泥臭くやっていくしかない。 状況をインスタントに改善するマジックなんて、存在しない。 と同時にこの際に重要になってくるのが、何事も泥臭くやっていくしかない以上は、「率先して泥臭く取り組める事」……つまり「心の底から好きな事」に取り組むのが大事だ。という事なのだと思う。 心の底から好きな事ならどれだけでも泥臭くやれる。だから気付いたら問題を解決できている。 好きでもない事には当然、泥臭くなんか取り組めない。サボる事ばかり考えてしまう。だからマジックに

          結局何事も泥臭くやっていくしかない

          僕が変なファッションをする理由

          僕のファッションは(一般的価値観から言えば)、変だ。 三十路男なのにどちらかと言うとレディース的な…というか女性ですら逆に避けがちなカラー(パステルピンクとか小学生女児が着てそうなブルー、パープルとか)を好むし、ノースフェイスみたいなコテコテの人気ブランドを着る事もあればやたらに通好みな服を着る事もある。ゴテゴテの花柄も好きだ。 サンリオのキティちゃんとかマイメロが好きなので、それらのグッズも普通に普段着に取り入れる。やたらにマイナーなマスコットに執心したりもするので、そん

          僕が変なファッションをする理由

          衰退ポルノマンは、「自分」しか見えていない。

          衰退ポルノマンは、「自分」しか見えていない。 自我に視野が閉じこもっている。 つまり視野が狭い。 視野が狭いのに、国家の存亡などという壮大なテーマを語った気になっている。 それが、滑稽である。 上の記事などは衰退ポルノマンの滑稽さ、視野狭窄、自我没頭が非常にわかりやすい。 上の対談において、ハイセンスジャパンの李文麗社長が何度も日本をヨイショしてくれているのに、相手のDeNAの南場智子会長(経団連副会長でもある)はそれを悉く遮るように何度も衰退ポルノをかましている。

          衰退ポルノマンは、「自分」しか見えていない。