一家言のある匿名個人のカッコよさについて

一家言のある匿名個人なんてのは、今やネットではほとんど見られなくなってしまった。
※スマホを通じて初めてインターネットに触れた新参者はこの辺良く知らないと思うのだけど、15年前前後ぐらいまではネットはもうちょいディープな世界で、ネットでしか見れないような深くてマニアックな創作物が多く見られたのだ。

その喪失感を埋めるかのように、僕は僕自身で駄文を製造している。
僕が文章を書くのは「読んで欲しい」以上に、「自分で書いて、自分で読みたい」からだ。自分が読みたい文章を誰も書いてくれないので、自分で書いている。要は自給自足。


そんな現代ネットであるけども、極稀に一家言のある匿名個人に出会う。

そういう時は、心底しびれる。

その人でないと書けない文章。
その人ならではの視点(←別に統計学的に正しい必要もない。統計学的に正しげで一見科学の体裁を取る主張に限って碌でもないと相場が決まってる)。
その人ならではの熱量。

ネガティブな内容にせよポジティブな内容にせよ、その人が本当に心の底からそのテーマを愛していて、必死にしたためたことがわかる熱文。

こういう文章から得られるエネルギーは、プロの文章では代替できないのだ。



僕はそういう人々の擁護者であるために、まず自分自身が「そう」であるように日々努めようと思う。
自分自身が「そう」でないと、そういう人々の擁護者足り得ないからだ。

他者に寛容であるためにはまず自分自身に寛容である必要があるし、他者の自由を擁護するためにはまず自分自身の自由を擁護する必要がある。

これが出来ていない人間が非常に多い。

自分自身が制約にがんじがらめに生きているから、自由に言動する他者を許せずに、「お前も俺と同じ苦しみを味わえ」とばかりに、他者を抑圧する。


こういう人々にウンザリして、一家言のある魅力的な匿名個人は発言をやめていく。


ベラベラと熱い事をしゃべる匿名個人を擁護するために、まずは僕自身が日頃からベラベラと熱い事をしゃべっていきたい。「いきたい」っていうかとっくの昔から実践してる。
だから一家言のある匿名個人を素直に賞賛できる。

だから僕はこのままで、今の状態を維持して思索にふけっていきたい。